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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
13.青に魅せられて

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13-4

「何か見えるかい?」


 すぐ近くで投げかけられた問いに、リュリュは忘れていた呼吸を再開した。

 はっ、と喘ぐように息を吸い込み、滲み出た汗を拭おうとして、止める。

 そのまま碧海の双眸をゆっくりと横へずらしていくと、見知らぬ青年がそこで微笑んでいた。四阿で一人涼んでいた、名も知らぬ人物だ。


「……」


 リュリュが無言でかぶりを振れば、青年は「そうか」と残念がる声で言う。すると、こちらの強ばった表情に気付いてか、気遣わしげに手を伸ばしたが──。


「リュリュ、具合が悪いの?」


 やんわりと少年の肩を引いたのはヒルデだった。振り向けば、彼女も取り繕ったような笑顔を浮かべている。恐らく、突然声をかけてきた青年を警戒しているのだろう。

 リュリュは如何せん落ち着かない頭で、「何でもない」と小さく答えることしか出来なかった。


(今のは何だ?)


 塩湖に映し出された異様な景色。意識を無理やり奪われるような不快な感覚は、精霊が一箇所に密集したときに現れる症状によく似ていた。


(ヒルデは、何も見えてないようだった)


 彼女の表情だけでは判別がつかないが、今ここで動揺に突き動かされるがまま、確認の言葉を吐くのは賢明ではない。


 ──この青年がいる限りは。


 リュリュとヒルデがそれぞれ閉口してしまえば、青年が困ったような笑みを浮かべる。逡巡を見せた後、ぱっと両手を挙げては緩慢な動きで後退した。


「ごめんよ、急に声を掛けて。……君が“青き宝”を驚いたように見ていたから、気になってね」

「……」

「……ああ、ええと。私はその、帝都の学院で神話や魔術の講義をしているんだ。もし良かったら──いや、どう足掻いても怪しいな」


 青年はその重たい桔梗色の髪を掻き上げ、「今のは忘れてくれ」と申し訳なさそうに言った。そうして長椅子に置いていた荷物を抱えると、リュリュたちに別れの挨拶をして立ち去ってしまう。


 彼の姿が木立の奥へ消えるや否や、ずっと手を握ってくれていたヒルデが身を寄せた。


「大丈夫? 顔色が悪いわ」

「……ヒルデ」

「なに? ──わっ」


 ぎゅうと彼女を抱き締めて、肩口に額を押し付ける。やがてヒルデの手が躊躇いがちに背中をさすれば、それだけで息苦しさが和らいだ。


 ヒルデの鼓動に耳を澄まし、頭の中で数えていくうちに、緊張に強ばっていた体がゆっくりと弛緩する。ようやく落ち着きを取り戻したリュリュは、長い溜息をつきながら体を離した。


「……ごめん、もう大丈夫」

「う、ううん。それで……“青き宝”が、どうかしたの?」


 その言葉で、やはりヒルデには何も見えていなかったのだと悟る。少年と古城を、戸惑いながら交互に行き来する視線。自らも塩湖の様子を確かめようとしたものの、リュリュは顔を少し傾けるに留まった。


「湖面に……真っ白なお城と、色のついた珊瑚礁が見えた」

「え……」

「形はあの宮殿と同じだったけど──精霊がつくった幻にしては、嫌にハッキリしてたかな」


 そして、図ったかのようにあの青年が声を掛けてきた。彼は自らの行動をリュリュの様子が気になったからと説明したが、本当にそうだろうか?


 ──あの奇妙な城が見えていると、分かっていて声を掛けたのではないのか。


 いや、とリュリュは短絡的な思考を咎める。混乱と焦りで早合点している可能性がなきにしもあらず、無闇に青年を疑ってかかるのは如何なものか、と。しかし、彼が怪しいことに変わりはなく……。


「リュリュ」


 つん、と袖口を引かれる。ヒルデは少年の青褪めた顔を確認すると、自らの外套をごそごそと脱ぎ始めた。そしてそれを少年の頭に被せ、気丈な笑みを浮かべて見せる。


「まだ疲れてるかもしれないけど、山を下りましょう。宿で休んだ方がいいわ」

「……うん」

「聖遺物のことは……グレン殿やモニカ殿に聞くのが安全かしら? それまでは二人だけの秘密ということで良い?」


 リュリュはその慎重な問いかけに、素直に顎を沈めた。いつもとは逆の立場に、少しばかり情けない気持ちが内から滲みだす。


 貴族としての箔が云々、精霊術がどうのこうの、やはり過剰に反応したのは良くなかったと今は思う。ヒルデを庇うためと言うよりも、実のところ不安だったのは自分なのだ。


 ──これほど気高く優しい王女に、精霊術だけしか取り柄のない自分が釣り合うわけもないと。


 貴族の血は流れていないし、体力はないし、背は低いし……あと歳上でもないし。子どもじみた劣等感を知られたくなくて平気そうに振舞ってはいるものの、いつこれが露呈するか分からない。ヒルデに呆れられたらどうしようと、常に虚しい危機感を抱いて、それを解消したいがためにこんなところまで連れて来てしまった。


「……ごめんね、ヒルデ」

「えっ、な、なにが?」

「僕がもう少し頼りがいのある大人だったら良かったんだけど」


 ヒルデが間の抜けた顔で固まった。急に何だと言わんばかりに。

 しかしそれも束の間のこと、彼女は小さく吹き出して言った。


「何言ってるの、私はここに来てからリュリュに甘えっぱなしなのに」

「…………いつ?」

「えっ。いや、分からないならそれで良いけど……」


 うんうんと目を逸らしながら曖昧に頷いたヒルデの手を掴めば、掌に残る剣だこの感触が伝わる。意味もなく繋いだ手をじっと見詰めていると、しばらくしてヒルデも控えめな力で握り返してくれた。


 お互いにそっと視線を上げて、先に微笑むのはやはり彼女の方で。


「リュリュ、私たちは政略で結ばれた縁だけど……義務に囚われた関係は息苦しいわ。この旅だって、私はその……自分の立場云々よりも、リュリュのことを知りたいから同行したのよ」

「……僕?」

「ええ。だから今、リュリュは不愉快かもしれないけど、ちょっとだけ嬉しい。あなたが落ち込む姿なんて、向こうで見たことなかったもの」


 眉を下げて笑ったヒルデに、リュリュはどう返せばよいのか分からず当惑してしまう。それは嬉しがることなのかと。自分は大人に程遠い未熟さが嫌で仕方ないのに、ヒルデは──それでも良いのだろうか。


 少年の浮かない顔を覗き込んだヒルデは、そんな心境を汲んだ様子で笑った。


「不安なときは気にせず甘えたらいいの、リュリュ。いつも私のこと未来のお嫁さんって言うくせに、戦闘以外は全く頼ってくれないんだから。……私にも助けさせて? ね?」


 囁くような、小さく優しい声音。耳朶をくすぐる柔らかな音に、リュリュは緩慢な動きで頷く。


「……今度から奥さんって呼んでも良い?」

「そ、それは気が早い!」


 転じて慌てふためくヒルデに笑みをこぼし、少年は鬱屈とした気分を切り替えるように新鮮な空気を吸い込んだ。


 ひとまず、ヒルデの提案通り山を下り、このまま帝都へ向かおう。今しがた自分の身に起きたことをおいそれと他人に話せば、望まぬ騒動を引き起こすかもしれない。顔見知りかつ精霊との正しい付き合い方を心得ているであろうグレンに、なるべく早めに再会しなければ。


 リュリュは下山の準備を終えた後、恐る恐る塩湖を振り返る。


 湖面に映る“青き宝”は朽ちた姿のまま、黒い影をそこに落とすだけだった。



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