3話 お風呂には一緒に入る
お風呂場の前で背中をつけて聞き入っていると、漏れ出た吐息が耳をくすぐる。
私の家を最初に作ったのは異世界から召喚された人で、彼は入浴という習慣について沢山の興味深い事を教えてくれた。
お風呂場のデザインもその一つだった。
当時は自分の好みで書き換えるくらいだったけれど、飽きてからは固定していた。
今では教えてくれた事に感謝している。
「うふふ、いい音」
カレーのお代わりは二人で一緒に食べて、私も久しぶりの食事を楽しんだ。お腹いっぱいになって、後はお風呂の時間だ。
顔を付き合わせてする食事は、とっても楽しかった。
リオンくんは身綺麗にしたがる方らしく、お風呂があると聞いて目を輝かせていた。
あるいは、そういう国の出身だったのだろうか。
バスタオルを貸したら、大喜びで入っていった。
それが数分前。リオンくんはお風呂に入ったばかりで、お湯を流す音が聞こえる。楽しげな鼻歌が響く。
とりあえず私も脱いだ。
タオルを身体に巻きつつ、気分よく笑う。下は水着だ。
良い具合に慌ててくれると嬉しい。
扉の向こうの彼へ、声をかける。
「ねえ、お湯はどうかなー?」
「……んっ、気持ちいいです、あったかくて」
「うん、なら良かった」
静かに、静かに
『扉を通り抜けて彼のすぐ後ろへ』
リオンくんはまだ気づかない。
とても気持ちよさそうに髪を洗って、温かな息を吐いている。
横から見た彼は、目を瞑ってお湯をかけた。
シャンプーが流れ、私の足下に通る。まだ私の存在には気づかない。
音も姿も消しているから、気づかれるはずもない。
忍び寄り、出来る限り近くで声をかけた。
「ねえ、こっち見てー?」
「え……」
不思議そうに振り向いたリオンくんが、私を見るなり目をめいっぱいに見開いた。
「わっ、わぁぁっ!?」
素早く目を閉じ、両手で自分の身体を隠した。
私から背を向け、お風呂場のタイルにへたりと座り込んだ。
「キミを洗ってあげたくて」
「お、おねっ、なん、ちょ、だめ!」
「うん? なんで? キミはまだ子供なんだから、大丈夫だよね?」
すっとぼけて呟けば、彼は必死に首を振る。
それがまた非常に好ましい。
「だめなものはダメですよぉ……恥ずかしいし……」
「へえ。恥ずかしいんだぁ……?」
顔を正面から確認すると、きゅぅぅっと目を閉じていた。
無理矢理開けさせる事もできる。けど、やらない。
もう一歩近づくと、彼は更に身を小さくして、私を見ないようにした。
「ね、一緒にお風呂入ろう? 長い間ここで一人だったから、ほら、やっぱり誰かと一緒に入るのってやってみたかったの」
「で、でも」
「……私とお風呂に入るの、嫌?」
本当に嫌そうにしたら、大人しく逃げ帰るつもりだった。
恐らく大丈夫と踏んだけど、どうだろう。
「い、嫌じゃない、です」
「ならよし」
自分でも驚くほどの安堵が満ちた。
「じっとしてね? 洗いにくいから」
「ううっ……はい……」
さっきまでより背筋を伸ばし、顔は真っ赤でも大人しく受け入れてくれる。
ゆっくりと、その背中を洗う。
「ひぅ」
「痛かったらすぐに言ってね?」
「大丈夫、です。ちょっとびっくりして」
背中もしっかり鍛えられて、筋肉質だ。だけど、子供らしい所は沢山残っていて、決して硬いだけではない。
指も私より小さくて、腕は柔らかさを残している。
「えいっ」
背中に密着すると、小さな声があがった。
「あうっ……ひゃああぁぁ……」
「ごめんね、前を洗いたいの」
この子の心臓が凄い勢いで鳴っていた。
布の上からでも鼓動をさらに強く感じる。
触れ合うと、沢山の苦しみの痕跡がそこにあった。特に火傷が多い。
外の治療技術はそれなりに発展しているようで、さほど目立たない。
が、隠していても密着すればよく分かる。
「傷、いっぱいだね。沢山戦ったんだね」
「……」
「キミは、頑張り屋さんなんだ」
「そんなこと、ないです」
リオンくんが静かになった。俯いて、私が抱きついても反応が薄い。
最後は静かに終わった。
相変わらず目は開けてくれない。
「終わったよ? 大丈夫? 苦しかった?」
「全然、少しも辛くはなかった、です」
何とか調子を取り戻し、彼は明るい声をあげた。
無理に楽しげな振る舞いだった。
「あの、僕、洗いましょうか? その、髪とか、お母さんから、教わってて」
「……私の事、触りたい?」
「いやっ、違うんです! 違くて! ただ、僕、今日ずっとして貰ってばっかりで……こんな事くらいでも、お返しできればいいなって」
大慌てで手を振って、しかし目を開けない。
彼の唇に指を当てた。
「また今後、ね」
「あ、えっと、はい」
「それじゃあ、お風呂入ろっか」
何か言いたそうだったけれど、彼を抱き上げても抵抗はない。
お風呂の中で、膝の上にリオンくんを載せる。
筋肉の上の柔らかな肌を撫で回していると、よけいに縮こまった。
「良いお湯だねー」
「そう、ですね」
リオンくんの心臓が弾けそうなくらい音を立てていて、今にものぼせそうなくらいに真っ赤な顔をしている。
私には心臓がない。
ただ、反射して映った私の顔はかなり赤かった。
「むぅ」
「?」
「あ、なんでもないよ」
自分の胸に手を置いてみたけれど、やはりそこには何もない。
私の身体の中には何も入っていないのだから、当然なのに。
「ねえねえ、キミは、この世界に連れてこられたの?」
彼の全身が強ばった。
後ろから抱きしめていたから、よく分かる。
「……それは」
「うん」
聞かない方が良かったのかもしれない。
口にしてから後悔した。『今の会話は無かった事に』……はしなかった。
リオンくんが自分から「僕は大丈夫」と言ってくれた。
「誘拐されたとかじゃなくて、事情を聞いて、助けたくて」
「あー。なんだっけ、さっき聞いたよね。悪の帝国?」
「そうです。魔族が支配する悪の帝国に襲われてるんだって、召喚する前に教えて貰って」
驚異が、人類の生存を脅かしている。どうか助けてくれ。
そんな風に頼まれたらしい。
「……僕が貰ったスキルがないと、魔族とはほとんど戦えないんだって」
魔族は、私が居た頃には殆ど見ない種族だった。
今では爆発的に増えており、国のような物も持ち合わせているらしい。
彼らは一人の例外もなく、この世ならざるスキルを持っている。
高位の魔族は圧倒的な強さが故に人類の驚異として長く恐れられているそうだ。
だが、召喚された勇者もまた、同じようにスキルを持つ。
だからこそ、勇者は今も召喚され続けているのだ。
……という事らしい。
「すると、分かっていてこの世界に来たの? 危ないっていうのは、知ってたんだよね?」
「はい、分かってました。けれど……それが僕にしか出来ないのなら、頑張りたくて」
そう語っている時だけは、彼は明るく胸を張った。
眩しい笑顔に貫かれながらも、私の頭には疑問が浮かぶ。
「悪の帝国……?」
「?」
「ああいや、気にしないで」
昔はそんな物は無かったような気がした。が、月日が経てば産まれる物もあるだろう。
それにしても、こんなシンプルな呼び名で良いのだろうか。
子供向けに、分かりやすく砕いた表現をしたのだろうか。
彼の口調が落ち込んで、溜息がこぼれた。
「……僕で良かったのかな」
「うん?」
「僕、自分で選んでここに来たんです。だけど……自分のスキルで自分を焼いちゃうようなのが勇者で、本当に良かったのかな」
リオンくんの嘆きは、悲痛な苦しみとして漏れ出した。
「みんな、僕が弱くなかったら死ななくて済んだ筈なのに。みんな僕を守って……僕が弱かったから……」
目は決して開けないまま、何度も何度も自分を責めている。
今にも消えて無くなりそうな面持ちだった。
くるりと身体を彼の前へ移動させ、息が触れ合う所まで顔を寄せた。
私の位置に気づいて、より強く目を閉じている。
「ねえ、私の身体を感じてくれる?」
「え」
彼の手首をとって、有無を言わさず私の肩に当てた。
そこから、二の腕、手首、指先と触らせ、輪郭を確かめて貰う。
「分かるかな? 私の身体の形」
「え、えええっ! あのあの、こんなのよくなくて……」
「私は、ここに居るよ?」
彼は静かに口を閉じた。
ゆっくりと、身体全体の輪郭を手で確かめて貰った。
最後に私の首筋や顔をなぞって貰い、お互いの両手を握り合った。
「少なくとも私は死んでない。分かるよね?」
言い聞かせるように囁くと、リオンくんが小さく頷いた。
「生きている私に集中したら、きっと少しは気が楽だよ」
もう一度、彼は同意を示した。
そして、されるがまま身体をなぞって私を撫でる。
「顔真っ赤」
「……お姉さんも、真っ赤、ですね」
そんな返事ができるなら、もう大丈夫だろう。
改めて背後に回り込み、彼を膝に乗せ、髪をくしゃくしゃと撫でた。
「私、キミは立派だと思うなぁ」
「それは……」
「だってキミの為にみんなが頑張ったんでしょう? それは、凄く愛されてたって事だよ? 気づいてる? キミが素敵で、良い子だっていう証拠」
「……」
「もしも、その人達を失って戦うのが辛くなったなら、ここに居てもいいよ。戦う事なんて忘れて、ゆっくり暮らしてくれて構わない」
「それは、できません」
頑なで淀みなく、意思の定まった声だった。
どれほど苦しみ抜いたとしても、変わらない意思がそこにあった。
「うん、分かってた。今でも戦う気があるんだよね」
人の心を読む力は、その気にならねば持っていない。
だが、彼の内面は簡単に分かった。
「はい。力が全然足りないんですけどね」
「じゃあ、強くなっちゃえばいいの。お姉さんは応援してるぞー?」
頑張り屋さんめ。
うなじに頬ずりしたら、また良い声で反応してくれる。
また抱きしめて、耳たぶに甘噛みをしたら、味はしないけど美味しかった。
「頑張ってね……がーんばれっ、がーんばれっ」
「あはは……はい」
彼は深々と礼をした。
「お姉さん、ありがとうございます」
「イクスって呼んで-?」
「えっと、イクスさん」
名前を呼ばれると、何やら頭が爆発するような気がした。
思わず両頬に手を当てる。熱い。お湯のせいではない筈だ。
リオンくんは私の反応には気づかないまま、微笑んだ。
彼の身に柔らかな光が宿っている。
きっとこれは、濡れた肌のせいじゃない。心が光っているんだ。
「僕、明日になったらここから出ようと思います」
「……そっか」
「みんなの分まで、頑張らなきゃいけないから」
両手を握って、リオンくんは目を開けた。
きっと、ごく無意識な仕草だったのだろう。
凄い勢いでまた目を閉じたので、私を見る事は無かった。
代わりに私はリオンくんの全てを目に焼き付け、出来うる限り身を寄せる。
「……」
溶け合ってしまうくらいに張り付いて、この子の体温を楽しんだ。
窓の外からは微かに光が差し込んでいて、森の木々が音を立てている。
リオンくんと一緒に聞く音は、何やら心地が良い。
そう、私は良い気分だった。
彼が、勇者という存在が何者であるのかも分かっていたけれど、それでも素晴らしい気分だったんだ。
「……ふふっ」
「?」
「なんでもなーい」