二
ル・ゼ・ジャセルは、F国首都より北方へ百キロ程度に広がる工業地域の、地元住民の誰もが中心的企業と認める大会社の、オーナー屋敷の最上階の部屋に、寝たきりとなっていた。
部屋は百平米ほどで、個室としては大きな間取りとなっているが、大きめの窓が三つ設けてあるので、陽光が隅々まで行き渡り、部屋の中は常に明るい。
ルには、専属のメイドが付いており、部屋の清潔維持はもちろんのこと、ベッドの周りには、献身的な配慮による装飾や生け花などが施され、花の良い香りが緩い風に乗って、ふんわりと部屋の中を漂わせるなど、居心地の良さが保たれていた。
ルは、この時、二十九歳。
父親は、先の説明にあった地元の大会社の社長を務め、ルは、裕福な家庭の長男として生まれたが、先天性の脳性麻痺の影響で、生まれてからずっとベッドから起き上がったことはなく、四肢は微動すらできず、五感を働かせた経歴は白紙のページのまま、自律神経と生命維持に必要な臓器以外に、唯一、機能しているのは、思考回路のみという状態だった。
つまり、メイドが施した献身的な装飾の数々を、ルは、感じ取ることができないのであった。
それでも、メイドは、ルのために、毎日、花を入れ換え、部屋の清掃を欠かさなかった。
そして、聴覚が働かないルに対して、積極的に声を掛けた。
その声は、決して、ルに届くことはないとわかっていたが。
ルは、気の毒な青年。
そのような印象は、あくまでも、外観から観た彼の印象に過ぎないのだが、すぐそばで献身的に世話をしているメイドですら、その外的印象による認識に捕らわれていた。
ところが、ルは、理解していた。
自分の置かれている状況。
自分の周辺の状況。
自分という存在によって、与えてしまっている家族や使用人たちの情緒。
自分の身体のどの部分とは特定できないが、あらゆる『情報』が、ルの思考に入ってくる仕組みがあり、彼は、その『情報』から、多くのことを理解していた。
屋敷には、広い書斎があり、そこに置かれてあるたくさんの書物から、歴史、思想、哲学、創作物の豊かさを知り、そして、屋敷を出入りする多くの人々から、周辺住民たちの噂話の他、さらには、世界の情勢、人類を取り巻くあらゆる問題や課題に関する『情報』が提供された。
ルは、生まれながらにして、『覚醒』した『天然の権限者』だったのだ。
もちろん、彼の状況では、そのことを誰かに伝える術が無かったこと、彼が発信したメッセージを受容できる能力を備えた者がいなかったことから、彼が『権限者』であることは、誰も知る由がなかった。
ルの思考は生き生きと活動し、新たな知識を得て、解釈を産み出すという、動的な循環を繰り返すことによって、生き甲斐を導いていたことを、微動だにできない不幸な青年に対して、いったい誰が想像できただろうか。
家族と使用人以外に、ルの存在を意識できる人物の登場。
彼自身も、そんな人物の登場など想定していなかったのだが、ある日、彼の屋敷を訪れた人物によって、その想定は打ち砕かれた。
その人物は、日本人。
彼の父親の事業の出資者で、これまでに何度か屋敷に来たことがあったが、今回は、夫人を共に連れての訪問だった。
七十を過ぎた紳士だが、夫人の方は二十九歳。
ルと同じ年齢だった。
さらに、ルの興味を惹いたのは、その美貌だった。
メイドとは、まるで違った雰囲気を漂わせる異国の女性。
前髪を直線に切り揃えた栗色のショートボブの小顔。
アーモンド型の大きな眼。
ルは、たちまち彼女に夢中になり、彼女に関する様々な『情報』を入手した。
名前は、美園 仄香。
四年前に、資産家である美園 東と結婚。
年の差は、実に四十九年の開きがある。
三年前に、長男を出産。
子の名前は、玲人。
今は、本国の父母の家に預けてきている。
今回の訪問は、ルの父と仕事関係上の初顔合わせ。
仄香は、F国への往訪は初めてで、観光も兼ねている。
屋敷には、三泊する予定。
三日間……
ルの心の中は、喜びに満ちていた。
この短い期間に、彼女のことを、できるだけ、たくさん知っておこう。
そして、そう長くはないであろう、自らの人生の思い出として、刻んでおこう。
ルは、この与えられた出会いと機会に、神に感謝の意を捧げた。
部屋から一歩も出ることができない身であっても、ルはこれまで体験したことのない充実感を噛みしめていた。
そこへ、ルが予想もしていなかった事態が生じた。
《誰?》
《誰かいるの?》
《私に近づこうとしている、あなたは誰?》
ルの思考が止まった。
メイドが、こちらの意思に関係なく呼びかけてくる声とは明らかに違う、こちらの意思を認識した上で発せられた呼び声であった。
ルが、これまでに経験したことの無い、問答のやり取りを、発信者は求めているのだ。
その発信者は、階下の寝室にいる仄香であることもわかっていた。
《ル・ゼ・ジャセルさんね》
仄香の声が、さらに届いた。
ルは、動揺していた。
コミュニケーションの要求。
どう対応したら良いのか、まるで見当もつかなかった。
《あなたのことは、誰からも聴いてないわ》
《あなたも、私と同じ『権限者』ね》
《心と心で通じあい、私には、あなたのことが理解できるわ》
《きっと、あなたも、私のことを知ってるのね》
ルの心の中は、激しく渦巻いていた。
何か言葉を返さなくては。
何か言葉を返さなくては。
健常者ならば、唇を噛みしめたり、呻き声を上げるといった、転位行動をとる場面だ。
ルには、それができない。
何も行動できない自分に対して、ルは、恥じらいを感じ、悲しい気持ちに包まれた。
涙を流したくても、やはり、それができない。
でも、ルの心の中には、おびただしい量の涙が流れていた。
何もできない。
悔しい。
悔しい。
《……ごめんなさい》
《あなたの気持ちを、完全に理解できていなかったわ》
仄香から、声が届いた。
仄香の頬にも涙が流れていることを知って、ルは驚いた。
《あなたが悪いのではないのです》
《ボクが……その……どんな言葉を返せば良いのか、わからなかったから……》
《少しの会話もできない自分が、情けなくなって……》
《あなたの部屋に行っても良いかしら?》
ルが、たどたどしくメッセージを送っているところへ、被せるように、仄香からメッセージが届いた。
ルが返信するより早く、仄香は意を決したように、部屋を出た。
ルは、戸惑ったが、仄香の行動を止める方法も、理由も、思いつかなかった。
仄香の歩みは、淀みが無く、すんなりとルの部屋のドアを開け、ベッドのそばまで来た。
そして、そっとルの左手を握りしめた。
ここまでの仄香の行動を、ルは、『情報』の採取だけで理解した。
《暖かいわ、あなたの手》
仄香のメッセージが、ルの体内をめぐって、思考の中枢にたどり着いた。
ルの意識に合わせるように、心臓の鼓動が早まった。
《改めて、初めまして》
《私は、美園 仄香です》
それに対して、ルは、返そうとするメッセージの選択に迷い、何も送り出せないでいた。
《慌てなくても良いのよ》
仄香の言葉は優しく、ルの心を包んだ。
ルは、落ち着きを取り戻し、ようやく選んだメッセージを仄香に送った。
《ようこそ、ボクの世界へ》