15-1
『──こりゃあ、凄いな』
乾いた大地が湿り気を帯びる。
曇天へと伸びる凹凸だらけの岩壁を、細い線のような水が伝い落ちる。絶えることなく滑り落ちた水は、ひび割れた地面をひたひたと潤して、痩せこけた土をほぐしていく。
物寂しい景色の中、気付けば誰かがこちらを見下ろしている。この薄暗く、陰にしかなり得ない渓谷の底、鼻先から、顎から、指から水を滴らせながら。
『……寒いだろう。こんなところで……』
ふ、と冷たい水が止む。炙るように熱い温度が背を包めば、途方もない痛みが襲う。しかしそれを訴え、況してや鎮める方法など思い付くはずもない。始まりも終わりも分からぬ苦しみの中、ただ身を任せて虚空を見詰めることしか出来なかった。
『どうしたもんかね。……子育てはしたことねぇんだ』
膜を張るようにして溜まった水から、ゆっくりと体が引き上げられる。乗じて揺れる視界の外、ざぶざぶと水を掻き分ける音が聞こえた。
この熱に触れているおかげか、今まで何一つとして認識できなかった音が、匂いが、色彩がやって来る。
それはまるで、枯れた大地に花が芽吹くような。
『グレン』
永遠に続くかに思われた沈黙は、低く紡がれた名によって破られた。
勢いの衰えた水がそこらじゅうに散り、細やかな光を吸って煌めく。昇り始めた眩い暁は、身を焼くほどの熱さをもって大地を照らした。
『グレン、これにしよう。何の捻りもないが……まあ、許せ』
◇◇◇
「──うっ」
ぺしり。
両の頬に白い手が叩きつけられた。じわりと尾を引く痛みに顔を顰めれば、すぐ目の前に薔薇色の瞳があることに気がつく。
何度かまばたきを繰り返した大きな瞳は、こちらの意識がしっかりと定まったことを知ってか、満足げに笑む。頬に添えた両手を念押しするようにぺちぺちと動かしてから、彼女は浮かせていた踵を着地させた。
「おはようございます、グレン。寝不足ですか?」
「……いや」
単純にぼうっとしていただけだと、グレンは何だかすっきりとしない頭をゆるく振った。深呼吸を挟みつつ瞼を押し上げれば、朝の涼しげな光を湛えた双眸が、まだ彼を見上げている。
「何だ」
「昨日、ハヴェルさんとはゆっくりお話しできましたか?」
言いつつモニカが視線を移動させた先には、立派な庭園の奥に佇むガゼボがあった。昨日、ハヴェルを含めた三人で過去の経緯を話した場所だ。誰もいない休憩所を指差し、再び彼女が銀色の髪を靡かせて振り返る。
「……まあな」
「それにしては、浮かないお顔……ですね?」
グレンの一見すると眠そうな、ともすれば釈然としない顔をまじまじと観察しながらモニカが言う。それに対して、彼はやはりどう答えたものかと後ろ頭を掻いた。
──正直なところ、昨日はハヴェルと心行くまで言葉を交わせたわけではない。
師がフェルンバッハ家の事情に巻き込まれていたことや、自身も十八年前の決断を後悔していたことなど、知りたかったことは概ね語られたのだが……。
『俺が何なのか、あんた知ってるんじゃないのか』
最後に投げ掛けたあの問いだけは、答えを得ることができなかった。
グレンの問いが些か抽象的で、どんな答えを求めていたのか分かりづらかった節はあるかもしれない。だが師なら、さまざまな問答をグレンに提示してきたハヴェルなら、その言葉だけで足りるだろうという確信もまた、彼の中にあったのだ。
その証拠に、ハヴェルはほんの僅かながら動揺を露わにして、しばしの間黙り込んでしまった。
全身を襲う痛みが起因し、手足どころか口もまともに動かせなかった奇妙な子ども。
それが──誰もいない渓谷で拾われた、グレンという名の少年だ。
何故そんな子どもを拾ったのか、何故弟子として育てたのか、何故普通の人間のように接したのか。十八年越しに再会した育て親を前に、グレンはついに尋ねたのだ。
自分は何なのかと。
「もしかして、お話の途中でハヴェルさんのお仕事が入ってしまったとか?」
ふと昨日のやり取りから意識を引き戻せば、モニカが少しの間を置いて「あっ」と口を隠す。どこか恥ずかしそうな仕草に呆けていると、薔薇色の瞳がちらりと彼を一瞥した。
「違うんですよ、魔術師の方々とお話した後、たまたまガゼボが目に入っただけです。そしたらグレンもハヴェルさんも既にいなかったから、どうしたのかなと思っただけで。何もずっと庭を見ていたわけではありません!」
「……」
最後は何故か胸を張って言い切ったモニカに、グレンは無表情を繕いきれずに噴き出してしまった。つまるところ「師弟の時間を邪魔しないよう颯爽と席を外してみたが実は結構気にしてた」と。そういうことである。くっと肩を揺らしてしまえば、見咎めたモニカが慌ててかぶりを振るが、時既に遅しとはこのことだ。
「グレンっ、違います、私もう自己中心的なことは言わないように決めたんですから」
「はいはい偉い偉い」
「まぁ! 何ですかその態度は! それで結局ハヴェルさんはどうしたのです!」
どうやら興味のないフリは早々に諦めたらしい。モニカの拗ねて膨れた頬を後目に、グレンは何度か気怠い動きで頷いた。
「察しの通り仕事で呼ばれたんだよ。全身に鎧着込んだ奴に呼び出されて……」
「あら、騎士団の方でしょうか?」
「多分な。……確かあのじゃじゃ馬と決闘してるときも、同じ奴に呼ばれてたような」
なにぶんミーシャとの試合が白熱したせいで記憶は定かではないが、ハヴェルが板金鎧に身を包んだ騎士によって外へ連れ出される姿は視界の隅で捉えていた。背丈も歩き方も似ていた気がする……のだが、どうだろうか。
ついでに昨日、ガゼボまでハヴェルを迎えに来たときに発した声からして、あの騎士は恐らく──女だった。
ミーシャの不満たっぷりな「浮気者」という単語がよぎり、師の女性関係をちょっと想像しようとして、辞める。昔からハヴェルは別に、御伽噺の王子様よろしく綺麗な童貞ではなかったはず。酒場の給仕にチヤホヤされてはデレデレしていたような普通の中年である。
どうか良い歳して皇宮の中で逢瀬を重ねるような破廉恥野郎でないことだけは祈りつつ、グレンは要らぬ思考を外に放り出しておいた。
「そうですか。また空き時間を見付けられれば良いのですけれど……そろそろ会合の日程が近付いていますし、ゆっくり話せるのはその後でしょうか」
モニカは独り言のように呟いた後、ふと自分の腹を両手で押さえる。彼女のゆったりとした仕草を眺めていると、やがて下へ垂れていた銀髪がふんわりと風に揺られた。
「グレン、朝食は食べましたか?」
「あ?」
「まだなら食堂に付き添っていただけませんか?」
食堂? とグレンは眉を顰める。モニカは大公から宛がわれた客室で食事を済ませているはずで、騎士たちの汗臭い匂いが充満する食堂に用はない。
まさか昨日到着したばかりだという父親との朝食を蹴ってきたのではなかろうなと、グレンがついげんなりとしてしまったのも束の間。
「皇宮に着いてから会議詰めで、少し気分転換をしたいなと思っていたところです。グレンがいれば他の護衛の方々を呼びつける必要もありませんし……良いでしょう?」
初めからそのつもりだったのだろうと思いつつ承諾すれば、モニカが上機嫌に歩き出す。皇宮の侍女によって手入れされた銀髪が、彼女の弾むような足取りで大きく揺れた。
振り子のように動く銀糸と華奢な背中を見て、グレンは気付かれぬ程度の小さな息をつく。
──この雇い主は、グレンが何であっても気にしないだろうか。
そんなことを漠然と考えながら。




