12-8
夜の草原。星々の光を頼りに進む少年は、隣を歩く大きな人影を見上げた。
鼻歌まじりにゆったりと揺れる髭面。ようやく少年が自分の足で歩けるようになったことが嬉しいのか、弧を描く唇には喜色がありありと表れていた。
まるで自分のことのように喜ぶ師に釣られ、照れ臭くなった少年も笑みをこぼす。
『グレン、これをやる』
『……何これ?』
ひょいと投げ渡されたものを慌てて掴み取れば、それは大きな指輪だった。自分の細い指では到底嵌められない、ぶかぶかの金環。親指でもまだ足りない穴を覗き込むと、師の笑い声が上がる。
『やっぱりデカいか。まぁ、お前が大人になったらちょうど良くなるかもな。ほら、表面撫でてみろ』
『わっ』
唐草模様をずらし、飛び出した刃に驚く。何だこの凶器はと目を剥く少年に、師は小さな頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて言う。
『聖霊を呼ぶときに使えると思ってな。ナイフなんて持たせたらお前、間違えて指ごと切り落としそうだし』
『そんなことしないよ』
『念のためってやつさ』
それから師に促され、少年は初めて自分の血を用い、聖霊を呼び出した。瞳一杯に光を湛えて魅入る少年を、師は優しい眼差しで眺めていた。
『……なあ、グレン』
『何、ハヴェル』
『ちょっと頼みがあるんだが……聞いてくれるか』
ぽつり。鼻先に冷たい雫が落ちる。
知らぬ間に星空を覆っていた薄い雲から、霧のような雨が降ってきた。外套のフードを被った少年は、師の頼みとやらを聞き出す。
師は少し言いづらそうな、気まずそうな顔で遠くを見つめると、やがて意を決した様子で口を開いたのだった。
『急用ができた。だからしばらく……教会で待っててほしいんだ。すぐ迎えに行くからよ』
◇◇◇
聖霊の力によって灯されたランプに、一羽の蛾がまとわりつく。どこに止まることもできず、ただ忙しなく羽を動かして彷徨い続ける姿を、何ともなしに追ったときだった。
「……グレン?」
額に添えられた冷たい手のひら。眩しい光を遮って現れたのは、眉を曇らせた雇い主だった。
まばたきを繰り返して視界を整えれば、こちらの意識を確かめた薔薇色の瞳がホッと安堵を滲ませる。
「フォルクハルト様に協力していただいて、あなたを騎士団の詰所に運んでもらいました。……何が起きたか覚えていますか?」
モニカの静かな言葉を聞きながら、グレンはゆっくりと視線を周囲に巡らせた。横に並ぶ簡素なベッドと、開け放したままの戸口。カレンベル帝国軍の軽鎧を身に着けた騎士たちが、一日の務めを終えて労いの言葉をかけあう姿が見える。
次第に周りの状況が掴めてきたグレンは、再びモニカの方へ視線を戻し、額に乗せられた薄い手に触れた。ぴく、と小さく跳ねた彼女の手を掴み寄せれば、ラトリアに似た仄かな香りが鼻腔を掠める。
そのまま深く呼吸をすると、額に残っていた痛みが引いていく。立ち込める霧が晴れ、隠された景色が鮮明に映し出されるような心地に見舞われた。
「声が聞こえた」
「……声?」
「また意識が消えかけた、気がする。……そしたら、お前の声が聞こえた」
彼女の手で目許ごと覆いながら、グレンはぽつぽつと記憶を辿る。
──何とかして意識を保とうと、自分で額を打ち付けて。気を失ったかと思えば、またハヴェルと夜道を歩く夢を見た。いや、それよりも何かもっと、重要なことを忘れているような気が……。
瞑目したまま黙り込んでいれば、瞼を押さえる手が優しく前髪を掻き上げた。
「イーリスさんは、どちらへ?」
「……イーリス」
「グレンが倒れたと知らせてくれたのは彼女のはずです。……でも、どこにも姿が見当たらなくて」
ハッと目を開いたグレンは、弾かれるように身を起こしたものの、すぐさまベッドに押し戻される。
「落ち着きなさいな。すでに騎士団の方に捜索をお願いしていますよ」
「……人売りに目ぇ付けられてた」
「ええ。そちらも調査していただきますけれど……あなたは動かない方がよいかと」
肩を押さえ付ける細腕は、払いのけようと思えば簡単だっただろう。しかし彼女の顰めた眉を見たグレンは、そこに宿る懸念を知って力を抜く。まばたき一つしない薔薇色の瞳の下方、冷静に思われた唇は強張り、微かに震えていた。
「これで二度目です、グレン」
詰所の喧騒が遠ざかる。入れ替わるようにして耳に届いた声は、消え入るように小さい。
「明日の朝までは安静になさい。命令です」
有無を言わさぬ口調ながら、命令とは程遠い声音でモニカは告げた。それきり言葉を詰まらせてしまった彼女は、グレンの返事を聞くことなく部屋を出て行った。
──翌朝になっても、イーリスの行方は掴めぬままだった。物騒な事件が起きた形跡もなく、少女が自らシーランを出て行った可能性が高いと、捜索に加わったフォルクハルトは言う。
グレンは忽然と消えてしまった幼馴染の行方を案じながら、帝都へと爪先を向けたのだった。




