12-4
イーリスが目を覚ましたのは、夕方の鐘が鳴った直後だった。
もぞもぞと毛布が動き出し、薄水色の頭がじっと円窓を見上げる。しばらくそうして寝ぼけていたが、やがて何かを思い出した様子で飛び起きては、慌ただしくこちらを振り返った。
顔にまとわりつく細い毛はそのままに、イーリスは目当ての人を見付けるや否やホッと安堵の笑みを浮かべた。
「あっ……グレン! いてくれたの……?」
「起きたら話すっつったろ。熱は?」
「も、もう大丈夫。寝過ぎちゃったね」
ベッド脇の椅子に気怠く腰掛けていたグレンは、小卓に置いた水差しをグラスに傾ける。半分ほど注いだ水を差し出してやると、イーリスが小さくお礼を呟きながら受け取った。
「ありがとう……ごめんね、迷惑かけて」
「真性の迷惑な連中はどいつも謝ったりしねぇから安心しろ」
グレンはこれまでの道中で関わった迷惑の権化のような殺人鬼やら、救いようのない王族やらを思い浮かべつつ、げんなりと答える。そんな彼の心底参った顔を見たイーリスは、閉口した後で笑みをこぼした。
「グレンの周りは今も賑やかなんだね」
「……賑やか……?」
あれを賑やかで片付けて良いのかと眉をひそめてしまったが、恐らくイーリスが想像しているのは昔、教会にいた子どもたちに群がられるグレンの姿だろう。
当時は孤児の中で年長だったこともあり、何かとシスターの代役になる機会が多かった。イーリスよりも更に幼い子どもたちが、一人で寝られないと言って押しかけて来たことも頻繁にある。
思えばその頃から既に、変な人間を寄せ付ける体質の片鱗が見えていたのかもしれない──と、グレンは全くもって嬉しくない気付きを得てしまった。
「あ……あのね、グレン。熱はもう下がったと思うから、お願い聞いてくれる?」
いそいそと居住まいを正したイーリスが、腫れぼったい瞼を擦りつつ尋ねる。薄水色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いたのを合図に、グレンはお願いとやらの内容を促した。
するとイーリスは何度か深呼吸を繰り返し、胸に手を当てて気を落ち着かせてから、よしと両の拳を握り締め。
「──私と一緒にお出かけしてほしいの」
何とも小さな願いを口にした。
気だるく構えていたグレンは、拍子抜けした気分で暫し沈黙する。その反応に不安を覚えたのか、イーリスがそわそわと眉を下げたりお願いを取り下げようと考え込んだりする仕草を見て、ようやく彼は言葉を返した。
「……それだけか?」
「え!? う、うん、だって私、グレンと……外に出たことない……し……」
昔から体が弱く、少し風に当たるだけでも熱を出していたイーリスは、子どもたちが外で遊んでいるときも屋内で過ごしていた。街で開かれた祭りに行けず、シスターと留守番したこともあったか。
グレンはちらりと外の夕焼けを一瞥すると、すぐに椅子から腰を上げた。
「ならさっさと行くぞ」
イーリスの手を引いて立たせてやれば、あどけない顔がパッと華やいだ。
▽▽▽
シーランの市場には、夕方になっても多くの屋台が並んでいた。新鮮な魚はもちろんのこと、色とりどりの果物や食べ歩きにちょうどいい軽食もある。
さすがは各国から観光客を募る場所だけあって、提供されるものは自国の特産品だけに留まらない。レアード王国で大量に見掛けたランプや、ベラスケス王国を産地とする香辛料まで。どの屋台にも多くの人々が集まり、買い物を楽しんでいた。
彼らの姿を眺めるついでに、グレンはふと後ろを振り返る。そこにはケープを頭から被ったイーリスが、きょろきょろと辺りを見渡す姿があった。
「何も見ねぇのか?」
「あ……ど、どれも見たことなくて……」
そもそもどこに立ち寄ればいいのかも分からない、といったところか。
これがモニカだったら好奇心の赴くままにグレンを引っ張り回しているところだが、控えめなイーリスは大人しく付いてくるだけだった。
グレン自身は特に見たいものがあるわけでもなし、彼女の要望がなければ延々と歩き続けることになるだろう。
さてどうしたものかと屋台に目を向けたとき、ぐぅと小さな音を聞き捉えた。
「……」
「……」
イーリスが咄嗟に自分の腹を両手で押さえ、あわあわと視線を泳がせる。
思えば彼女は朝から殆ど何も食べておらず、これだけ香ばしい匂いに囲まれれば腹が鳴るのも仕方ない。ひとまず行き先が決まったので、グレンは何故か泣きそうなイーリスを引き摺って近くの屋台へと向かったのだった。
「──お、美味しい……!」
「そりゃ良かったな」
ちょうどロジタ湾を見下ろせる木造のテラスには、軽食をしながら談笑する人々で溢れていた。手摺のそばにあるテーブルに着いたグレンは、先ほど屋台で購入した風変わりなサンドイッチをイーリスに食べさせる。
分厚いバケットに挟まれているのは、彩りのよいパプリカに、しゃきしゃきとした食感のオニオンやレタス、それから焼きたてのサバの身だ。あまり見ない組み合わせだったが、屋台の男曰くシーラン発祥の料理だとのこと。仕上げにレモンを絞って渡される頃には、不思議なことに自然と食欲をそそられた。
イーリスが感激した様子で食べ進める姿も、グレンにとって新鮮なものだった。幼い頃はシスターが作った粥やスープぐらいしか完食できなかった彼女も、いくらか体が丈夫になったらしい。
「わ、グレン、食べるの早いね」
「気にせず食え。……お前、ここに来るまでは飯どうしてたんだ?」
「えと、おうちから保存食をちょっとだけ持ってきて……たまに、教会でお世話になりながら」
つまり満足な食事はしていなかったということなので、道理で体調を崩すわけだとグレンは頭を抱えたい気分だった。もしかするとシーランに辿り着く前に行き倒れていた可能性もあったと考えると、少々ぞっとする。
グレンの呆れや心配を知らないイーリスは、サバのサンドイッチを半分ほど食べ終えて口元を拭く。そして、その垂れ気味な瞳を遠慮がちに彼へ差し向けた。
「ねぇグレン」
「あ?」
「今は……モニカさんと一緒に旅してるの?」
「ああ、雇われてる。それ買った金も、護衛の報酬だから安心しろ」
イーリスがきょとんと目を瞬かせた。昔と変わらず純朴な彼女を前に、グレンは逡巡の後、伝わらなかった意図を補足する。
「お前が引き取られた後、俺も教会を出て行ったんだよ。それでつい最近まで盗みやりながら食い繋いでた」
「えっ……!」
「わざわざ会いに来てくれたところ悪いな」
薄水色の瞳は大きく見開かれ、動揺を色濃く宿したまま伏せられた。
──今までのやり取りを鑑みるに、イーリスが少なからずグレンという人間に対して憧れに似た感情を抱いているのは、恐らく気のせいではないだろう。
その期待を裏切るようで申し訳なさはあれど、無用な嘘をつきたくないのも事実だった。
グレンは盗みを働く上で、他人を散々騙してきた。まるでハヴェルから受けた仕打ちを返すように。
失った愛情を追い求めるうちに、空いた穴には歪んだ憎悪が溜まる一方だったから、それを何とか外へ逃がすことに精一杯だった。
だからと言って、全て仕方なかったと片付けるつもりはない。モニカと真正面から向き合って初めて、早くこうすれば良かったと思った。裏切られる前提で他人に八つ当たりを繰り返していた自分を、初めて恥じたのだ。
もしもモニカと出会わずに、イーリスと再会していたら──自分はきっと盗賊であることを隠したのではないだろうか。何の恥ずかしげもなく平気な顔で、昔の「優しい幼馴染」を演じたかもしれない。
イーリスのためではなく、自分のために。
純朴な彼女なら、幼馴染を装いさえすれば離れていくことはないだろうと高を括って。そんな浅ましい自分の姿が容易に想像できたがゆえに、グレンは自ら過去を明かしたのだ。
これで軽蔑されたとしても自業自得。せめてイーリスが無事に帰れるよう手伝いだけはするか、と考えたときだった。
「……そっか。私だけじゃなかったんだ」
「は……」
煌めく水面から視線を外せば、泣きそうな笑顔がそこにある。言葉の意味を問う眼差しに、イーリスは一つ深呼吸を挟んで答えた。
「私、引き取られて三日と経たずに家出しちゃったの。あの家の人たちが恐ろしくて……グレンと、シスターのところに帰りたかった。道も分からないんだから、帰れるはずないのにね」
「……イーリス」
「そのまま案の定、お腹が空いて動けなくなった。そのときに……駄目だ、悪いことだって分かってたけど、露店に置いてあった果物を盗んじゃった」
彼女は努めて明るく語りながら、白くなめらかな手の甲を摩る。
「お店の人にも、私を探しに来た人たちにも、すごく怒られた。犯した罪は一生消えない、お前は天空神の加護から外れることになるって」
「……」
「だから私、グレンに会いたいって思いながらも、怖かった。グレンが優しくしてくれたのは、こんな悪い子じゃなくて……罪を犯す前の私だったから」
薄水色の瞳が、そっとこちらを窺い見た。
その澄んだ色彩を受け止めたグレンは、ふと息をつく。テーブル越しに彼女の頭を撫でつければ、長い髪がさらりと肩を滑った。
「……お互い、天空神の教えに救われた試しがねぇな。そんぐらいで極悪人ですみたいなツラすんな」
「えっ……ふふ、グレン、変わったね。昔はシスターよりも聖書を暗記してたのに」
「更生も許さねぇ狭量な神、別に信じなくていいような気がしてきただけだ」
グレンが半ば意地のように盗みを働き続けたのは、皮肉にも天空神の教えがあったからだ。悪に堕ちた者はどれだけの善行を積もうと決して元に戻ることはできず、命尽きるまで罪を背負う宿命にある──その文言がずっと呪いのように刻まれていたからこそ、二度と真っ当な生き方は望めないのだと思い込んでしまった。
黒衣を纏う罪人に、来る炎の海を越えることは叶わない。そんな教えは、ただひたすらに自分の心を苦しめ、打ちのめすだけだった。
しかし──。
「……あの信仰心ゼロの雇い主見てたら、馬鹿馬鹿しくもなる」
光の神々に惑わされず、良くも悪くも自分だけを信じて生きてきたモニカを思い浮かべると、知らずのうちに苦笑がこぼれる。
そんなグレンの横顔を、イーリスがどんな目で見詰めていたか、知る由もなく。
「──おいおい、こんなところにいたのか」
「ひゃっ……!」
そのとき、テラスにけたたましい音が鳴り響いた。
椅子を蹴り飛ばした三人の男は、何の躊躇もなくイーリスの腕を引っ張り上げる。彼女の恐怖に染まった顔を見て、グレンはハッと腰を上げた。
「コラ待て、何だ急に」
「あ? 黙れや、俺たちゃこの女に用があんだよ」
「そうそう、この嬢ちゃんが先に声かけてきたんだぜ。なのにいきなり兄貴の腕を噛んで逃げやがったんだ!」
「治療費ぐらい貰わねぇとなぁ?」
忌々しげな説明に、皆まで聞かずとも理解した。彼らは昨日、イーリスが教会に逃げ込む羽目となった元凶に違いない。
何とまあピンポイントで柄の悪い男を選んでしまったものだと、グレンは世間知らずなイーリスを哀れみつつ、右手の指輪を回したのだった。




