三
仄香は、部屋の隅にあった小さな腰掛けを取り、ルの頭のそばに置いて、腰を下ろし、改めて、彼の右手を握りしめた。
ルの状況については、仄香は、すでに『情報』の確認によって、理解していた。
仄香が、これまで生きてきた期間と、ほぼ同じ間、ルは、寝たきりで過ごしてきたのだ。
そこに同情心が働くのは、ごく自然な流れだが、ルが送ってくるメッセージには、躍動感が感じられた。
その感覚は、悲惨な人生を経てきた者が持つものではなく、むしろ、充実した人生を経てきた者のようだった。
仄香は、そんなルに、とても興味を惹いた。
《楽しそうだわ》
まずは、ルに、思ったとおりのことを伝えた。
《あなたのことを、いろいろ知りたいのだけど》
《ボクは、あなたに、いろいろ訊きたい》
お互いの想いがぶつかり合った。
仄香は、ニッコリと微笑んだ。
ルは、その魅力的な微笑みを『情報』によって、受け取った。
《仄香さん》
ルは、そう呼んだ。
《ボクは、見てのとおり、生まれてからずっと、ここから動けない生活を送ってるんだ》
《ボクが知ってることなんて、仄香さんから見れば、小さなことだと思う》
仄香は、握りしめているルの右手に、ギュッと力をこめた。
《あなたの心の中は、とても豊かだわ》
《狭いところで、小さな世界しか見ていなかったヒトには見えない》
《さっき「ようこそ、ボクの世界へ」と、あなたは言ったじゃない》
《だから、あなたの世界のことを教えてちょうだい》
ルは、視覚的に自分の感情を伝えられない代わりに、ベートーヴェンの『歓喜の歌』の一部分を、仄香に発信した。
《ボクは、これまでに、身近なモノから『情報』を得ることと、想像することしか、したことがないんだ》
《ボクに与えられた全ての時間を、その二つだけに費やしてきた》
ルのメッセージは、実にリズミカルで、受け取っている仄香も楽しい気分になった。
《とても素敵だわ》
仄香は、ルに伝えた。
《今までに、何を想像したの?》
《未来》
《あなたの未来?》
《違う。世界の未来だ》
仄香の眼が丸くなった。
ルは、その様を確認できないが、仄香が驚いている状況は理解できた。
《世界の未来って……》
《今度は、ボクが仄香さんに質問する番だよ》
ルは、穏やかに、仄香の話を遮った。
《メイドのアイリスは、いつもボクのそばにいて、いつもボクのことを一生懸命に世話をしてくれる》
《でも、彼女とは、一度も会話を交わしたことがない》
《会話が交わせないんだ》
《今日、初めて会った仄香さんとは、こうして会話ができるのに》
《あなたと、アイリスの違いは何?》
仄香は、その質問に対し、少し思案してから、こう答えた。
《『権限』が有るか、無いかの違い》
《権限? そういえば、さっき、あなたは、ボクのことを『権限者』って言ってたね》
《あなたは『権限者』よ》
《仄香さんと会話ができる『権限者』ってこと?》
《違うわ。『魔法の眼』を利用できる『権限』よ》
《マジック・アイ?》
《今度は、私の番》
仄香は、勝ち誇ったように笑った。
《あなたには、未来がわかるの?》
《世界が、これからどうなるかを知ってる》
《そういうのを『予測』っていうのよ。でも、世界レベルで『予測』できるって話は聴いたことがないわ》
《これまで、ずっと考え続けて、導いた未来だ。でも、変更する必要が出てきた》
《変更って、どういうこと?》
《ボクの番だ》
ルは、『歓喜の歌』のフレーズを送った。
《『マジック・アイ』って何?》
《様々な『情報』を持った粒子。どんな『情報』でも、手に入るわ》
《それは、どこにあるものなの?》
《私たちの身の回りに、たくさん存在しているわ》
《ボクが仄香さんのことを知れたのも、それのおかげだね》
《あなたは『権限者』よ》
《仄香さんの他にも『権限者』はいるの?》
《一万人に一人ぐらいの割合でいると言われてるわ。でも、そのほとんどは、自分でも気付いていないの》
《じゃあ、ボクと仄香さんが出会えたのは、奇跡に近い確率なんだね》
《そうでもないと思うわよ。『権限者』は、『権限者』の存在を察し、引き合うモノだと言われてるわ》
《確かに、そうだね。ボクと仄香さんは、お互いの存在を感じ合えたから、出会えたんだ》
《私の番よ》
仄香の手の平が、じんわりと湿り気を帯びてきた。
《あなたの想像した未来を変更するって、意味を教えて》
《仄香さんが、ボクに教えてくれたんだよ》
《どういう意味?》
《仄香さんのようなヒトの存在。『権限者』の存在だよ》
《『権限者』が、どうかしたの?》
《ボクには、その想定が無かった。だから、大きく変えなきゃいけない》
《大きくって、どのくらい?》
《かなり大きいね》
《どのくらい先までを『予測』してたの?》
《十五年くらい》
《……》
仄香は、沈黙した。
《ボクの番……いいかな?》
ルの問いかけに対して、仄香は、しばらく返答することができなかった。