18-5
鞘から引き抜かれたナイフの表面には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
「……メリカント寺院の紋章だな。エルヴァスティの魔術師か」
クラウスは独り言にも等しい声で呟き、黙々と治療にあたる黒髪の少年を見る。騒々しさの残る庭園の片隅、急遽こしらえた天幕で大公の治療に当たっていたリュリュは、手際よく包帯を巻きながら口を動かした。
「ご存知でしたか」
「ああ。古の賢者アイヤラが愛した地だ。かの国では優秀な魔術師が今も育つと聞くが──」
そこでクラウスはちらと少年の手元を見遣り、微かな笑みを浮かべて告げる。
「噂通りだな。礼を言う」
精霊術師の祖たる賢者の名を東大陸の人間から聞くのは意外だったが、そんな驚きをおくびにも出さずにリュリュは黙礼を返す。
水の精霊によって止血した大公の右腿には、重ねて消毒も施しておいた。激しい運動は厳禁だが、歩行ぐらいなら十分に可能だろう。包帯の端をナイフで切り落としたリュリュは、救護室から借りた治療道具を元通りに片付けていく。
「これからどうされるおつもりで」
「グレンの身柄を確保し次第、大司教も拘束する。騒ぎが大きくなりすぎた以上、奴の計画を洗いざらい吐かせる必要があるからな」
クラウスの迷いのない返答に、リュリュは少し安心した。この大陸の人々は少年の故郷とは違い、神に依存する傾向が強い。神々の代弁者たるメム=アステアにも同様の畏怖を向ける者は少なくないのだが、目の前にいる大公に関しては無用な心配だったらしい、と。
先頭に立つ者が毅然としていればいるほど、後ろに続く人々の覚悟も決まるというものだ。リュリュは救急箱をきっちりと閉じてから、おもむろに立ち上がった。
「ヒルデ嬢の元へ行くのか?」
「はい。伯爵令嬢とグレンに恩を返したいと──彼女が言ったので、僕も手伝います」
「君自身はそれほど乗り気じゃないと」
くっと喉を鳴らして笑うクラウスに、リュリュは特に否定もせずに瞼を伏せる。
実際、明らかに面倒かつ厄介な問題に、余所者の身で首を突っ込む気は毛頭なかった。とは言え、光の神々と暗黒の対立を起点とした長き歴史が転機を迎えようとしている今、この騒ぎに見て見ぬふりをするわけにもいかず。
──暗黒とは何なのか、それを知るためにリュリュはここまで来たのだから。
「……おや? また会ったね」
天幕を辞するや否や、リュリュの耳に届いたのはぞわりと背筋を撫でる声。
揶揄やあざけりといった悪意の声とは違う。リュリュが故郷で散々向けられたものほど、そこに込められた感情は分かりやすい類いではなかった。
そっと天幕の仕切りを閉じつつ視線をずらせば、やはり。
桔梗色の髪と、柔和な笑み。手にした大きな杖で石畳を軽く突いたその男は、にこりと会釈をして見せた。
「大公殿下とお知り合いだったんだね、驚いた」
「……そういうお兄さんは、帝都の学院で講師を務めてるんじゃなかった?」
なぜ皇宮にいる。訝しむつもりで尋ねた少年に、男は嬉しそうに笑うのだ。
「覚えていてくれたとは。……皇女殿下に歴史や神学をお教えする機会を得てね、今はそんな状況ではないけれど。それで──今度こそ自己紹介はしても良いのかな?」
差し出された手のひらをじっと見詰めて、リュリュは男の横を素通りした。おやと振り返る気配を後ろに感じながら、ぶっきらぼうに告げる。
「したら? 僕は急ぐけど」
相手がエルヴァスティ貴族だったら唾を飛ばして怒る場面だろう。それぐらい酷い対応だったが、男は特に気分を害した様子もなく、少年の斜め後ろ辺りにやって来た。
「私はタイナと言うんだ。ノルドハイム学院のしがない教師で、聖遺物の実地調査にも加わることがある。セレニ高山で君と会ったときは……まあ、調査でも何でもなくてただの観光だったけども」
タイナは周囲の喧騒をのんびりと眺めながら、教師と言うだけあって聞き取りやすい滑舌で語る。
しかし、皇族に知識を与える立場に選ばれておきながら、組織の末端を自称するとは笑えない謙遜だ。同職の者から嫌味と捉えられてもおかしくない。
「この前は驚かせてしまったみたいでごめんよ。あれじゃ不審者と思われても仕方ないな。でも、どうしても君の様子が気になって……」
リュリュはすれ違う兵士を避けつつ、大袈裟に首を傾ける。
どうせこの男はセレニ高山での出来事を掘り返したいのだろう。“青き宝”を見た少年が、ひどい顔色で硬直した理由を。
無論リュリュにそれを答えてやる義理はない。そもそも。皇宮全体が終焉だ欠片だと騒いでいる中、聖遺物との奇妙な接触を明かすことは危険以外の何物でもないだろう。
──それが分からぬほど愚かではないのなら、リュリュはこの男への認識を更に悪い方向へと改めねばなるまい。
一向に取り合おうとしない少年を見て少しは諦めがついたのか、やがてタイナは困ったように肩を竦めた。
「ああ、気分を害したかな。興味のある人にはどうも喋りすぎる癖があって……静かにしてくれとよく言われるんだ」
「そうだね」
「手厳しいな。でも、最後にこれだけ聞かせてくれないかな」
「もう以前の名は使わないのかい?」
碧海の瞳を大きく見開いた少年は、抗えぬ驚愕に肩を引かれ、後ろを振り返ってしまった。
タイナはその麗しくも幼い顔立ちをした少年に、親しげな笑みを差し向ける。それはまるで、近所に暮らす知人と挨拶を交わすような、ひどく穏やかで──不気味な顔だった。
「……何で」
「え?」
「何でお前がそんなことを知ってる」
リュリュは外套の内側からナイフを半分ほど引き抜き、警戒を露わに後ずさる。
しかしタイナは少年の様子を不思議そうに眺めるだけで、自身の異常さをひとつも理解していない声音で続けるのだ。
「どうしたんだい、そんなに青くなって」
「答えろ。僕のことをどこで調べた。西大陸の人間だったのか、お前……!」
「お、落ち着いてくれ、ティハ──」
「呼ぶなッ!!」
声を張り上げると、遅れて心臓が跳ねた。血が沸き立つような激しい動悸に呼吸を乱せば、周囲の驚く顔が視界に映る。
取り乱しても良いことはないと分かっていても、とても冷静ではいられなかった。タイナが途中まで言いかけた名前は、確かに自分のもうひとつの名前だったのだから。
「僕は大巫女ユスティーナ様の跡を継ぐ者、リュカ・フルメヴァーラだ。二度と、その忌々しい名を口にするな」
鋭く言い放つや否や、踵を返した少年は震えた息を吐く。
人混みの上を舞うのは火の粉と塵であるはずなのに、視界の端々には降ってもいない白雪がちらつく。それが記憶の奥底に沈めた過去の残滓だと気付けば、ふわりと少年の指先が冷たくなった。
『いいか、リュリュ』
一面の雪を見据えたまま、養母であるその人は静かに語り掛ける。腕に抱いた幼子を厚手の布に包み、橙色を灯す暖炉へと歩み寄って。
『その名を知る者はもういない。だから……全て忘れてしまえ。例えそれが祝福であったとしても、そなたには呪いにしかならぬ』
少年について記された報告書を、まとめて火に焼べる。養母の手から離れたそれが黒く焦げ、ゆっくりと縮みゆく様は、今日まで送ってきた日々が燃えていくようで。
『もしも、そなたの名を口にする者が現れたのなら、それは──』
──そなたを害する者だ。
ユスティーナは全てが火の中へと飲み込まれたことを確かめて、眠りに落ちた少年を暗い部屋から連れ出したのだった。




