九
トラックの鎮静に合わせるように、どこからともなくパトカーが現れ、たちまち運転席周辺に警官たちが集まってきた。
運転手は軽傷で、車内から引きずり出されると、そのままパトカーの中に押しこまれた。
「ずいぶんと、手際が良いわね」と、仄香は、感心する。
「待機してましたから」と、梨菜は、仄香に向けて、ニッコリと微笑む。
「待機って……ここに、ずっといたってことよね……梨菜ちゃん、私たちが、ここを通るの、わかってたの?」
「はい」
梨菜の快活な返事を聴いて、仄香は、キョトンとする。
「改めて思っちゃったけど……姉さんの『予測』って、スゴいわね」
「でも、一人、逃がしてしまいました」と、梨菜。
「え……」と、仄香は驚く。
「トラックには、二人乗ってたの?」
「はい」
梨菜は、眼を細めて、トラックの方を見る。
「有利香さんは、逃げられることも『予測』してましたけど」
「梨菜ちゃんは、逃げたヒトを見たの?」と、仄香が訊ねる。
「見ました」
梨菜は、首を大きく縦に振る。
「中年の男性で『権限者』でした」
「権限者……」
仄香は、息を飲む。
「それも、『予測』が使える可能性があります」
「そんなことまで、わかるの?」
「私が『臨界』した『ME』を『横取』しようとしました」
『権限者』が、『ME』をエネルギー化させるプロセスを『臨界』と呼び、その際に、所有権を設定することで、自らの『意志』によるコントロールが可能になるのだが、その所有権を第三者が奪う行動を『横取』と呼んでいる。
つまり、『臨界状態』の『ME』の所有権情報を上書きすることなのだが、これを成功させるには、上書きする者の『意志』の強さが、元の『権限者』を上回っていなければならない。
「私の攻撃のタイミングに合わせて、『横取』を、あらかじめ準備していたと考えられます」
「なるほど……」と、仄香は、うなずきながら、梨菜の話に耳を傾ける。
「でも、梨菜ちゃんの『意志』の強さには、さすがに敵わなかったみたいね。逃げ足の方が早かった」
梨菜は、仄香に向けて、右手を差し出す。
「逃げた男に関する情報を送ります。仄香さんなら、心当たりがあるんじゃないかと」
仄香は、梨菜の右手を握り、情報を受けとるなり、大きく息を吸い込み、ムウと声を上げる。
「新谷 紅だわ。間違いない」
仄香の両眼に、真っ赤に燃え上がる炎が写っている。
「『ルの未来』を盗んだ男。梨菜ちゃん、彼を逃がしてしまったのね」
「すみません……」と、梨菜は、頭を下げる。
「逮捕に至るまでに、周辺住民数名を巻き込むと『予測』されたので、後を追いませんでした」
「梨菜ちゃんが謝らなくても良いわ。梨菜ちゃんの判断は正しいわよ」
仄香は、優しげに梨菜を見つめる。
「代わりに、というわけではありませんが」と、梨菜は、ペロリと舌を出す。
「男の左手首を折ってやりました」
「まあ……」
仄香は、眼を丸くするが、すぐに快活な笑い声を上げる。
「梨菜ちゃん、最高! 新谷のヤツ、今頃、悔しがってるに違いないわ」
「アカデミーにいたヒトなんですね」と、梨菜が訊ねる。
「ええ……そう……」
仄香は、眼を伏せ、下唇を軽く噛む。
「私の大切な思い出を……あの男は、持ち去ったの」
「ル・ゼ・ジャセルさん」
「十四年前に出会ったの。たった三日間だったけど、彼と過ごした時間は、とても豊かだったわ」
「障害をお持ちで……お気の毒なヒトだったんですね」
「ルは、そう思ってなかったわよ」
仄香の瞳がキラキラと輝いている。
「ルは、想像することが大好きだったの。自分の生涯を、ずっと想像する時間に費やすことができて、幸せだった、なんてことを言ってたのよ
私のために、ルが教えてくれた『未来』を……私は、大して読んであげることもできずに、失ってしまった……新谷に、要約を任せたばかりに……きっと、新谷を捕まえて、『ルの未来』を取り戻すわ」
「トラックの運転手」と、梨菜は言い、その当人が押しこまれているパトカーの方をチラリと見る。
「取り調べを受けていますが、仄香さんたちを狙った目的について、すぐにわかると思います」
「口を割るかしらね」
「『権限者』が対応しています。黙秘は、通用しません」
「梨菜ちゃん、警察官として、良い仕事してるわね」
「今、情報が届きました。やはり、新谷 紅の配下の人物のようです」
「目的は?」と、仄香が訊ねる。
「……」
梨菜は、眉間にシワを寄せ、唇をピタリと閉じる。
「どうしたの、梨菜ちゃん?」
「新谷 紅の目的は……仄香さんと柴田さんを殺害することだったようです……」
「は!」
仄香は、不敵に笑う。
「上等じゃない」
「仄香さん……」
「私の思い出を踏みにじっておいて、それだけでは足らず、この私の命まで奪おうなんて……今度、会ったら、返り討ちにしてやるわ」
「新谷が、ボクとアネさんの命を狙ってた、だって?」
そこへ、柴田の声が割りこんでくる。
「あのバカ……何を考えてんだ?」
「襲撃した目的については、運転手には知らされてなかったようです。新谷 紅を指名手配する手続きを進めています」
「おちおち、夜の買い物にも出られなくなったな。新谷の襲撃に備えて、防衛システムの設計を考えてみるかな」
「新谷が、私を狙う理由……」
仄香の眼が、鋭く光る。
梨菜と柴田は、仄香の様子から、戦慄を覚える。
「きっと、ルの『未来』に関わることだわ。あの男は、『未来』を知ってる。どうせ、自分の利益のために、私が生きていると不都合な展開を読み取って、始末しようとしたのよ。あの男の考えそうなことだわ」
「『未来』を自分の都合の良いように変えるために、『干渉』したということですか?」と、梨菜が訊ねる。
「そうよ」
仄香は、胸の前で両腕を組み、フンと鼻を鳴らす。
「新谷 紅が、ルさんの『未来』を持ち出したのは、そこには、自分に都合の良い内容があったからではないでしょうか」
梨菜の意見に、仄香は、驚きの視線を向ける。
「もし、そうだとしたら、新谷は、ルさんの『未来』を維持することを考えるはずです。『干渉』を加えたなら、ルさんが『予測』した内容とは異なる『未来』が訪れることになるからです。それは、新谷にとっても、不本意に違いありません」
「梨菜ちゃん……」
仄香は、遠い眼をして、梨菜を見つめる。
「新谷の行動には、きっと何か秘密があると思います。失われてしまっているルさんの『未来』ですが、それがいったいどんなモノだったのか、可能な限り、調べてみる必要があります」
「私が知らない秘密が、まだあるのかもしれないわね」
仄香の言葉に、梨菜はうなずく。
* * *
「やれやれ、恐れ入る」
新谷 紅は、空き家と思しき敷地に身を潜め、周囲の状況を確認している。
梨菜に折られた左手首は、ダラリと下がり、痛みを紛らすかのように、下顎を左右に何度も動かす仕草を繰り返している。
『走査』の範囲は、梨菜や仄香を上回っているらしく、敵の状況を探りつつも、その存在に気付かれない場所を見つけられたのは、彼にしてみれば、幸運と言えた。
「あの娘……」
新谷は、歯の全体をギリギリと擦り合わせる。
「こちらの意図を読み、一瞬にして、手首を折ったばかりでなく、『治癒』の権限を『封印』していった。おかげで、一度、引き返して、『封印』を解除しなければならなくなった
「それに、今の推理内容……侮れないな。これは、対処の順番を間違えたかも……あの娘から、対処すべきだった。アネさんの暗殺も、今回のしくじりで、かなり難しくなった。『計画』を練り直すか……」
新谷は、その場を立ち去った。