四十一
ミキミキは、落下を割と落ち着いて体感していた。
落下速度は、自動車で郊外のバイパスを走行している程度で、それ以上は早くならない様子。
見回せば、自分が落下している穴は、そんなに大きな穴ではなく、手を伸ばせば、壁に届いてしまいそうなくらいの大きさだった。
それに……今、壁と言ったが、実は壁ではなく木製の棚だった。
等間隔の高さ、等間隔の幅に仕切れた棚が、びっしりと周りを囲んでいたのだった。
見上げれば、今や月のように見える穴の入り口から、見下ろせば、どこまでも底の見えない穴の奥まで、とにかく棚がびっしりである。
棚は、全て空っぽと思いきや、一つだけジャムのビンが収まっているのを見つけた。
「きゃはあ」
わくわくしながらジャムのビンを取ってみたが、中は舐め取ったようにジャムの欠片もなく、何だかイヤなニオイがビンの中から漂っていた。
「とほほう……」
鼻を摘まみながら、適当な棚にビンを戻した。
その後の棚には、興味を引くどころか、まったく何も置いていない棚が続くばかりだった。
ミキミキの体は、どこまでもどこまでも落下していった。
状況に慣れ、落下にも段々と飽きてきた。
足元は、文字通りどこまでも底抜けに暗く、当分、落下の終わりが見えそうにない。
それに、何だか鼻の奥に、先ほどのジャムのビンに着いていたニオイが残っている気がする。
「とほほう……とほほう……」
ニオイを気に始めたら、棚の中にジャムの空きビンが置いてあるのがしきりに目につくようになった。
あれの一つ一つからニオイが出てるからだろうか。
空きビンの数は、どんどん増えていき、やがて全ての棚に空きビンが並んだ。
今や鼻の奥のみならず、露出している肌からも、イヤなニオイを吸収し始め、そのニオイ以外のニオイを思い出せないくらいに身体中に充満した。
まだまだ落下は続く。
イヤなニオイのジャムのビンが収まった棚も、どこまでもどこまでも底に向かって続いている。
いずれ、その風景にも慣れてきたところで、ミキミキは眠気が差してきた。
「……ジヒジヒヒ……」
ジャッキーの笑い声。
ミキミキの眠気が吹き飛んだ。
とっさに下を見れば、地面が間近に迫っていた。
「シュトッ!」
ミキミキは両手を左右に伸ばし、両足を揃えて、華麗に着地を決めた。
「……キキーッ……そんなバカな……」
ジャッキーの悲鳴と共に、ミキミキの周りは元の闘技場の風景に戻った。
目の前で、ジャッキーは前歯をむき出しにし、ギリギリと音を立てて、上下の歯を擦り合わせていた。
明らかに悔しがっている顔であることがわかる。
「みんな、残念だけど……今ので転んでるのよ……あなただけ、なぜ……」
「どうやら、あのどブスは幻像を見せるタイプのようね」と、仄香は言う。
「……どブスの幻像……」と、レナが続く。
「ミキちゃんは、きっと『ウザキ穴』に落ちたんですわ。最後に『シュトッ!』と着地を決めてます」
「『ウザキ穴』って……アリスが落ちた穴?」と、日向が尋ねる。
レナは、コクッとうなずいた。
「……ああっ……」
そして、両手を顔に当て、叫び声を上げる。
「どうしたの?」と、日向が訊くと、レナは激しく両手を当てたままの顔を左右に振った。
「どブスさんにキレイに舐められて空っぽになってるジャムのビンが……ダメです……私には堪えられません……あのイヤなニヨイに包まれるなんて……」
《残念だけど、あなたたちさ》
灰色のフードを着用し、まるでネズミ男のように見えるジャッキーの顔が大画面いっぱいに広がっている。
会場のあちこちから悲鳴が上がり、気絶する者まで現れた。
《私がキレイに舐めてあげたジャムのビンを見せてあげただけなのよ……ジヒヒ……》
「唾液のニオイ!」
仄香が悲鳴を上げる。
「ダメダメダメダメダメダメ……ぜったいダメ!」
体のあちこちに痒みを感じたのか、盛んに手足を動かして掻き始めた。
「ミキミキは、ストレス耐性が超人だからね」と、梨菜がさらりと言った。
「その程度の幻像では惑わされないんだろうね。他のヒトは、生理的に受け付けられないみたいだけど」
《生意気なのがいるね……あなたが矢吹パンナだね……ジヒヒ……》
ジャッキーのクレイジーな瞳が梨菜をギョロリと見つめる。
《あなたの対戦相手が私じゃないことに感謝するんだね……ジヒヒ……私は残念だけど……》
「キミの相手はミキミキ」
梨菜は、年上の相手でも、構わずキミ呼ばわりした。
「ミキミキを無視しない方が良いよ。あのコは、私をマネて、ずる賢いからね」
《フン》と鼻を鳴らして、ジャッキーは灰色のフードを頭から外し、自分の対戦相手の所在を確かめようとするが、その姿がどこにも見当たらなかった。
「どこ行った?」
とたんに焦りが見え始め、辺りをくまなく見回すが、ミキミキは見つからない。
「ジヒジヒ……逃げたかな……」
「じゃーん」
背後からミキミキの声。
ジャッキーは全身を震わせ、素早く後ろを振り向くが、ミキミキを視界に入れることはできなかった。
「きゃはあ……」
さらに、背後からミキミキの声。
ジャッキーは精一杯の反射神経を駆使して振り返るが、ミキミキの姿を捉えられない。
ミキミキの動きは、まるでジャッキーの背中と繋がっているかのように、その背後を押さえていた。
「ジヒヒ……そう来るなら……」
ジャッキーは、再び『魔界』と唱えた。
今度は、ジャッキーの数が二人に見える幻像だった。
そして、三秒が経過して、倍の四人になった。
さらに、三秒の経過で八人……十六人……三十二人……あっという間にドーム内は、ジャッキーで満たされた。
「……キモい……」と、ミキミキは思わずつぶやいた。
その期待に応えるかのように、すべてのジャッキーがピンク色のガムを一斉に口に放り込み、クチャクチャと音を立てて噛み始めた。
「あれは、ウメ味のガムですね」と、レナが説明する。
「ヨダレがたくさん出るヤツです……ああ……きっとニヨイが……ウメよりもニヨイがきつくなければ良いのですが……」
さらに、さらに、ジャッキーはガムで風船を膨らませ始めた。
無数のジャッキーが膨らますピンク色の風船が隙間なくびっしりと周りを埋めつくしていき、その状態は、高校の通学途中にある農業用水路で大量に見かけたジャンボタニシの卵にそっくりだった。
ミキミキの全身に鳥肌が立ち、悲鳴も上げられないほど硬直した。
両生類や虫類の卵が整然と並ぶ様は、生理的に苦手なのだった。
ジャッキーが作り出した巨大化したジャンボタニシの卵は、増殖を繰り返し、ミキミキの肌にベタベタと粘性の強い液体を擦りつけてきた。
加えて、あのジャムの瓶から漂ったとの同じイヤなニオイが、粘液とコラボレーションとなって、ミキミキを包みこもうとしていた。
「いもうとの様子がおかしいことよ」と、真樹が声を上げた。
ジャッキーの幻像が見えるのはミキミキだけ。
他の者たちは、無防備なジャッキーに対して、手も足も出さないミキミキを不思議そうに見ていた。
「ミキちゃんは、恐ろしい幻像を見せられています」と、レナが真樹に向かって言う。
「おそらく……あのどブスさんが無数に表示されてるんじゃないかと……あのピンク色の風船ガムは……まるでジャンボタニシの卵のように群生して……」
想像力が超人的に豊かな仄香は、「ぎゃあああ」と悲鳴を上げて気を失った。
すかさず、梨菜がその体を支えた。
「ミキミキ……大丈夫かな?」
さすがに梨菜も心配になり、思わずつぶやいた。
「……不穏になりかけてるんじゃ……」
「私も、それを心配してることよ」と、真樹も続く。
「天使様が止めに入らないと……たぶん……他のヒトでは止められないことよ」
「ふおん?」
そばで二人の会話を聞いていた日向が首をかしげる。
「どろろーん」
ミキミキが「きゃはあ」でも「とほほう」でも「じゃーん」でもない声を上げたので、観客たちは驚きのあまり、どよめいた。
ジャンボタニシの卵に包まれたミキミキの顔は、直線が上の分度器のような目と、直線が下の分度器のような口で構成されていた。
「やっぱり不穏になってる」
梨菜と真樹が揃って声を上げた。
「どろろーん……」
ミキミキは、下顎を左右に動かしながら、ジャンボタニシの卵を掻き分け掻き分け、前進し始めた。




