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レモンティーン  作者: 守山みかん
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(re)(ze)ジャセル(jasel)は、F国首都より北方へ百キロ程度に広がる工業地域の、地元住民の誰もが中心的企業と認める大会社の、オーナー屋敷の最上階の部屋に、寝たきりとなっていた。

部屋は百平米ほどで、個室としては大きな間取りとなっているが、大きめの窓が三つ設けてあるので、陽光が隅々まで行き渡り、部屋の中は常に明るい。

ルには、専属のメイドが付いており、部屋の清潔維持はもちろんのこと、ベッドの周りには、献身的な配慮による装飾や生け花などが(ほどこ)され、花の良い香りが(ゆる)い風に乗って、ふんわりと部屋の中を(ただよ)わせるなど、居心地の良さが保たれていた。


ルは、この時、二十九歳。

父親は、先の説明にあった地元の大会社の社長を務め、ルは、裕福な家庭の長男として生まれたが、先天性の脳性麻痺の影響で、生まれてからずっとベッドから起き上がったことはなく、四肢は微動すらできず、五感を働かせた経歴は白紙のページのまま、自律神経と生命維持に必要な臓器以外に、唯一、機能しているのは、思考回路のみという状態だった。

つまり、メイドが施した献身的な装飾の数々を、ルは、感じ取ることができないのであった。

それでも、メイドは、ルのために、毎日、花を入れ換え、部屋の清掃を欠かさなかった。

そして、聴覚が働かないルに対して、積極的に声を掛けた。

その声は、決して、ルに届くことはないとわかっていたが。


ルは、気の毒な青年。

そのような印象は、あくまでも、外観から観た彼の印象に過ぎないのだが、すぐそばで献身的に世話をしているメイドですら、その外的印象による認識に捕らわれていた。


ところが、ルは、理解していた。

自分の置かれている状況。

自分の周辺の状況。

自分という存在によって、与えてしまっている家族や使用人たちの情緒。

自分の身体のどの部分とは特定できないが、あらゆる『情報』が、ルの思考に入ってくる仕組みがあり、彼は、その『情報』から、多くのことを理解していた。

屋敷には、広い書斎があり、そこに置かれてあるたくさんの書物から、歴史、思想、哲学、創作物の豊かさを知り、そして、屋敷を出入りする多くの人々から、周辺住民たちの噂話の他、さらには、世界の情勢、人類を取り巻くあらゆる問題や課題に関する『情報』が提供された。


ルは、生まれながらにして、『覚醒』した『天然の権限者(ナチュラル・ギフター)』だったのだ。


もちろん、彼の状況では、そのことを誰かに伝える(すべ)が無かったこと、彼が発信したメッセージを受容できる能力を備えた者がいなかったことから、彼が『権限者(ギフター)』であることは、誰も知る(よし)がなかった。

ルの思考は生き生きと活動し、新たな知識を得て、解釈を産み出すという、動的な循環を繰り返すことによって、生き甲斐を導いていたことを、微動だにできない不幸な青年に対して、いったい誰が想像できただろうか。

家族と使用人以外に、ルの存在を意識できる人物の登場。

彼自身も、そんな人物の登場など想定していなかったのだが、ある日、彼の屋敷を訪れた人物によって、その想定は打ち砕かれた。


その人物は、日本人。

彼の父親の事業の出資者で、これまでに何度か屋敷に来たことがあったが、今回は、夫人を共に連れての訪問だった。

七十を過ぎた紳士だが、夫人の方は二十九歳。

ルと同じ年齢だった。

さらに、ルの興味を惹いたのは、その美貌だった。

メイドとは、まるで違った雰囲気を漂わせる異国の女性。

前髪を直線に切り揃えた栗色のショートボブの小顔。

アーモンド型の大きな眼。

ルは、たちまち彼女に夢中になり、彼女に関する様々な『情報』を入手した。


名前は、美園(みその) 仄香(ほのか)

四年前に、資産家である美園 (あずま)と結婚。

年の差は、実に四十九年の開きがある。

三年前に、長男を出産。

子の名前は、玲人(れいと)

今は、本国の父母の家に預けてきている。

今回の訪問は、ルの父と仕事関係上の初顔合わせ。

仄香は、F国への往訪は初めてで、観光も兼ねている。

屋敷には、三泊する予定。


三日間……


ルの心の中は、喜びに満ちていた。

この短い期間に、彼女のことを、できるだけ、たくさん知っておこう。

そして、そう長くはないであろう、自らの人生の思い出として、刻んでおこう。

ルは、この与えられた出会いと機会に、神に感謝の意を捧げた。

部屋から一歩も出ることができない身であっても、ルはこれまで体験したことのない充実感を噛みしめていた。


そこへ、ルが予想もしていなかった事態が生じた。


《誰?》

《誰かいるの?》

《私に近づこうとしている、あなたは誰?》


ルの思考が止まった。

メイドが、こちらの意思に関係なく呼びかけてくる声とは明らかに違う、こちらの意思を認識した上で発せられた呼び声であった。

ルが、これまでに経験したことの無い、問答のやり取りを、発信者は求めているのだ。

その発信者は、階下の寝室にいる仄香であることもわかっていた。


《ル・ゼ・ジャセルさんね》


仄香の声が、さらに届いた。

ルは、動揺していた。

コミュニケーションの要求。

どう対応したら良いのか、まるで見当もつかなかった。


《あなたのことは、誰からも聴いてないわ》

《あなたも、私と同じ『権限者』ね》

《心と心で通じあい、私には、あなたのことが理解できるわ》

《きっと、あなたも、私のことを知ってるのね》


ルの心の中は、激しく渦巻いていた。

何か言葉を返さなくては。

何か言葉を返さなくては。

健常者ならば、唇を噛みしめたり、(うめ)き声を上げるといった、転位行動をとる場面だ。

ルには、それができない。

何も行動できない自分に対して、ルは、恥じらいを感じ、悲しい気持ちに包まれた。

涙を流したくても、やはり、それができない。

でも、ルの心の中には、おびただしい量の涙が流れていた。

何もできない。

悔しい。

悔しい。


《……ごめんなさい》

《あなたの気持ちを、完全に理解できていなかったわ》


仄香から、声が届いた。

仄香の(ほお)にも涙が流れていることを知って、ルは驚いた。


《あなたが悪いのではないのです》

《ボクが……その……どんな言葉を返せば良いのか、わからなかったから……》

《少しの会話もできない自分が、情けなくなって……》


《あなたの部屋に行っても良いかしら?》


ルが、たどたどしくメッセージを送っているところへ、(かぶ)せるように、仄香からメッセージが届いた。

ルが返信するより早く、仄香は意を決したように、部屋を出た。

ルは、戸惑ったが、仄香の行動を止める方法も、理由も、思いつかなかった。

仄香の歩みは、(よど)みが無く、すんなりとルの部屋のドアを開け、ベッドのそばまで来た。

そして、そっとルの左手を握りしめた。

ここまでの仄香の行動を、ルは、『情報』の採取だけで理解した。


《暖かいわ、あなたの手》


仄香のメッセージが、ルの体内をめぐって、思考の中枢にたどり着いた。

ルの意識に合わせるように、心臓の鼓動が早まった。


《改めて、初めまして》

《私は、美園 仄香です》


それに対して、ルは、返そうとするメッセージの選択に迷い、何も送り出せないでいた。


《慌てなくても良いのよ》


仄香の言葉は優しく、ルの心を包んだ。

ルは、落ち着きを取り戻し、ようやく選んだメッセージを仄香に送った。


《ようこそ、ボクの世界へ》


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