その③
「うーん」
「おっ、悩み事か?」
だらしなくテーブルの上にうつ伏せになって唸るリスファに声をかけてきたのは、リスファと同じく王太子に雇われている男性だ。
「お兄さんに話してご覧なさい。少しは悩み事の解決ができるかもよ?」
「……暴力反対っ」
パッと頭を抑えたリスファは、恨みがましく男性を見上げた。
燃えるような赤髪をサイドに流し、涼し気な目元には大人の色香があった。見た目はいいのだ、見た目は。そう、男爵令嬢がうっとりとしてしまう程度には。
「あれは、お前が悪いね。しっかりと仕事をすれば、なにもしないが?」
「……うぐっ」
「オレなんて、名だたる子息たちに嫉妬の炎を燃やされながら、あの子の相手をしていたっていうのに。ちょっとばっかり血筋がいいからって、『父に言いつけて解雇してやる!』って、ありゃないわな。親の権力に丸すがり。聞いてて、二の腕がざわざわしちまったよ」
「わたしたちが王太子殿下に雇われてなければ、有効な言葉だけどね」
男性--ブルガットに聞こえるくらい小さな声で返すと、彼はにやりと笑った。
「そっ。あとは、下級貴族とか? 後ろ盾にそれ相応の権力がないと、太刀打ちできんでしょ。オンヴァート公爵子息、ハル=ウェイット侯爵子息、エイリドック伯爵子息、財務大臣の子息、騎士団団長の子息、……まぁ、そうそうたるメンツだろうね。一人でも睨まれたら社交界では生きにくいだろうに、全員を敵に回したらそれこそ一族郎党が迷うだろ」
「あの坊ちゃまたちが、わかってるとは思えないけどなぁ」
男爵令嬢が現れるまで、彼らは王太子の側近候補らしく、規律を守り、公平さを忘れない素晴らしい人格者ばかりだったらしい。けれど今は男爵令嬢の魅力に取り憑かれ、横暴さが際立っているという。
彼女に話しかけた男子が入れば睨みつけ、時には恋心を抱くなと釘を差したり……。
「だれかを好きになるって、そんなに狂っちゃうもんなのかな」
残念ながらリスファは、まだだれも好きになったことがない。
だから、だれかを蹴落としてでも手に入れたいという気持ちはまったくわからないのだ。
「ははっ。まだお前には早いか」
ぽんぽんとあやすように頭を叩かれ、むっと唇を尖らせた。
「なによ。ブルガットは、わかるっていうの?」
「ふふん。オレのような色男には可愛い子猫ちゃんたちが群がってくるんだよ。オレの心を手に入れようと、子猫ちゃんたちが必死にすがってくるのが可愛いのなんのって」
「あっそ」
リスファは冷ややかにブルガットを一瞥した。
要は、弄んでいるだけだろう。
最低な男である。
リスファの心の声が聞こえたのか、こほんと空咳をしたブルガットは、そういえばと話を変えた。
「今日は勉強会はいいのか?」
「レントレットさんが用事があるみたいで、夕食のあとになったんだ」
「レントレット伯爵夫人、だろ?」
「むぅ。呼び名なんて、なんでもいいじゃん」
リスファが頬をふくらませると、額に手を当てたブルガットが宙を仰いだ。
「あ~あ、礼儀作法を学んでるっていうのに……。お前ときたら……」
「わたしが頼んでいるわけじゃないし」
リンファは不服そうに下唇を尖らせた。
レントレット伯爵夫人は、リスファのために王太子が派遣してくれている家庭教師のようなものだ。
貴族でないリスファが貴族の子息令嬢と肩を並べて同じ教育を受けることはできないが、この先、職に困らないようにと王太子が特別に付けてくれている。
リスファとしても読み書きができるのは大歓迎なので、王太子を見張ったり、菓子作りをしなくていいときには勉強したり、レントレット伯爵夫人にいろいろ教えてもらっている。
王太子に仕えているだけあって、厳しい人だが、孤児だからと見下すことはない素晴らしい人格者だ。
「ちっとは進んだのか?」
「わたし、筋がいいって褒められてるんだから!」
「へぇ……」
疑わしそうな視線である。
「んじゃ、初代の建国王の名は?」
リスファは考えるようにちょっとだけ眉を寄せた。
「確か……、ダゥエル・フォン・ウェルベストン。暗君だった兄王に対し、謀反を起こして、新しく国を造ったんでしょ」
「そ。正解。そのとき付き添った五人の忠臣が、今の五大公の祖先だ」
「でも、なんで、王太子の側近候補には、五大公の子息が選ばれなかったの?」
「王太子殿下、ね。……まぁ、噂だと、王家の剣って言われているからな。王家が道を外せば、それをたしなめる役割がある。冷静な判断をするために、王家からは距離をおいてるって聞くな」
「ふぅん」
平民であるリスファには遠い世界の話である。
興味なさげな相づちに、ブルガットが苦笑した。
「ウェルベストン国の国民であるなら、もうちょっと興味持てって。わかりやすいやつだな」
「それでお腹は膨れないしねぇ」
リスファにしてみれば、王侯貴族のことなんて、はっきり言ってどうでもいい。
こうして王太子に関わらなければ、明日の生活費を稼ぐだけで一生が終わっていただろう。
おとぎ話のように、高貴な男性に見初められて幸せに暮らしました、なんて夢を見る年ではない。
「そんなもんかねぇ……。で、なにを悩んでたわけ?」
「ん? ああ、今度の休みに、レントレットさ……伯爵夫人の家で、お茶会があるんだって。っていっても、家族だけのやつみたいだけど。それに招待されたんだけど、わたしが行ってもいいのかなって」
珍しく不安になったのだ。
ウェルベストン国は身分社会である。
貴族にとって、平民はゴミと同じ。いや、それ以下かもしれない。
それなのに、孤児であるリスファが伯爵家にお邪魔するのは、気が引けた。
醜聞となりはしないのか、と。
この学園の中ならば、ばれることない。
レントレット伯爵夫人から講義を受けていることを知っているのは、王太子やブルガットをはじめとした一部だけだ。彼らが漏らさない限り、この秘密の関係が外へ出ることはない。
けれど、伯爵家に赴けば、より多くの視線にさらされる。
なんの利益もないのに無料で教えてくれるレントレット伯爵夫人のことをリスファは好いていた。だからこそ余計に彼女の汚点とはなりたくないのだ。
「いいんじゃないの? それも練習さ」
「……他人事だと思って」
「そりゃあ、他人事だし。ってか、心細いんなら、付き添ってやろうか?」
ニヤニヤと意地悪く口の端を上げるブルガットを一睨みする。
「招待されてない人は無理だし」
「王太子殿下にお伺いを立てようかな。リスファが不安がってるので、同行させてくださいって」
「言ってみれば? どうせ、却下されるしね」
けれど、リスファの予想は外れた。
残念ながら、ブルガットも一緒に行くことになったのだった。
「さすが、王太子殿下の一声だ」
勝ち誇った顔に、どうしようもなく苛つくリスファだった。