七十九
香子は、アンナ・リリーホワイトに仕掛けられた固め技を引き離すのに全身を発熱させたおかげで、発生した汗で入浴後のようなスブ濡れた状態になった。
もともと汗かき体質なので、発汗を促すような行動は毛嫌っていた。
アンナはしかめっ面で香子をにらんだ。
彼女の方は、格闘相手の汗が付着するような状況を毛嫌っていた。
香子が一歩詰めると、アンナは間合いを維持しようと同じだけ後退した。
「調子に乗らないでよね」と、アンナは言った。
「そんな汗まみれになって、私がイヤがると思ってるんでしょうけど」
アンナの右脚がまっすぐに香子に向かう。
香子は、すんなりと避けるが、その動きの際に、汗のしずくが床に落ちた。
アンナは構わず右脚で濡れた床を踏みにじり、もう一方の脚で回転蹴りを仕掛けた。
香子は、垂直に押しこんでくるアンナの左脚を、両掌で受け止め、その脚を掴もうとする。
「無理無理」
アンナは、すばやく左脚を引き抜き、今度は軸脚を変え、左側からの攻撃に警戒してスキができていた右の脇腹を目がけて、右脚の回し蹴りを繰り出した。
香子は、とっさに右肩を落として、右上腕でアンナの蹴りを受けた。
アンナの渾身の力と「意志」が上腕から肩、そして全身へと響き渡った。
アンナの足の裏には、ヌルリとした汗の感触が伝わってくる。
「気色悪い」
アンナは吐き捨てるように言い、右脚に力を流しこむ。
重い押しこみが上腕から入る。
香子は対抗して押し返したいところだが、態勢が悪い。
前傾気味の姿勢では、自ら押そうとする力も接触部の上腕に集中し、このままでは、右腕が潰れてしまいそうだった。
激痛から逃れようと、押す力を緩めると、アンナからの重圧で上体が起こされそうになった。
前傾姿勢だからこそ守られている部分もあり、上体を起こされれば、守れきれていない腹部がむき出しにされてしまう。
当然に、アンナはその隙をついてくるだろう。
香子は、再び押しに注力する。
右腕への負担も再開する。
このジレンマをアンナは見抜き、意地の悪そうな笑みを見せる。
「右腕が悲鳴を上げてるわ。さあ、どうするかしらね、おばさん」
香子は、憎悪に満ちた目つきで、アンナをにらむ。
香子の全身が赤く染まり始める。
固め技を引き離した時のように、発熱を試みようとしていた。
「バカの一つ覚えね。同じ手が二度通用しないことを知るべきだわ」
アンナの右脚から、ヒンヤリとした感触が流れてくる。
香子の発熱に対抗する冷却攻撃である。
お互いの譲れない攻防が、香子の右腕と、アンナの右脚の接触部で繰り広げられている。
「こういう場合は」と、香子が口を開く。
「『意志』の強弱が有利不利を生み出します。あなたと私の差が、ここで明確になります」
「確かにそうね」
アンナは、余裕の態度で、言葉を返す。
「それほど大きな差ではないけど、あなたと私の『意志』では、私の方に遜色が見られる分、不利な展開が予想されるわね」
アンナの右脚からジュウと焼けるような音と、水蒸気が上がるが、至って冷静に話を続ける。
「でも、あなたには量的な限界があるわ。『蓄積型』ではないあなたは、体内蓄積分のMEを使い切ってしまえば、枯渇する」
アンナが言い終わるのに合わせるように、香子からの発熱が止まり、お互いの接触部分から上がっていた水蒸気が無くなった。
「うそ……」
香子は、思わず息をのんだ。
「こんなに早く枯渇が始まるなんて……」
「忘れたの?」
アンナは、勝ち誇ったような笑みを見せる。
「手放してしまった『十字棍』のこと」
「あ!」
香子から、もはや悲鳴に近い声が上がる。
「ずいぶんと注入していたわよね」
「ああ!」
香子は泣きそうな顔になった。
「もう……帰りたい……」
「ふん」と、アンナは鼻で笑う。
「帰れば」
その時、長めのホイッスルが鳴り響いた。
ハーモニー真樹がパーヴェルとヴィタリーの二人に倒された時だった。
「意外とやるわね、あの二人」
アンナは、素気なく評価する。
チームは形勢不利に転じたが、香子個人として、ここでの小休止はありがたかった。
枯渇寸前だった。
多少なりとも、MEの補給ができる。
「小さな安心ね」と、アンナが言う。
「ハーモニー真樹が退場するまでの停止よ。数十秒も無いと思うわ。まさか、そんな程度のことに希望を持とうとしてるんじゃないでしょうね」
「勝負は最後までわかりません」と、香子は反論する。
「それに、ここで少しでも貢献しておけば、きっと……」
「羽蕗 梨菜に認めてもらえるって言いたいんでしょ」
アンナの目つきは、明らかに侮蔑に満ちていた。
「あなたって、どうしようもない『ぶら下がり』ね。私と同一意志から生まれたとは思えない」
「良い働きをして認めてもらおうと努力してるのに、何が悪いと言うんですか?」
「いちいち説明しなきゃいけないところが、イラッとするわね」
アンナは、右拳を握りしめ、奥歯を噛みしめた。
「ここまで勝ち進んできて、まだわかってないっていうのが信じられない。たとえ負けても、どれだけ貢献できたかが評価される。認識が甘いわ。この闘技は歴史なのよ。負けたら、歴史から外される。勝つことが成果なんじゃないの?」
再び、長めのホイッスル。
闘技が再開した。
「あなたの認識なんか、私には関係ない」と、香子は言い返す。
「歴史から外されたから、どうと言うんですか? 私の人生が終わるわけじゃないです」
「一瞬の展開で、一巻の終りってこともあるのよ」
「だったら二巻目に挽回すれば良いじゃないですか」
「ダメだ……コイツ、バカすぎる」
アンナは、香子の顔面に向けて、正拳突きを繰り出す。
「何がバカだと言うんです? 一巻の次は二巻なんじゃ……」
香子は、まっすぐに来る攻撃をヒラリと交わす。
「私よりも大人なんだから、言葉の意味くらい理解しなさい」
アンナは、香子が避けた側の脇腹を狙って、蹴りを入れる。
香子は、接触箇所に『意志』を注入し、『硬化』させて、攻撃を跳ね返す。
「『覚醒』した外見が違うというだけで、あなたと私で老若の差はありません」
「同じ時間の経過が差を生んでいることに気づきなさいってこと」
アンナは、そこで力づくで押しこむ攻撃を止め、接触部から『発火』を注入した。
物理攻撃のみに対処していた香子は、完全に意表をつかれた。
何ら抵抗することもなく、全身に痺れが走り、またそれを『治癒』させるだけのMEが体内に残っていなかった。
「ついに枯渇したってところね」
「体が……動かない……」
香子は、意思とは無関係の震動に悩まされ、指先を動かすことすらできなくなっていた。
「かすり傷も『治癒』できないようね。ここで、私が全力の蹴りをあなたの頭にぶつけていったら、どうなるかしらね? 首の骨が折れて、あなたは死ぬか、ま、運が良ければ、全身麻痺状態の寝たきりで生きられるかも」
「……やめて……助けて……」
香子が涙を流して、命乞いをする。
アンナは容赦なしに全身をひねらせ、跳び蹴りの姿勢を取る。
力強い跳躍で、アンナの右膝が高く上がり、その爪先が香子のこめかみに迫ってくる。
ズンと重い攻撃が吸収される響き。
香子は、両目をつむっていた。
だが、痛みは彼女を襲わなかった。
ゆっくりと両目を開けると、苦痛に歪んだ梨菜の顔が間近に写った。
「は……羽蕗さん……」
梨菜は、香子を覆うように正面から抱きついていた。
「負けるのはかまいません」と、梨菜は香子に言った。
「でも、死んではダメです……」
梨菜の唇の縁から赤い血が流れ始めた。
アンナの右脚のつま先は、梨菜の背中の真ん中にくいこんでいた。
梨菜は白目を剥き、そのままうつ伏せに倒れた。
「……」
香子は、言葉を失っていた。
それは、アンナも同じだった。
長めのホイッスルが鳴った。




