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心臓は未だかえらず  作者: みなべゆうり
12.予期せぬ再会

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102/179

12-5

「光よ、天翔ける薫風よ。──イーリス、伏せろ!」


 弾かれるようにしてイーリスがその場にしゃがむと同時に、彼女の腕を掴んでいた男に翠風が飛ぶ。椅子とテーブルごと巻き込んだ突風は、男をテラスの下──ロジタ湾へ真っ逆さまに落としてしまった。


「うあああああぁぁ……」

「あ、兄貴!?」

「てめぇ‼」


 残された男二人がいきり立つと、釣られてテラス全体が騒然となる。客が何事かと後ずさるのを横目に確認したグレンは、殴りかかってきた男の腹部を難なく靴裏で捉えては蹴り飛ばした。続けてもう一人の拳を躱し、すかさず腕を捻って床に叩きつけてしまうと、怯えているイーリスの元に駆け寄る。


「イーリス、立てるか」

「グ、グレン、あっ」


 腰が抜けた様子の彼女を抱き上げてやれば、ひしと細い腕が肩にしがみついてきた。震えた背中を宥めるように摩りつつ、グレンは男たちが起き上がる前にテラスを後にした。



 テラスの横に備え付けられた階段を下り切る頃、ぎゃあぎゃあと騒がしい声が頭上から降ってきたが、それがグレンたちを追ってくることはなく。どうやら見当違いの方向へ走っていったらしい。

 ひとまず鬱陶しい輩を撒くことに成功したグレンは、閑散とした海沿いの通路でイーリスを降ろしたのだった。


「ありがとう、グレン……」

「今後はああいう厳つい野郎には声掛けんなよ」

「うん、気を付ける……」


 しゅんと落ち込んでしまったイーリスを見下ろすこと暫し、グレンは彼女の左腕を持ち上げる。


「痛みは?」

「え? あ、平気だよ」


 控えめな笑顔とは裏腹に、生白い手首にはくっきりと赤い痕が残っていた。後で痣にならぬよう応急処置だけはしておくかと、グレンが水の聖霊を呼び出したとき。


「──……」


 捲った袖の、さらに奥。ゴロツキに掴まれた痕とは別の、黄色い痣が点々と皮膚を汚している。目を瞠ったグレンが思わず彼女の肘まで露わにすれば、そこには打撲の痕だけではなく、小さな擦り傷もたくさん付いていた。

 言葉を失うグレンと同様、イーリスも動きを停止してしまっていた。どう言い訳をしようかと思考を巡らせる表情を見て、グレンはすかさず口を開く。


「おい、まさか養親から受けたのか? この傷」

「ち、違うよ。これは……喧嘩して」

「喧嘩だと?」


 ひどく似合わない言葉が飛び出し、グレンは「嘘つけ」と険しい顔でこれを否定した。昔より健康になっているとは言え、相変わらずイーリスの体は痩せたまま。誰かと取っ組み合いの喧嘩をできるほど丈夫ではないし、したとしても一方的に殴られるだけだ。

 だからこの無数の怪我は、ただひたすらに暴力を受けた痕跡でしかない。

 加えて、医師や魔術師を呼べばすぐに治せる程度の怪我をことごとく放置してあることにも、グレンは理解が及ばなかった。


「グレン、大丈夫だから。本当に……ずっと前の怪我だし、痛くもないし……ここに来るまで何度か転んじゃったから、そのときの傷かも」


 イーリスはどうしても、傷の所以に触れられたくないようだった。体に残る無数の怪我は、あくまで事故によるものだと。

 今にも崩れそうな笑顔を見返すこと暫し、渋々とだがグレンは追及を断念した。

 不満を色濃く宿した眼差しと、脆い拒絶を湛えた眼差しが交差する。冷たい潮風が吹き抜けた後、グレンはゆっくりと右手の指輪を回して告げた。


「助けてほしくて来たわけじゃねぇんだな」

「……うん。グレンと会いたかっただけ」

「そうかよ」


 溜息交じりに呟くと同時に、ふわりと水の聖霊が舞い降りる。周りを漂う淡い光にイーリスが戸惑ったのも束の間、治癒の灯は彼女の全身をやわらかく包み込んだ。

 鮮血が手の甲を伝い、落ちる。聖なる霊が供物の雫を残さず平らげる頃には、イーリスの痛々しい傷跡は綺麗に消え去っていた。


「わ、あ……」


 零れ落ちそうなほど目を丸くして、イーリスが自身の腕を見る。初めて治癒の魔術を施されたのか、その表情は幼子と大差ないものだった。


「怪我が……ありがとう、グレン。凄いわ、あっという間に──」



 刹那、イーリスの声が二重に聞こえた。



「っ!?」


 突然のことに動揺したグレンは、ぱっと彼女から手を放して後ずさる。当然、慌ただしい動きにイーリスも硬直していた。


「グレン? どうしたの……っ? 顔が真っ青だよ」


 続けて投げ掛けられる言葉も、やはり彼女の澄んだ声には程遠く、二日酔いを起こしたような頭痛を伴って反響する。

 瞳の焦点が定まらず、吐き気を覚えたグレンはついに瞼を閉じて蹲った。

 しかし、あらゆる情報を遮断して呼吸に専念しても、頭蓋に響く鈍痛は押し寄せる波の如く治まらない。


(前にも、あった)


 意識を叩き削られるような痛みの中で、思う。

 この苦しみはやがて、濁流の底に自我を押し留めるだろう。

 もがけばもがくほど下へ、光の届かない闇の奥へ沈んでいく。

 激しく波打つ水面が見えなくなり、果てのない黒に手が届くと、不思議と抗う気力が消えて──。



『グレン‼』



 耳を劈く、金切り声。

 咄嗟に瞼を押し開いたグレンは、眼前に迫っていた石畳に強く額を打ち付ける。

 視界に赤が散り、意識を固く覆っていた殻が砕け、気付いたときには星空が広がっていた。


 そして、こちらを泣きながら見下ろすイーリスの顔も。


「グレン!? だ、誰か、いませんか……!」


 急に苦しみ出したかと思えば石畳に額を容赦なく打ち付けたのだから、それは恐ろしい奇行に映ったことだろう。グレンは自嘲気味にイーリスの頭を撫でつつ、ずきずきと痛む額に歯を食いしばる。


(……アイツどんだけ石頭なんだ……)


 今の衝撃よりよっぽど痛かったモニカの頭突きを思い出しながら、グレンはふと気を失ってしまった。



 □□□



「──大丈夫よお嬢ちゃん。息もしてるし、そんなに泣かないで、ほら」


 ふくよかな女性は優しい声で語り掛け、泣きじゃくるイーリスの肩を摩る。周りには他にも数人の若者が集い、気絶したグレンの介抱に当たっていた。

 彼がひどく苦しみ出して、自ら石畳に頭を打ち付けた後。汗だくのまま意識を手放したグレンをどうすればよいのか分からず、色を失ったイーリスは先ほどのテラスまで慌てて階段を駆け上った。そうして、談笑していた人々に助けを求めて今に至る。


「あ、ありがとう、ございます、あの、大公様のお屋敷に、知らせていただけませんか」

「大公様? 何でまた」

「そちらに、彼の雇い主がいらっしゃるので……モニカさんという方です……」


 しゃくり上げながら必死に言葉を繋げば、うんうんと頷いていた女性が近くの青年に声を掛けた。


「ちょいと、誰か大公様のお屋敷にひとっ走り行って来てちょうだい! モニカっていう名前の──」


 彼らが言葉を交わす傍ら、イーリスは呆然とくすんだ金髪を見詰める。

 力なく横たわるグレンの、傾いた顔にはやはり脂汗が滲む。気を失ってもなお、形のよい眉は顰められたまま。


「……グレン……」



 ──死んでしまったかと、思った。



 どくどくと脈打つ鼓動は、まるで責め立てるような音をもってイーリスの涙をあふれさせる。

 何がいけなかったのだろう、何が彼を苦しめたのだろう、なぜ、どうして──次々と噴き出す恐怖に紛れて、イーリスを蝕む声がひとつ。


 ──お前が近付いたからだ。


 皮膚が白くなるまで手を握り締め、イーリスは小さくかぶりを振る。

 違うと弱々しく否定しても、声は止んではくれなかった。


 ──お前は災いを呼ぶ存在だから。


 ──親に捨てられた理由も忘れたのか?


 ──どこへ行っても同じだよ。




「気が済んだ?」




 そっと両肩に置かれた手。

 イーリスは弾かれるように口を塞ぎ、ここにいるはずのない声の主に恐怖する。見開いた瞳から最後の涙が転がり落ちる頃、眼前に一つの人影が割り込む。自分とグレンとの間に立ち塞がる壁を、イーリスは絶望的な気分で仰ぎ見た。

 自分とそっくりな、それでいて全く違う顔をした彼は、青褪めるイーリスの顔を手のひらで包んでしまう。


「言ったじゃん。お前は僕の元にいるのが正解」

「……なん、で、ここに」

「ん? 心配して追いかけてきただけだよ。だって」


 鼻先が触れるほど近くに迫った彼は、酷薄な笑みで囁いたのだった。



「お前は僕の、たった一人の姉さんでしょ?」



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