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豪快に開け放たれた扉。
切り取られた月光の中、仁王立ちするは銀の乙女。あわく輝く薔薇色の瞳は、薄闇など物ともせずに一人の青年を射抜いていた。
彼の名はグレン。れっきとした盗賊である。
今宵、彼はレアード王国で伯爵の地位を戴いているフェルンバッハ家の屋敷にお邪魔して、こっそり食糧やら金品を物色する予定だった。
いつも通り下男に扮して厩の掃除を引き受け、数人ほど昏倒させつつ伯爵夫人の部屋まで忍び込むまでは良かった。同業者も惚れ惚れするほど、それはもう見事な侵入劇だったはずだ。
グレンが夫人の部屋で美しい黄玉のペンダントを見付けたとき、突如として扉が開かれる。
盗みの現場をばっちり目撃されたグレンは、中腰のまま石のごとく固まってしまったのだった。
「まさか……あなたは盗賊さんですか?」
「違います」
「盗賊さんですね!?」
この絶望的状況をどう切り抜けるか、それだけを考えて適当な否定を口にしたグレン。
一方、彼が握り締めているペンダントを指差し、何故か歓喜を露わに飛び跳ねる娘。
珍妙な空気にしばしの沈黙が駆け抜けたかと思えば、娘が周囲を確認してから扉を後ろ手に閉じた。ここは大声を出して人を呼ぶ場面だろうに、予想と異なる行動にグレンは面食らう。
彼の訝しむ視線を受けた娘は、にこりと──いや、嬉しさを抑えきれないとばかりに頬をにやつかせながら、こちらへ歩み寄る。
「ふふ、見慣れない使用人がいたと侍従長が言っていたので、もしやと思って来てみましたが……勘が当たったようですね。私ったら何て運が良いのでしょう!」
組んだ両手を頬に押し当て、娘は盗賊を前にして無邪気に喜ぶ。
一体何の話をしているのか全く見当がつかず、グレンは近寄ってくる気味の悪い娘から逃げるように後ずさった。しかし伯爵夫人の部屋も無限に広いわけではない。間もなく彼は壁際まで追いつめられてしまう。
間近にやってきた娘を引き攣った笑みで見返し、冷静さを取り戻すべく彼はひとつ咳払いをした。
ここは得意の芝居を打って、状況を上手く転がさなければならないだろう。あまたの危機を乗り越えてきた奇跡の演技力、とくと見るが良い。
「月の光がよく似合うお嬢さん、どうか卑しい僕に御慈悲を与えてはいただけませんか……?」
娘の小さくやわらかな手を掬い、瞳一杯の涙を湛えてその場に跪く。長くたおやかな銀髪を月光にたとえてみれば、娘が「まぁ」と小首をかしげた。
グレンの顔面は決して悪くはない。すれ違う者全員が卒倒するほど美しいわけでもないが、年若い初心な少女相手なら簡単に口説き落とせる程度には、整った顔立ちをしているという自負があった。
ゆえに彼はこの娘があまり男慣れしていないであろうことを願って、称賛の言葉を続けようとしたが。
「卑しいだなんてご謙遜なさらないで盗賊さん。他人様の物を盗んでおいて卑しいだけで済むと思っていまして? 万死に値すると思った方がよろしいですよ」
「あ、はい、すいませんでした」
思ったよりボロクソに罵倒されてしまった。
この娘に泣き落とし云々は全く通用しないことがよく分かったところで、スンと表情を元に戻したグレンは仕方なく腰にある短剣に手を掛け──。
「ですがそちらのペンダントは差し上げます。他にも盗んだものがあるでしょうから、それらもどうぞ」
「は……?」
ぴたりと手を止め、グレンは呆けた顔で娘を見上げる。
結局、逃がしてくれるということだろうか。案外ちょろい女だったのかと安堵する反面、何か裏があるに違いないと勘ぐる気持ちが同時に湧く。
徐々に警戒を強めていく彼の前に屈み、娘は今度こそ美しい微笑を湛えて告げた。
「前報酬というやつですね。──あなたには私の護衛役になっていただきます、盗賊さん」
刹那、グレンの腰から短剣を奪い取った娘が、自らの手を切りつける。
流れるような自傷行為に呆気にとられたのも束の間、グレンは滴る血の行方を知って青褪めた。
彼女の膝に乗る、ゴテゴテとした派手な装飾が施された宝石箱。濃厚な緑色をしたソレは、娘の血を吸収するや否やひとりでに蓋を開いた。
内部に敷き詰められた真紅のビロードに目を奪われる暇もなく、宝石箱が燦然と光を放つ。
「……っ!?」
視界を潰す閃光に圧倒され、気付けば彼は蹲っていた。急激に痛みはじめた胸を押さえ、限界まで目を見開いては息を乱す。
鳩尾を蹴られたときや、刃物で刺されたときとも違う。あばらが臓器に突き刺さったような、そうして蛇の如く絡みつくような、猛烈な苦しさが呼吸を根こそぎ奪っていく。
「おまえっ……何、しやがった!?」
ようやく声が出るようになった頃、グレンは腹の底から怒声を放った。
息苦しさを押して顔を上げれば、そこには何故か自分で動揺しまくっている娘の姿がある。
あわあわと宝石箱を上げたり下げたりしていた彼女は、グレンの射殺すような視線に気付いてはハッと頬を引き攣らせた。
やがて彼女は咳払いと共に表情を引き締め、宝石箱の蓋を勢いよく閉じる。
「これで、あなたの心臓は私のものです」
にこりと告げられた、意味不明な宣告。
わけが分からずに黙りこくっていたグレンは、溜めに溜めた息を一斉に吐きだした。
「心臓ォ!?」
娘の言葉を悲鳴混じりに反芻して、自らの胸に手を押し当てる。
驚いたことにグレンの心臓は動いていなかった。否、そこに心臓が収まっている気配すらない。どこを触っても鼓動を感じ取ることができない一方で、呼吸は自然に繰り返されているという不気味極まりない状況であった。
……ところで。
グレンは盗賊である。
決して良識ある好青年ではないのである。
ゆえに危険な状況に陥った彼が次に取る行動は、心臓を取ったなどと抜かす魔女を、例えそれがか弱そうな乙女であったとしても速やかに殺すことであった。
「きゃー!? 盗賊さんお待ちを!!」
「うるせぇ黙れ妙な魔術使いやがって!」
ものの数秒で娘を組み敷き、短剣を振り上げたグレン。緑の宝石箱を抱き締めた娘は、じたばたと両足を動かしながら彼の行動を制止する。
「待った待った! これは贋物“隷属の箱”──私を殺せばあなたの心臓もブシャアですよ!」
とんでもない発言を聞いたグレンは、白い喉を切り裂く寸前で軌道を逸らし、そのまま切っ先を臙脂の絨毯に突き立てた。
グレンがわなわなと震えている下方、命の危機を免れた娘が「ふう」と額の汗を拭う。
「では改めて説明しますね。“隷属の箱”は対象の心臓を奪い閉じ込めるばかりか、所有者が死ねば二人一緒に死んでしまう代物でして。ちなみに私の解呪の言葉がない限り、蓋は開きません! 残念!」
「ハァーッ!? 何だそのクソみてぇな仕様!?」
声を抑えることも忘れて思わず甲高く叫んでしまったが、これはさすがに仕方ない。
──贋物。
紛い物の名で呼称されるそれは、端的に言えば魔術の掛けられた危険物のことだ。そう、まぎれもない危険物。
誰かの心臓を無傷で取り出してしまうだとか現実離れした現象を引き起こしてしまうために、大抵の人間は贋物を忌避して遠ざけるはずだが、一部の物好きな貴族が蒐集しているケースは少なくない。この宝石箱も例に漏れず、フェルンバッハ家が秘密裏に所有していたのだろう。
そしてこの娘は、コレクションとして眠らせておくべき危険な贋物をあまつさえ人間に対して行使した──やはり疑う余地もないイカれた女である。
「初めて使ったから私もびっくりしましたけど……あ、もしかして盗賊さんは魔術の心得があるのですか? だったらこの危険さがよくお分かりになると思います!」
「お前の狂いっぷりもよくお分かりになったわクソ女、痛い目に遭いたくなけりゃさっさと解呪の言葉を言いな」
「それは無理な相談です。さっきも言ったじゃありませんか、私はあなたを護衛として雇いたいのですよ」
押し倒されたまま呑気にもグレンの腕を叩いた娘は、よっこらせと宝石箱をぞんざいに床へ置く。ガシャッと音を立てた箱にグレンが青筋を立てる傍ら、彼女は懐から一通の手紙を引き抜いた。
「私と一緒に、あるものを探して欲しいんです。ああっ助かりました本当に! ずっと頼れる方がいなくて困ってて」
「盗賊を頼るなバカ令嬢。そもそも俺は承諾しねえ」
「聖遺物というものをご存知ですか?」
ぴたりとグレンは動きを止める。
その怪訝な表情を見た女が、真剣なまなざしでひとつ肯いた。
「私は──お母様の遺言に従って、神が遺した宝を探さねばなりません。どうかお力添えを、盗賊さん」