七
今川 賢吾は、両肩を激しく上下に動かしながら、ゼイゼイと呼吸音を鳴らし、正面に立つ、成瀬 彬の顔をにらみつける。
成瀬は、今川の熱い視線を受け止め、ニンマリと笑う。
ここは、I市立高等学校、通称『北高』の硬式テニス部クラブハウスの中。
時は深夜で、当然に、この二人以外に生徒はいない。
「もう限界なんだ。早くカードをよこせ」
今川は、振り絞るように言うと、再び両肩のリズムを取り戻す。
「だから、金が先だよ」
成瀬は、至って冷静さを崩さず、慰めるような穏やかな声で言い返す。
「金は、まだ用意できていない。必ず、後で払う」
「そんな取り引きが成立すると思ってるのか?」
「前のレベルの倍額なんて、高すぎる」
「システムについては、以前に説明したはずだが」
「クソ! カードをよこせ!」
今川が成瀬の襟を掴もうとするが、成瀬は、スルリとそれを交わす。
「乱暴はいけないな」
「クソ野郎が!」
その時、部室のドアが乱暴に開けられる。
二人は驚き、ドアに注目する。
暗闇から浮かび上がるように、身長百四十センチ程度の背の低い女子と、その背後に、二メートル近い山のような男子が現れる。
女子は、少しの躊躇も見せず、部室内に足を踏み入れる。
男子も、その後に続く。
「『生徒会警察』だわよ」と、女子は言う。
今川と成瀬は、両眼を大きく開き、二人とも同時に息を飲む。
「私は、生徒会長代行の西藤 有利香。こちらは副会長の犬飼 武司」
有利香は、さらりと身分を説明し、アーモンド型の整った眼で二人をにらむ。
「FA取引および所持違反で、キミたちを現行犯逮捕するのだわよ」
「生徒会警察……」
成瀬は、ようやく言葉を口にした。
「矢吹嬢は、不在じゃなかったのか……」
「私が矢吹会長の代行を務めているのだわよ」
「代行……」
「矢吹会長が、不在であろうと、なかろうと、許される法令違反は無いのだわよ」
「チクショウ!」
成瀬は、有利香に向かって、突進する。
(こんなチビ女子にやられるかよ)
有利香は、とっさに左手で犬飼の右腕を掴み、右手の平を成瀬に向ける。
「爆発」
詠唱と共に、強烈な衝撃波が成瀬を襲い、後方に吹き飛ばす。
成瀬の体は、部室の壁一面に設置されていた金属製のロッカーに衝突し、大きな凹みを作る。
今川は、恐れをなして、ゆるゆると後ずさりをする。
有利香は、ジロリと今川をにらみ、右手で、そっと今川の右腕を掴む。
「封印」
この詠唱により、今川に起きていた動悸が、ピタリと治まる。
「火花」
続いての詠唱で、今川の全身が白く光り、力が抜けたように、その場にへたりこむ。
即座に、ロッカーの麓に座り込んでいる成瀬に歩み寄り、その左腕を掴んで、「火花」を唱える。
成瀬は、口から泡を吹いて、気絶する。
「二人を外に」
有利香は、犬飼に指示する。
犬飼は、全身麻痺状態となっている二人の男子を、ガラクタを捨てるような扱いで、容赦なく部室から外に放り投げる。
* * *
「この間、梨菜ちゃんが来たわ」
美容師のヒカリさんが、美園 仄香の髪に、丁寧にハサミを入れながら、楽しそうに話す。
ちなみに、ヒカリさんの『しゃべり』の語尾に付いている『わ』は、女性的な区別表現ではなく、方言的な抑揚であり、語尾に向かって、アクセントを強めて読み上げていただけると、正確に再現できる。
「ずいぶんと元気になって、安心してるわ」と、仄香が答える。
ちなみに、仄香の『しゃべり』の語尾に付いている『わ』は、女性的な区別表現である。
「梨菜ちゃん、どんどんキレイになっていくね。背も、また伸びたみたいだったわ」
「『幻影』と『意志』が、ちゃんと繋がったみたいで、良かったわ」
「ホノちゃん、それ、何の話?」
ヒカリさんが訊ねると、仄香は、口が滑ったと、唇に人差し指を当てる。
「何でもないのよ」
「あまり、キレイになりすぎるのも考えモノね。変なムシが付いたりしたら、大変だわ」
「梨菜ちゃんなら大丈夫」と、仄香。
「梨菜ちゃんは、世界最強の女子よ。誰も敵わないわ」
「ショーちゃんも、そんなこと言ってたけど、梨菜ちゃんって、そんなに強いの? その……ケンカが……」
「だから、世界最強」と、仄香は、念を押す。
「ヒカリちゃん、梨菜ちゃんを怒らせちゃ、ダメよ」
「私は、梨菜ちゃんを最強美女にする努力を惜しんでませんから」
ヒカリさんは、鼻をツンと上げて言う。
「自分をキレイにしてくれるヒトに対して、腹を立てたりしないものよ」
「そう言えば、ヒカリちゃん、梨菜ちゃんの分も私に請求してくるのは、別にいいんだけど、最近、料金高くない?」
「お客様に、ご満足していただける、サービスを提供しておりまーす」
ヒカリさんは、声高らかに、仄香の問いかけをはぐらかす。
「それにしても、カットだけで、五万円というのは……」
「ホノちゃんは、最強セレブ」と、ヒカリさんは、仄香の言葉を遮る。
「年収十億を超えてるようなヒトは、細かいこと、気にしないの」
仄香は、ムッと唸り声を上げ、唇をとがらせる。
「いつも、十億を財布に入れて持ち歩いてるわけじゃないわ。財布に入れてるお金の減りが早かったら、いくら私だって、イヤだわよ」
「わたしが、ボッたくってると」
ヒカリさんのハサミが止まる。
「ヒカリちゃんは、そういうことするタイプだわ」
仄香の、その一言で、店内にいたスタッフたちが、一斉に動きを止める。
暗い雲が店内を包みこむ。
ヒカリさんは、平然とハサミの動きを再開する。
「じゃあ、ホノちゃん、他所の店に行きますか?」
「……」
「当サロンでは、サービスに見あった料金設定としております。ご満足いただけないなら、誠に残念ですが……」
「わかったわ……ヒカリちゃん、私の負けよ」
仄香は、ヒカリさんにそう伝え、フウとため息をもらす。
「こんな話、お客さんに向かってしないようにしてるんだけどね」
ヒカリさんは、真顔で、鏡に写る仄香に向かって、語りかける。
「ホノちゃんや梨菜ちゃんの髪を扱わせてもらうのに、必ず心がけていることがあるの。
①必ず、私が対応する
②必ず、専用の道具を使う
今、使ってるこのハサミは、三十万するんだわ」
金額を聞いて、仄香の眉が上がる。
「それからね、
③必ず、道具は、いつでも使えるように調えておく
④必ず、そのヒトに合った化粧品類を使う
⑤常に、美容技術を高める努力をする
私はね、ホノちゃんがお金持ちだからって理由で、こんなサービスプロセスを考えたんじゃないよ。
ホノちゃんも、梨菜ちゃんも、私の美容技術の全力を注ぐだけの価値がある美貌の持ち主だと思って、考えたんだわ」
「……ごめん……ヒカリちゃん……」
仄香は、両眼を閉じて、小さくつぶやくように言う。
「ヒカリちゃんの想い、理解したわ。それだったら、なおさら、ヒカリちゃん以外のヒトに、美容を任せられない」
「良い心がけよ。私以外のヒトのところに行ったらダメですよ」
ヒカリさんのハサミは、リズミカルに動く。
何となく、高い料金設定を押し通すために、うまく言いくるめられた感じがしなくもない。
まあ、いいか、と仄香は、肩をすくめる。
「ところで、ホノちゃん……」
ヒカリさんは、待ち席に置いてあるコミックを、夢中になって読みあさっている、太った中年男子をチラリと見る。
柴田 明史
仄香が経営する岡産業株式会社の研究部長だが、今日は、仄香の運転手として付いてきている。
柴田は、丸く膨らんだ腹を上にして、柔らかめのソファに埋まり、右手にコミック、左手で待ち客のためのサービスとして用意してあったチョコレート菓子を、口に運ぶのを繰り返している。
すでに、彼の周りには、たくさんの菓子ゴミが散らばっていた。
「あのヒトは、髪を切ってくれないの?」
「アレは、ただの運転手」
仄香は、すげなく答える。
「私が終わるのを待っているだけよ。アレに、ヒカリちゃんの店はもったいないわ。千円カットで充分よ」
「ホノちゃんの会社に勤めてるのなら、それなりにステータスがあるヒトよね」
ヒカリさんの瞳が、めざとく働く。
「高収入でも、どこにお金をかけるかは、本人の意識しだい。アレが、美容にお金をかける意義を自覚してるとは思えないし」
「商売人としては、そういう自覚を、いかに目覚めさせるかが大事なんだわ」
ヒカリさんは、柴田に近づいていく。
「こんにちは」
「?」
柴田の視線が、ヒカリさんに向く。