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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ボクらはいつも

作者: 豆田 麦

「おいで」


 抱き上げられたそのほんの何時間か前から、わかんないけど、多分それくらい前からボクの記憶が始まる。


 ボクの体より一回りほど大きなだけの狭苦しい薄暗闇。それが始まり。

 空腹と寒さに震えて体をほんの少しよじれば、鼻先を壁が掠めた。

 その壁に前足をついて、背を伸ばせば、耳の先に天井がふれるのがわかるのにその上には届かない。

 まだ細い爪は軽い感触の壁に突き立つことはなく、かしかし、と空滑りする音が響くだけ。


「わ。子犬だ」


 開かれた空。差し込む白い光。

 久しぶりの明かりに目をしばたかせて、もう一度見上げると、濡れたように光る、まんまるな瞳が覗き込んでいた。


「キミ、捨てられちゃったの?」


 さぁ?知らないよ。そんなこと。ご飯ちょうだい。


「おなか空いてるの?」


 見てわかんない? ぺこぺこだよ。

 きゅぅんと、可愛くないてみせると、そいつは唇をちょんと尖らせて考え込んだ。ご飯、くれないのかな。


「おいで」


 ひょいっと抱き上げられて、ボクはそれまで自分がいた場所を見下ろす。ふたの部分が何度も折れてよれよれになったダンボール箱。昆布の絵らしきものが描かれている。


「わぁ、キミ、臭いなぁ」


 しょうがないじゃないか。ボクだってイヤなんだ。ずっとこんなとこに押し込められてちゃトイレだってままならない。それよりご飯くれるの?


「犬って……何食べるんだろう。お前、好き嫌いある?」



「びっくりしたよな。それまでぺったんこだったお前のお腹、食べ終わったら三倍にも膨らんでるんだから」


 そりゃあ、出てきたと思ったら、にんじんだったり、キャベツだったりするんだから空腹も更に拍車がかかるというものだよ。ハムが出てきたのはそれからずいぶんと後だったんだから。

 どうやら少年は小学校で飼ってた「うさぎ」なるものが好きなものを差し出したようだった。

 子犬だったボクのおなかがはみ出る程度の小さな手を持った少年は、それからずいぶん大きくなった後も、その時のことを笑いながら話す。ボクも大きくなったから、今だってボクのおなかを手で隠すことはとてもできやしないけど。

 




「お前、黄色いね。太陽みたいな色してるよ」


 じゃぶじゃぶとあったかい水をかけられて、ごしごしこすられて、またあったかい水かけられて、今度はタオルでぐるぐる巻きにされながら言われた。すぽんと、タオルの中から首を出すと、くりんとした瞳と小粒な歯が並んだ口元が、にっかりと笑っていた。このお風呂というものは、最初はいただけなかったけどそのうち割りと好きになった。しばらくたつと、お風呂はお手伝いさんが入れてくれるようになったけど、乾かすのとブラッシングはずっと彼がやってくれてた。

 彼のひざに前足をのせて体を伸ばしながらブラッシングしてもらうのはとても気持ちがよく、うっかりそのまま寝てしまったりもした。いや、大きくなってからはあまり寝てしまったりはしてない。ボクの体は大きくなりすぎて、彼のひざにのったままでは、彼の手がボクの腰までも届かなかったから。


「よし。お前の名前決めた。キィタ。黄色いから。黄色の黄に、太郎の太」


 大きくなってから、彼はボクのボスなんだと思うようになったけど、どうもネーミングのセンスはいまだにどうだろうと思う。



「この犬、何歳になるの?」

「僕が小学校の頃に拾ったから……もう十八歳くらいになってるかな」

「ずいぶん年寄りなのね。道理で毛並みもよくないし」


 この女はキライだ。

 結婚とやらをしてこの家に住み着いた女。もう三年くらいにもなるのに、いまさらボクの年など訊いてみてるような女。自分の椅子でくつろぐ彼の横の床に伏せたまま、これ見よがしにため息なんてついてみる。


「あなたなら、もっといい犬買ってもらえたでしょうに」


 いい犬だって? ボク以上に彼をわかってる犬なんてどこにもいやしないさ。そうだろう?

 片目を薄く開けて彼を見上げると、彼は困ったように肩をすくめて、右頬をぴくりとあげた。ボクは満足してまた前足に顔をうずめる。


「でも、こいつ、賢いんだよ」


 彼の手がそおっとテーブルの上を滑る。右に、左に。ボクは上半身を起こしてテーブルにあごを載せる。あった。彼の手が動いた範囲から右に五センチほど外れた場所にあるゴム人形。鼻の先でついっと動かして、彼の指に触れさせた。


「ほらね」


 がしがしとボクの耳の後ろを掻く彼の指。彼は心地よいポイントを知り尽くしている。ご褒美のなでなでを堪能してボクはまた定位置に戻る。

 彼はゴム人形をぎゅっぎゅっと握ってはゆるめ、握ってはゆるめ。

 このぶさいくなゴム人形は、ボクのおもちゃだった。正確には彼のおもちゃだったのだけど、ボクのものにした。ぐにぐにとした弾力ある歯ごたえが、子供のボクには面白く、彼が取り返そうと追いかけるのもまた面白く。その頃流行してたらしいヒーロー人形はボクの歯型があちこちについてる。

 ボクが飽きた後になってからは、また彼一人だけのおもちゃに戻った。



 なんだか最近は昔の頃をよく思い出す。うつらうつらしている時間が増えて、気づくと彼は部屋から出て行ってたりすることもたびたびあった。あの女のいうとおり、ボクも年なのかもしれない。まぁ、でも、まだあの女よりは彼の役に立ってる。彼のこんなわかりやすい癖も覚えられないようじゃ、とても役に立ってるなんていえないじゃないか。





「キィタ! 返せよ! こら!」


 庭は追いかけっこを楽しむにはちょうどよい広さだった。息を切らす彼のほうを振り返っては、寸前で身を翻す。時々わざと捕まえられてやる。だけどくわえたゴム人形は返さない。彼はボクを抱え込んだまま、げらげらと笑いながら転がる。

 寝返りをひとつ打つだけでぶつかった箱の中でより、ずっと伸びるボクの足と尻尾。

 かしかしとむなしく響いたダンボールをこする音よりも、ずっとずっと心地よく響く彼の笑い声。

 ダンボール箱の隙間からほっそりと差し込んだ光の向こうの空よりも、何倍も何倍も広い空。

 おやつの時間ですよと、お手伝いさんの声。

 彼の家族は「オトウサン」と「オカアサン」だけなのだけど、家にはいつも他に何人もいた。むしろ「オトウサン」と「オカアサン」がいる時間のほうが短かったと思う。ボクのお気に入りのお手伝いさんは、彼のおやつの時間にはボクにもおやつをくれた。この「おやつさん」は、ボクが来るずっと前から彼の家で彼のごはんをつくっていた。

 食べ終わった後に、彼がリードを持てば近所の公園や川のそばでかけっこの時間。机に向かえば「しゅくだい」の時間。そんなときは彼の椅子の横で昼寝をした。時々、お手伝いさんのスカートをしっぽではたいて遊んでやったけど、彼女はあまり追いかけっこは好きではないようだった。ボクが引きずり回すにはちょうどよい大きさと重さのラグで遊んだときくらいだった。追いかけっこをしたのは。


「この犬は大きくなりそうだから、ちゃんと訓練所にやってしつけたほうがいいと思いますよ」


 そう言って余計なお世話をする人もいた。彼はボクの横でうつむきながら、ぺろり、と舌を出した。ボクにだけ見えるようにほんのちょっぴり。


「訓練所とか行ったらね、四ヶ月だって! 四ヶ月も帰ってこれないんだよ。そんなに離れてたら、キィタ、僕のこと忘れちゃうよ。キィタだってイヤだよな。キィタはずっと僕と遊ぶんだからね」


 四ヶ月っていうのがどれくらいなのか、ボクにはあまりよくわからないけど、でも、それで彼を忘れちゃうなんて、随分ボクも見くびられたもんだ。ボクらは一緒のベッドにもぐりこむ。ボクの首のあたりの毛の感触を確かめるように撫でながら、彼は寝入ってしまう。それからボクも眠る。夜中に時々彼のひじが額に落ちてきて目を覚ましたりもする。




 ずっとそんな毎日が続いて。

 段ボール箱の薄暗がりなんて、もう全然思い出さなくて。

 なのに、「オトウサン」と「オカアサン」と一緒に車に乗って出かけた彼は、しばらく帰ってこなかった。

 彼の言った「四ヶ月」より、ずっと長かったと思う。ほんとは短かったかもしれない。

 だけど、ボクにとってはうんと長い一日がうんと長く続いた。

 彼のいない部屋は、あの薄暗いダンボールの中のよう。

 空だって、彼と転がって見上げた空よりずっと狭い。


「もうすぐ帰ってくるからね」


 おやつさんが、玄関に座りこんでるボクの頭をなぜていく。

 彼女のことは好きだけど、ボクの心地よいポイントを全然知らない。






「毛並みが悪いってさ。どうだい? 僕のブラッシングは下手かい?」


 あの女が部屋を出て行ってから、彼は床に座り込んでブラッシングを始めてくれた。

 言わせておけよ。あんな女の言うことなんて気にすることないさ。ボクの知る限り最高のブラッシングだ。他に知らないけど。心地よい刺激にうっとりしながらも、ブラシを持たないほうの手を舐める。


「くすぐったいよバカ」


 そういって、また右頬をぴくりとあげて笑った。





 随分と随分と待った後、彼は帰ってきた。

「オトウサン」と「オカアサン」は帰ってこなかった。

 おやつさんに手をひかれて車から降りる彼にとびつく。

 彼は、何度も何度もボクの名を呼んで、抱きしめる。

 「コウツウジコ」というものは、彼から「オトウサン」と「オカアサン」と「光」を取り上げた。



 最初はわからなかった。どうして彼の目とボクの目が合わないのか。

 ボクを呼んで覗き込むのに、彼はボクの後ろのほうを見ていた。

 だから鼻先を舐めた。彼が「よせよ」って笑うまで。

 彼は、一歩一歩、おそるおそる歩く。

 ボクらが追いかけっこですり抜けたテーブルの横。一段抜かしで駆け上がった階段。壁に手をそわせ、テーブルのふちを伝い、片手で椅子の背をつかみ、一番近くの壁にもう片方の手が届くまで、その手を離せなかった。最初の頃は、おやつさんが手をひいていた。


「ここに椅子。ここにテーブル。四歩歩いたらドア。廊下の壁にも階段にも全部手すりをつけましたからね」


 それでも彼の足や腰にあざは増えていった。

 ボクができることといったら、彼の周りをただうろうろして、転んだときに顔を舐めることくらいだった。

 訓練所というものに行っていたら、ボクはもっと役に立てただろうか。

 彼がいない間に行っておけばよかった。

 だけど、ボクはその訓練所というものが何処にあるのか知らなかったし、散歩コースにもなかったように思う。




「もうやだ!」


 転んでも、ぶつかっても、一瞬息を詰めた後に、また顔をあげていた彼が金切り声を上げた。

 テーブルの上におかれたココアのカップを、手にひっかけてこぼしてしまったときだった。今まで彼のそんな声を聞いたことはなかったし、「しゅくだい」の紙を半分くらい食べてしまったときだって、そんな声を上げたりしなかった。(ボクは紙を食べたつもりはなく、その上に散らばったケーキのくずを食べたつもりだったのだけど)

 ランチョンマットを放り投げ、大きなテーブルの上に身をのりだして、その中央にあった花瓶を叩き倒し、椅子をひきずって壁にぶつけた。手にあたるものはなぎ倒して、足にひっかかるものは蹴飛ばした。ボクは降ってくるものをかわしながら、おろおろしてた。おやつさんと同じくらいおろおろしてた。

 息を切らして、まだ手近に邪魔するものはないかと探す彼の足がもつれた。

 戸棚に頭を打ちつける瞬間、彼と戸棚の隙間に滑り込む。

 どん、と彼の頭がぶつかる衝撃が右腹。ごつん、と戸棚の角がめりこんだのは左腹。

 予想以上の痛みにあげた叫び声で、ひっくり返った彼は飛び起きた。


「キィタ。キィタ。だいじょうぶ? ごめんねごめんね」


 腹は痛いし、抱きしめられて苦しいし、耳元で叫ばれて頭はくらくらするし。

 だけど、ボクはそのとき、これまでにないほどの満足感に酔いしれていたんだ。

 ボクが君の役にたてるなんて。


「とっておいで」


 彼がボールを投げる。ボクはそれをくわえて戻る。ぺたりと庭に座り込んだ彼のひざにとびこんで、くわえたボールを彼の鼻先にこすりつける。からからと笑う彼。

 彼は、あれから何度かかんしゃくを起こしたりはしたけども、それでも庭の中まではなんなく歩けるようになった。自分の部屋から台所へ。洗面所へ。バスルームへ。ちょっとずつちょっとずつ動く範囲を広げ、玄関を出て、庭を探り、どこに何があるのか、今咲いてる花はなんなのか。手探りと匂いと風とで感じられることを、ボクに伝えながら。

 家の中から庭の端まですべてを知り尽くした頃、外に開く門まで来た。別に特に外に出たかったわけじゃない。庭は広くて普段の運動には十分だった。ただ、今度は動く範囲を外に広げるのかなと思っただけ。だから、立ち止まって、彼の顔を見上げた。彼が門の柵を軽くつかんだから。


「前みたいに、外に散歩に行きたいかい?」


 行くの? 行きたいの? ボクはキミが行くトコならどこだって行く。

 ボクは自分で言うのもなんだけど、かなり役に立つようになったと思う。訓練所に行った犬にもひけをとってないはず。彼がどこかにぶつかりそうならそっと服をくわえて教えた。彼の欲しいものをとってあげることができるようになった。彼がゴム人形を握りたくなってるかどうかわかるようになった。彼の探検には最高の相棒だと自分でも思う。

 だけど、彼は柵から手を離して庭の奥に戻った。小さな小さな花をどっさりとつけて、いつか行った公園の噴水みたいに咲いている連翹(彼がこの花の名前を教えてくれた。キィタのように黄色い花だよと)の枝の下にもぐりこみ、傍らに座り込んだボクの首に鼻をうずめる。


「ごめんね。行けないよ。連れてってあげられなくてごめんね。キィタがどうしても行きたいなら、誰かに頼んであげるから」


 一体何を謝っているのかさっぱりわからないけども。

 もしかして彼はわかってないのだろうか。ボクは他の誰かとなんて何処にも行きたくないってこと。謝ることなんてないのに。ボクはどこも痛くなんてないのに。

 彼にのしかかって顔を舐める。彼の足にぶんぶんと尻尾を叩きつける。 




 この庭がボクらの国。ボクらだけの世界。




 人間というものはボクら犬よりもずっと大人になるのが遅いらしいけど、一時は立ち上がったボクの体よりも小さかった彼の手足も随分伸びて、甲高かった笑い声が低く響く声になって、もう一度ボクの身長を追い抜いた。

 それでもボクらは小さかった頃と同じように、彼はボクを抱え込んでボクは彼にしがみついて転げまわって遊んだ。

 そして、「疲れたよ。ちょっと休憩」と、ボール遊びをする。それってボクは休憩してないと思うんだけど、それでもボールを投げられると、つい追いかけて真剣に遊んでしまう。


 ボクらだけの世界に、あの女が割り込んできたのは、そのボール遊びの時だった。

 転がったボールをボクよりも先に拾い上げたあの女。ボクは大きくて強い犬だからあんまり吠えないようにしてるのをいいことに、ボクのことなんて知らん振りして彼に近寄っていった。返してよって彼女の周りをぐるぐると回ってるのに、まったく無視。感じ悪い。


 彼は、自分にあたっていた日差しの暖かさがすっと消えたことで顔をあげる。

 吹く風が彼女のにおいを運び、知らない人だと気づいた彼の顔がこわばる。


「誰?」


 彼女は、一瞬ためらって、それからボールを彼に握らせた。


「はじめまして。この庭、広いのね。迷子になっちゃいそう」


 彼女の香水はボクの鼻にはきつすぎるし、彼もにおいには敏感なはず。

 だけど、彼が硬直してるのは多分そのせいだけじゃない。

 彼の心臓の音がいつもより強くて早い。ふわりと汗のにおいがきつくなる。

 怯えを感じて、ボクは一瞬身構えたけど、それだけじゃない。

 もうすっかり彼の手におさまっているボールをはさんで、ほんの少しだけ彼の指先と彼女の指先が触れている。

 うん。彼の中で起きていることは理解できた。ボクだってオスだからね。




「なぁ、キィタ。彼女はどんな感じだった?」


 その夜のブラッシングはほんのちょっぴり上の空。彼の頬もほんのちょっぴり赤らんでる。


「なんの香水かな。うちにはあんな華やかな香水つけてる人なんていないもんな。ほら、庭の東側にあるバラあるだろう? 冬になる前に咲くやつ。あのバラよりも甘い匂いだったよな」


 気のせいじゃないのか。ボクは目にきたぞ。あの匂い。


「うちに出入りしてる八百屋さんいるだろ? 友達がそこでバイトしてて、配達についてきたんだって。今夜遊びに行くからって」


 その友達って男だろ。ボク、何回か見たことあるぞ。八百屋のおじさんはボクに「よっ」って挨拶してくれるけど、あいつは感じ悪かった。すっごいイヤそうな顔してボクからできるだけ遠ざかろうとするんだ。失礼だよな。ボクなんにもしてないのに。おじさんじゃないなって通り過ぎただけなのに。おやつさんだって「この子、おとなしいから大丈夫よ」って言ってくれたのにさ、昔キミが通ってた小学校で見たニワトリみたいに首突き出しただけで返事もしないんだ。というか配達にくっついてきただけで、なんであんな庭の奥までくるんだよ。図々しい女だな。


「なあ、遊びに行くって、普通の人はどんなとこに行くのかな」


 うん。人間って、暗い夜にはボールを見つけずらいと思うんだけどね。なにするんだろうな。


「カラオケとかかな。知ってるか? カラオケ。いろんな歌歌うとこ」


 ……風呂か? キミ、風呂でよく歌ってるよな。


「彼女、きれいな声してたよな。どんな歌歌うんだろう。ちょっと低めでさ、柔らかい声しててさ、素敵だろうなぁ」


 というか、もうちょっとわき腹の上の方ブラッシングしてくれないかな。なんかむずかゆくなった。もじもじと体をひねる。


「あ、悪りぃ。ここ?」


 そこそこ。ボクは満足して鼻息をもらす。彼もため息をついた。


「――でもさ、もう来ないだろうなぁ」





 ところが、あの女は数日後にまた現れ、そのまた数日後にも現れ。最初は「また配達についてきちゃった」とか言っていて、でも三度目からは、当然のように庭に入り込んだ。配達抜きで。


「この庭、素敵なんだもの。すごく手入れしてるのね。誰が手入れしてるの?」

「庭師の人に来てもらってるよ」

「庭師! すごい! 雇ってるの?」


 今日のおやつを賭けてもいい。こいつ、絶対どれが水仙かとかもわからない。だって、さっきからちらっとも花見てない。


「えと、僕、目が見えないだろう? だから匂いを楽しめるようにって、一年中なんかの花が咲いてるように手入れしてくれてるんだ。庭師さんは昔から出入りしてたんだけどね、前はこんなに花とかなかったから」

「ほんとにお金持ちなのねぇ。すごく立派なおうちだからそうなんだろうなぁとは思ってたけど」


 彼を間に挟んで、ボクとは反対側の隣に座り込んでる女は、わざわざボクの方へ手を伸ばして。つまり彼のひざの上に覆いかぶさるように手を伸ばして、クロッカスを一本摘んだ。慌ててのけぞる彼の心音がはねあがったのが聞こえた。


「さて、これは何の花でしょう」


 彼女はにやりと笑って座りなおし、彼の鼻先を小さなラッパのような花でくすぐる。わざとだ。絶対わざとだ。だって彼女の側にもクロッカスは咲いている。


「……クロッカス」

「へぇ! ほんとに匂いだけでわかるのね」

「うん。……キミの匂いもわかるよ」

「え?」

「キミが来たらすぐわかる。声かけられなくても」


 彼女は、鼻の根元に皺を薄くよせた。ボクはその目つきがひどく気に入らなかった。なんだってこいつはこんな目つきで彼を見るんだろう。一瞬の沈黙に、彼はおろおろと取り乱した。


「あ、ご、ごめん。気持ち悪いこと言ったかな。変な意味じゃないんだけど」


 慌てふためく彼を横目で見やる女の目つき。気に入らない。すごく気に入らないぞ。お前早く帰れ。

 女は彼の顔を見ることもなく、声音だけは上機嫌そうに心持ち高めて言った。


「そんなことないわ。香水つけすぎちゃったのかと思ったの。自分だけ自分が臭いの気づかないなんてイヤじゃない」

「臭いだなんて! すごくいい匂いだよ」

「ほんと?」

「うん。初めて会ったときから、ずっと……いい匂いだと思ってた」

「そう。じゃあ、会うときは必ずつけてくるね。この香水。私だってすぐ気づいてくれるように」


 また来るつもりか。この女。


 ボクが好むと好まざると、あの女がうちにやってくる回数は増えていき、三日おきが二日おき、そして毎日現れて。そのうち、夕食も一緒にとって。おやつさんなんか妙に浮かれちゃって前よりおかずが増えちゃって。


「このワインすごく美味しかった」


 おやつさんが帰った後も、いつまでも居座り続けた夜。

 ボクらが小さな頃、おやつさんは彼が眠るまでいてくれた。何人かのお手伝いさんが離れに住んでたけど、おやつさんは別のおうちに住んでて、朝早くきて、ボクらのごはんつくったり他のお手伝いさんにいろいろお願いしていた。お掃除をこうやってねとか、庭師さんにこうしてね、とか。

「僕、大丈夫だよ。もう十四歳になるんだから。眠るまでいてくれなくても大丈夫。キィタもいるし」

 それからおやつさんはちょっとずつ早く帰るようになった。だって家族がおうちで待ってるんだよ。僕だけで独り占めしちゃだめだろう? 彼はボクをベッドで抱きしめながらそう言った。だから夜はボクらだけってのがずうぅっと続いてた。


「よかった。でも大丈夫? 一本飲んじゃったじゃないか」

「そうね。ちょっと飲みすぎちゃったかも」


 飾り時計が短い旋律を奏でた。この時計は順番に違う旋律を鳴らす。なんでかは知らないけど、彼はその旋律で、もう寝る時間だねとか決めてるようだった。別に眠いときに寝たらいいと思うんだけども。


「わ。もう十一時? どうしよう。おうちの人、心配するよね。車呼ぼうか?」


 彼の言葉に、彼女はくすくすと笑って。


「子供じゃないのよ?」


 彼女の指が、彼の手の甲をなぞり。

 彼は、ためらいがちに、そっとその指をつかみ、それから互いの指をゆっくりと、絡ませた。

 その夜から、ボクらの家に彼女の部屋ができた。





「出かけてくるわね。先に寝てて」

「ああ、気をつけて」


 今では離れに住むお手伝いさんは一人もいない。彼女が辞めさせてしまった。「だって、あなたと二人でいたいじゃない?」なんて、指をからませながら。彼は首をかしげ、困ったように右頬をぴくりとさせて。


「でも……、家事をしてくれる人がいないと、君、大変だろう? 僕はあまり手伝いとかできないし、うちはこのとおり無闇に広いしね」


 彼女は額に皺をよせ、いろいろと考え込んで、家事をするのは気に入らないと思ったらしい。お掃除をしたりとかお洗濯をしたりとか、そういったことをしてもらうのに通いのお手伝いさんを雇った。おやつさんは今までどおり通っている。彼は僕に耳打ちをした。


「大丈夫だよ。キィタのご飯は今までどおりだからね」


 夜は二人でいたいわとささやいたくせに、彼女はほとんど毎晩でかけてしまう。

 彼女と彼が結婚とやらをした夜、おやつさんは僕に夜ご飯のお皿を出しながら小さな声でくすくすと笑いながらつぶやいた。


「キィタ、お邪魔しちゃダメよ。もうお前は一緒のベッドで寝れないんだからね」

 





「ああ、キィタ。わかるかい?」


 彼女の部屋ができた次の朝。彼はうっとりと、でもちょっと上の空にボクをなでながら。


「彼女の肌に触るとね、光が見えるんだ。ずっと前に、お前と一緒に遊んだときの、空が見えるよ。彼女の声を聞くとね、なんていうのかな、色とりどりの花に包まれてるように、鮮やかな赤や黄色や緑や青がよみがえるんだ。ねぇ、わかるかい? もうずっと忘れそうになってた景色が、目の前に広がるんだ」


 うん。わかるよ。

 その人がいるだけで、世界中の光が集まるような。

 それはボクも知っている。





 おやつさんの言うとおり、ボクは二人のお邪魔なんて野暮なことはしていない。

 ただ、彼が彼女の部屋で夜を過ごすことはほとんどなかった。

 彼女はたびたび朝まで帰ってはこなかったし、たまにいたとしても彼を誘うことなく自分の部屋にこもってしまった。

 彼は今までどおりに自分の部屋でボクと眠る。

 確かにボクは知っている。

 その人がいるだけで、光が満ちる感覚。


「おいで」


 そういわれるだけで、尻尾が踊る。

 ボクはその喜びを知っている。

 だけど、彼にとって、彼女がそうである理由はどうしてもわからない。


「いいんだよ」


 静かにボクの頭をなでる彼。





 広い屋敷中が暗闇に沈む真夜中。

 こっそりと忍ぶ足音が階段をわずかにきしませる。

 二人分の足音に、ボクは耳をそばだてる。


「いいんだよ。おやすみ」


 彼は、ボクの頭をなぜ、だきしめる。





「キィタ? キィタ?」


 ボクを呼ぶ声にふと気づいて目をあげると、彼が覗き込んでいた。くぅんと返事をして彼の手を舐める。

 ああ、ほんとうに最近は眠くてしょうがない。なんてことだろう。彼はいつからボクを呼んでいたのか。


「よかった。僕をおいていくなよ」


 バカだなぁ。ボクはいつだってキミと一緒だよ。どこにも行くわけないだろう?


「やっぱりもう年なのよ」


 彼女はボクらの部屋にはいりもせず、扉にもたれかかりながらそういった。


「最近眠ってばかりじゃない? あなたが呼んでも来やしない」


 マジで? ボク、そんなに呼ばれていたの? つい情けない声をあげて彼の手に鼻をこすりつけてしまった。彼は何も言わずに、ボクの耳の後ろを掻いてくれる。下唇をきゅっと噛んで。




 この顔をボクは何度見てきただろう。

 オトウサンもオカアサンも今夜はお仕事で帰ってこないと言われたとき。

 学校から持ってきたプリントをなぜか破って捨てていたとき。

 門の外へは行けないよとボクをだきしめたとき。

 僕だけで独り占めしちゃダメだろう? とおやつさんを帰したとき。


 だけど、ボクのことでそんな顔をしたことはなかった。

 ごめんね。ごめん。ちゃんと起きるようにするから、そんな顔しないで。


「いいんだよ。キィタ」


 重い体を持ち上げて彼の頬をなめるボクを撫で続ける。いつのまにかボクは自分の体が重くてたまらなくなっていた。そんなに太ったのかなぁ。でも彼は、大きなはずのボクの体を抱えあげるように撫で続けてくれる。

 ボクらを見下ろす、彼女の顔。醜くゆがんだその顔は、どうしたって、彼に光をもたらす人にはふさわしくない。ぷいっと出て行ったその後には、彼女の残り香だけが残った。残り香だけなら、そう悪くはない香りだってことに初めて気づく。何年もつけてるんだからつけ加減くらいそろそろわかってもよさそうなのに。



 変だと思えばよかった。

 いつもの場所に水がなかった。それは確かにおかしいなとは思ったんだ。


「キィタ。お水? こっちよ」


 あの女が水の置き場を変えたらしい。


「おまえ、下まで降りるの大変なんでしょう? こっちに置くようにしたから」


 確かに階段を降りるのは疲れた。でも彼女がそんな気をつかうなんて、おかしいと思えばよかったんだ。そのときに。

 でも、ボクはそのとき、のどが渇いていて。とてものどが渇いていて。

 彼の部屋から続く小さな部屋。彼が物置に使っていた部屋に置かれた水。

 かちゃり。

 水を飲むボクの後ろで鍵のかかる音。

 まだ陽は落ちていなかったけど、その部屋に窓はなくて、ドアの隙間からわずかにもれる明かりだけで。

 彼は確かさっき庭に出て行っていた。


「お前は寝ていていいよ。ちょっと花を摘んでくるだけだから」


 あの女がどういうつもりでボクをここに閉じ込めたのかは知らないけども、彼の目が見えないからってボクを探せないと思ってたら大間違いなんだ。彼が戻ってきたらすぐ開けてもらえる。ボクが呼べば、彼はすぐボクがどこにいるのかわかるんだから。ほんとにバカだな。一体何がしたいんだろう。そうボクは考えて。で、ボクはそのまま眠ってしまった。ほんとにバカだったのはボクのほうだと、そのときは気づかなかったんだ。




 かちゃかちゃと食器の触れ合う音。紅茶の香り。ドアの向こうに、彼とあの女の香水の香り。


「どうぞ」


 あぁ、また眠ってしまった。早く彼にこのドアを開けてと言わなくちゃ。


「香り、違うね」


 彼女の香水の香りが少しだけ強くなった。


「そう? 紅茶、入れるの慣れてないから」


 かすかに、ほんのかすかに、知らない匂いが混じった空気に気づく。いや、知っている。彼の部屋の向こう。ドアのずっと向こうから運ばれてくる匂い。首から背にかけての毛が逆立った。


「……入れ方が違うのかな」


 いやな沈黙。ボクは一声、吠えた。ここをあけて。


「キィタ? なんでそんなところにいるんだ?」


 早く出して。もう一声吠える。なのに、彼が動く気配がない。


「……ねぇ? 僕は、君のしたいことを止めたことはないし、することをとがめたこともないよね?」

「なぁに? 急に」

「僕は、君がいてくれたら、この家にいてくれたら、それだけでいいと思ったんだ」

「だから、なに?」

「今でも、そう思っているよ」

「だからなんなの?」

「君はそれじゃ、嫌なんだね。僕はこの紅茶を飲むことはできないよ。せっかく君が初めて入れてくれた紅茶だけど」


 彼女が息を呑む音と、彼の部屋のもうひとつの扉がそっと開く音が同時に聞こえた。早く、早くここから出して。

 彼だって気づいてる。彼女とは別の匂いに。もうひとつの忍ぶ足音に。早く。


「な、なによ。せっかくいれてあげたのに気に入らないっていうの?」

「うん。このやり方は気に入らない。僕の部屋にそいつが入ってきてるのも、気に入らないよ」


 押し殺した彼女の悲鳴。

 砕け散る食器の音。

 くぅっと漏れる彼が息を詰める音。

 ボクは、吠え続ける。

 今までこれほど吠え続けたことはないくらいに。


 流れてくる、錆びくさい血の香り。


「ど、どうすんのよ。これ、どうすんのよ」

「どうしようもこうしようもあるかよ。こうするしかないだろう」


 聞き覚えのあるこの声。

 どさり、と、重い音。彼だ。彼の体が倒れこんだ音だ。


「黙らせろよ! あの犬!」

「どうやってよ! できるもんならあんたがやりなさいよ! あんたが怖いっていうからあの犬閉じ込めたんでしょうが!」

「怖いなんていってねぇよ!」

「怖いくせに! ばかみたい! あんなよぼよぼの犬に何ができるっていうのよ!」


 開けて。

 ここを開けて。

 早く、ここを開けて。


「ほら! こんな犬、何もできやしないわよ!」

「ばかよせよ!」


 開け放たれたドア。

 むせかえるほどの血の香り。

 部屋の中央に横たわる彼。

 割れたティーカップと、小さなグラス。

 クロッカスが四本、散らばっている。

 目を開けて。早く起きて。

 ボクは彼の頬を舐める。


「……キィタ?」


 ひゅうひゅうと、彼の声は息が漏れてて、僕を呼ぶ声も聞き取りづらくて。


「どうせ殺すつもりだったんだからいいだろう。同じじゃないか。毒だろうとなんだろうと」

「バカね。こんなに血で汚したら後始末が大変じゃないの。だから毒にしようっていったんでしょうが!」

「別にいいだろう! 誰もこの部屋にいれなきゃいいんだから。最初からその予定だろうが」


 奴らは、わけのわからないことを言い合っている。八百屋のあの男。相変わらず、ボクからかなりの距離をとっている。どうでもいいから、彼の血を止めて。


「なぁ、そんなに予定は変わっちゃいないだろう? こいつの死体を山の中に埋めて、使用人全部クビにしてよ。こいつは今までだって一度も外にでてきやしなかったんだ。誰も気づきゃしない。こいつがいないことになんて。な? 変わらないだろう? 最初の予定と」


 何言ってるんだ。彼はまだ生きてるぞ。早くこの血を止めろよ。誰か呼べよ。

 あの女は大きく息をついて、髪をかきあげる。汗が混じることで一段と濃くなった香りに吐き気がする。

 なのに。

 それなのに、彼は、彼女を呼ぶ。

 彼は、血にまみれた手を、彼女の方へ伸ばす。


「おい。こいつ、まだ生きてるぞ。お前を呼んでやがる」

「……やめてよ」


 なんだよ。彼が手を伸ばしてるんだ。少しくらい触れてやればいいだろう。それくらいしてやってもいいだろう。


「……だめだよ。そいつはだめだ。君に似合わない」


 彼が、絞りだしたその声に。あの男が嘲るように笑った。


「俺が似合わない? じゃあ、お前になら似合うっていうのかよ? そのツラで?」


 ボクは彼の顔を舐め続ける。右の頬からこめかみにかけて、でこぼこと皺がより、まんまるだった彼の目をつりあげるようにひきつらせる皮膚。右の眉があった場所にはつるりとした肌。まばらに残った左の眉とまつげ。焦点の合わない瞳は乾いていて、その代わりに削れた鼻先から、鼻水が少し落ちる。

 ボクは、彼のその頬も鼻も薄くそげた唇も舐め続ける。

 昔、近所の悪がきが、この家を化け物屋敷と呼んでいた。柵の向こう側で。

 やつらから見えない、連翹の陰で、彼はボクを撫で続ける。

 彼は、時々鏡の前に立ち、左手で鏡をなぜ、右手で自分の顔をなぜていた。

 ボクはこっそり、柵にむらがるやつらの前に、わざと前足をあげて立ち上がり、牙をみせてやった。

 ばれないように吠えたりしなかったのに、彼は後から、「だめだぞ」とボクの額を小突いたものだった。


「まぁな。知らないんだろうけどな。見えないほうが幸せってこともあるよな」



 知らないと思うのか。

 彼は、見えてたころの世界の記憶をたどり、音と、匂いと、手探りで、この広い屋敷と庭を探索して征服した。

 お前らが知っていて、彼が知らないことなど、あると思うのか。

 知ってたんだぞ。お前が夜中に何度もあの女の部屋に来てたこと。

 知ってたんだぞ。自分の見た目が他人にはよく思われていないこと。

 彼にはボク以外に家族はいなかったから、そしてきっと家族は増えないだろうってずっと思ってたんだ。

 だから。ボクからみたら馬鹿でいやな女でも、家族になってくれてうれしかったんだ。

 だから。あの女が欲しがるものはみんなあげてた。

 ボクが彼がいてくれたらそれだけでいいのと同じに、彼はあの女がいてくれるだけでよかったんだ。

 なのに。

 それなのに!


「……やめなさいよ」

「なに? お前、情でも移った?」

「だから、やめてよ。そんなわけないじゃない。このあたしが、こんな」

「だよなぁ……これ、じゃあな」


 八百屋は、まだ震える手にもったナイフを逆手に持ち替えた。ぬらぬらと光る刃先は彼の血にまみれている。


「さっさと片付けるぞ。おまえ、その犬どっかにつれていけよ」

「……いやよ」

「いいからそれくらいしろよ!」


 彼女の足もわずかに震えている。一歩分踏み出そうとして、彼がまた彼女を呼び、その声に立ちすくんだ。


「なによ。やめてよ。あんたなんて、ほんとに愛してるわけないじゃないの」


 金切り声で突然叫んだ彼女には聞こえなかっただろう。彼のささやくような声。

 それでも、と。


 ボクは、誰よりも彼をわかってる犬。 

 彼の望むことはなんだってわかる犬。

 だからボクは手足に力を入れる。

 体が重くても、一瞬のこと。

 これくらいの力なら、まだ残ってる。

 そう、大きく跳んで、三歩目には届く。

 甘く、しょっぱい、錆び付いた匂いが喉いっぱいに、鼻の奥にまで広がる。

 ボクの体のずっと奥底にひそんでいたものが暴れだす。

 その暴れだしたものの言うとおりに、なんなく突き通った牙で肉をそのまま引き捻る。

 熱い血しぶきが、壁に飛び散り。

 獲物ともつれあい、倒れこんだ瞬間、腹に熱い感触。

 ひゅぅひゅうと鳴る首。

 ボクの喉元から漏れる唸り声は、我ながら凶暴な獣らしく響く。

 一歩後ずさると、八百屋の手足はびくびくと痙攣した。

 甲高い、女の悲鳴。


 へたりこんだ彼女を横目に、ボクは後ろ足を片方ひきずりながら彼に近寄った。

 彼女のほうに伸ばされていた彼の手をよけ、じわじわとひろがる血だまりをつくっているわき腹に寄り添うように横になる。


「ありがとう。ごめんな」


 なんてことはないよ。どってことない。

 悲鳴をあげつづける彼女が、ようやく、彼の指の動きに気づいた。


「強盗が、来たんだよ」


 彼は、その一言で、もう声が尽きたようだった。唇は動くけど、声にならない。彼女は、その言葉の意味がよくわからないかのように首を振り続けている。ほんとにバカな女だな。一緒に暮らしはじめてから随分たつのに、まだ彼がわからない。ほんとならこの女も噛み切ってやりたかったけど、しょうがない。ボクは彼が望むことが誰よりもわかる犬なんだし、それに、ボクにはもう跳びかかる力は残っていないようだった。ボクのわき腹からもどくどくと血が流れ出してる。彼の血と混じりあい、血だまりはさっきよりも早く広がりつつある。倒れこんだときに八百屋のナイフの上に落ちてしまった。まぁ、どってことない。

 彼女は彼が伸ばした手のほうへ、へたりこんだまま、わずかににじり寄り。

 馬鹿な女。彼の名を呼んであげればいいのに。

 そのくらいしてやってもいいのに。

 黙って手を伸ばしたところで届くはずがない。


 彼は伸ばしていたその手を戻し、ボクの背に置く。


 ボクは彼の首元に鼻先をこすりつける。

 眠るときはいつもそうしてた。


「おいで」


 彼が呼んでる。


「おいで」


 うん。ボクら、いつも一緒だよ。


BGM アゲハ蝶

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