十五
葉島 香子は、銀行ATMで残高照会をして、両手を震わせていた。
SKL株式会社から、先月に続いて、五十万円が振り込まれている。
羽蕗 梨菜により、オフィスと修練場が押さえられて以来、まともに出勤していなかったのだが、給料だけは支払われ続けている。
つまり、まだ解雇にはなっていない、ということだ。
香子は、さらに、この状況の意味を掘り下げて考えてみる。
あの新谷社長が、給料を払いっぱなしにして、私を放置するだろうか?
もらえるものは、このまま、もらっておきたいけど……
社長は、きっと、どこかで私のことを監視してるに違いない。
なら、この一ヶ月あまり、まったく連絡が無いのは、どういうことだろうか?
給料を自動で支払われる仕組で、私は、実はクビになってるけど、支払いを止め忘れてるとか。
それなら、社長は、きっと取り返しに来る。
横領しようとしていた私を殺しに来るかもしれない。
この、お金は受け取ってはいけない。
すぐに社長に返さなくては。
どうやって……
どうやって……
香子は、思い余って、銀行の入口付近に立っている案内係の女性のそばに行く。
案内係は、すぐに香子に気付いて、「どうしましたか?」と、訊ねてくる。
「あの……」
香子は、五十万円の入金記録が二度記載されている通帳のページを開いて、見せる。
「このお金を返したいんです……」
香子の声は、緊張で上擦っている。
「えっと……どのお金ですか?」と、案内係が訊ねる。
「この……五十万円……です……二回振り込まれてる……」
「拝見いたします」
案内係は、香子の通帳を横から覗き見て、記録内容を確認する。
「何か手違いがあったのでしょうか?」
「このお金は受け取るわけにはいかないんです……すぐに返さないと……」
「この入金者のSKL株式会社というのは、お客様とは、ご関係が無い先ということでしょうか?」
「いえ……」
香子は、何度も首を横に振る。
「私の勤め先なんです」
「え?」
案内係の両眼が真ん丸になる。
「では、このお金というのは……」
「私の給料です」
「……」
「私、仕事してないんです……給料だけ、もらうわけには……」
「あの……お客様……お勤め先にご相談なさった方がよろしいかと存じますが……」
「連絡先がわからないんです」
香子は、不安定なビブラートに乗せて、その持っていき場の無い想いを案内係に伝えようとした。
「警察のヒトに、スマホから記録が消されてしまって……全然わからなくなってしまったんです」
「……」
香子の精一杯の演出も虚しく、案内係からは、ため息のみが返ってきた。
「申し訳ごさいませんが、当行では、お客様のお力になれませんので、警察署にご相談いただきますよう、お願いいたします」
案内係は、香子に向かって最敬礼する。
周辺の来客たちの視線が、香子に集まり始める。
「す……すいません……」
香子は、慌てて、銀行から外に飛び出した。
生活費を引き出すつもりだったのだが、し忘れてしまった。
元の銀行に戻るのは、ばつが悪いので、近くのコンビニに入って、店内のATMで手数料を支払って、五万円を引き出した。
ついでに、昼食にと、塩だけのおにぎりと、緑色のスムージーを買って、イートイン・コーナーに行った。
当面の生活には困らない状況だが、今後のことを考えなくてはならない。
一度は、オフィスの様子を見に行こうか……と、考えて、すぐに香子は首を横に振った。
また、あの羽蕗 梨菜と会うかもしれない。
私に向かって、何のためらいもなく『光弾』を撃ってきた子。
あの状況から、どうして、私が助かったのかわからないけど……
社長が、いつも私の比較対象にしていた子。
苦手なタイプだ、あの子。
もう、二度と会いたくない……
香子は、おにぎりを半分くらい、かぶりつく。
口の中は、ご飯でいっぱいになる。
一緒に買った飲み物がフルーツ味のスムージーなので、合わせて口に含むのは、相性が良くない。
仕方なく、何度か咀嚼を繰り返して、口の中を空にした。
すぐにスムージーをストローで、一息分、吸い込む。
社長が連絡してこないのは、なぜだろう?
次の指示を出してくれれば、私は動けるのに。
もう一度、おにぎりにかぶりつく。
今度は、用心して、さっきの量の半分くらい。
口をモグモグ動かしながら、スマホをバッグから取り出し、SKL株式会社について、検索してみる。
考えてみれば、七年間も勤めておきながら、会社の概要や沿革をまったく知らない。
入社のきっかけが、社長によるスカウトで、当時は、口頭で説明を聴いただけで、資料などをもらったわけではなく、また聴いた内容も、大して記憶に残っていない。
今さらながら、それを知ろうと調べてみたが、情報は、ほとんど無かった。
得られたのは、B国O州に研究施設があることくらいだが、詳しい住所は不明で、連絡先も不明。
本当は、もっと正確に調べることができる手段があると思われるが、香子にしてみれば、これが精一杯の努力なのだ。
そして、荒々しく、いきなりな決断をこのタイミングで下そうとしている。
それは、とにかく、B国O州に行ってみようという決断である。
香子は、次にB国O州について、検索してみる。
B国の、ほぼ中央に位置する州で、面積は日本国土の約二分の一、人口はN市の1.5倍に相当する三百五十万人。
州内には国際空港が二ヶ所あり、メインは、州都にあるO市国際空港である。
まずは、ここに行くことを目標とする。
次に目指すのは旅行会社、ということで、香子は、近所の大型ショッピングセンターに向かう。
ちなみに、彼女は、外出は、すべて自家用車を使用している。
行動は、常に単独で、一緒にお茶を飲んだり、SNSで日々の活動歴を伝え合うような友人はいない。
表立った恋愛経験は無く、彼氏いない歴は年齢と等しく、三十年である。
丸っこい小顔で、ややつり上がり気味の細い菱形のキリリとした眼をしており、尖った鼻、フワッと突き出た唇も、すべてバランス良く整った美貌の持ち主だが、モテない理由は、積極的なコミュニケーションに対する行動不足と、むしろ否定的に捉えている自己とその過小評価、そして、何より災いしているのは、独り身であることに何の問題も感じていない点、もっと言うと、結婚願望がまったく無い点にある。
ショッピングセンターの駐車場に入ると、エントランスからは、かなり遠い位置の、がら空きになっている隅の方に停め、長い距離を歩く。
とにかく、ヒトとの干渉事がキライなのだ。
なるべくヒトと関わらないようにするのが、彼女のポリシーである。
店内には、三社の旅行会社テナントがある。
エントランスに一番近いテナントは、知名度が高く、お値打ちツアーで有名な会社だったが、全部の窓口が塞がっていたので、脇目もふらず通過。
二つ目のテナントは、受付に誰も姿が無かったので、これも通過。
三つ目も満席。
一つ目に戻るが、相変わらず満席で、二つ目は、やはり無人。
再び三つ目を通りかかった時に、タイミング良く窓口が一つ空いたので、近づいていくと、女性店員も愛想良く笑顔を向けてきた。
「いらっしゃいませ、どうぞ、こちらに」
香子は、うれしそうに、カウンターの前の椅子に座った。
「B国のO市に行きたいんです」
「観光ですか?」と訊かれ、香子は、フワッとした唇を一文字に引き締める。
「……いえ……仕事です……」
「お仕事ですか……現地でのご滞在期間は、何日を予定されていますか?」
「それが……その……決めてないんです」
香子がそわそわしながら答えると、店員は少しだけ首をかしげ、苦笑する。
「航空券のご購入だけ、ということで、よろしいですか?」
「あの……できれば……向こうでの宿泊先もお願いできたら……」
「かしこまりました」
店員は、手元のタブレットを操作し、その検索結果を表示させた後に、香子の方へ向ける。
「N市国際空港からB国O市国際空港への直行便はありません。まずT国際空港への国内移動と、現地にはD市国際空港への到着になりますので、O市への中継便に乗り継いでいただくことになります」
「所要時間は……どれくらい、かかるんですか?」
「運航は、毎日二便ありますが……」
店員は、画面に表示されている所要時間計算結果を指差す。
「中継の待ち時間に左右されますので……だいたい二十時間くらいですね」
二十時間と聴いて、香子から大きなため息がもれる。
「費用は……」
「滞在期間を、どういたしましょうか?」
「とりあえず……一週間……で」
「かしこまりました」
店員は、タブレットを一旦自分の方へ向け、追加条件を入力した検索結果を表示させた後、再び香子の方へ向ける。
「当社と提携しておりますCCホテルがお値打ちにご利用いただけますので、そちらに五泊朝食付の設定で……往復運賃、宿泊料合わせて三十万円程度になります」
費用は、五十万円以上を想定していたので、三十万円の提示額は、むしろ拍子抜けした。
しかし、滞在期間は、一週間で足りるのだろうか。
向こうに滞在している間に、社長の居所を探すことになるのだが、英語をろくに話せない自分に、そもそもヒト探しなど、できるのだろうか。
スマホの着信履歴やアドレス帳を消されたくらいで、行き場を失ってしまうくらいなのに……
外国まで行って、私に何ができるのだろうか。
私に何が……
私に何が……
「お客様」
店員に声をかけられ、ぐるぐる回っていたループ思考に歯止めがかかる。
「ご出発は、いつになされますか?」
「早い方が……」
「どのツアーも空いておりますので、明日にでも、ご出発いただけますよ。パスポート申請は、大丈夫ですか?」
「あ……まだです……それも訊いておきたくて……」
「N市駅前の『旅券センター』で、申請の手続きをしていただきます。ご存じかと思いますが、受け取りまで、だいたい一週間くらい必要です。期限切れのパスポートはお持ちですか?」
「いえ……持ってないです……」
「無くされてしまいましたか……最近、海外に行かれたことは、ありますか?」
「……無いです……これが初めてなんです……海外に行くのは……」
「ええ!」
この回答には、さすがに店員も驚いて、思わず声を張り上げてしまった。
初めて行く外国が、二十時間かけていくB国の内陸都市とは……
きちっとした計画もなく、女子一人だけで……
仕事って言ってたけど……
「あの……つかぬことを、お伺いしますが……あちらに、どなたか、待ち合わせされてるお知り合いとか、お見えになるのでしょうか?」
気を取り戻して、店員は、香子に訊ねてみる。
「……私……ヒトを探してるんです……」
「ええ!!」
店員の二度目の悲鳴が上がる。
「ヒ……ヒト探しですか?」
「……社長が……私を置いて……国外に行ってしまったんです……私……社長を探してるんです」
「その……社長さんは、B国にいらっしゃるのですね。確かな情報で、O市に行けば会えると……」
「それが……わからないんです……O市に行けば、たぶん会えるんじゃないか、と思って……」
「……」
「他に情報が無いんです……O市に行くしか……」
「……社長さんとは、連絡が取れないんですか?」
「取れません」
香子は、そこは、はっきりと返事した。
「警察のヒトに、スマホをいじられたみたいで、それから連絡が取れなくなりました」
「警察……」
店員は、ゴクリと音を立てて、息を飲み込む。
「とにかく、O市に行けば、何とかなると思うんです。パスポートは、すぐに取りますから、ツアーの申し込みをお願いします」
香子のキリリとした視線に、店員は圧倒される。
「……かしこまりました」
店員は、ツアー申し込みの用紙を香子の前に出す。
こうした経緯から二週間後に、葉島 香子は、B国O市に向けて、生まれて初めての外国に出発した。
N市国際空港の国際線ゲートを無事に潜り抜けていった香子の後ろ姿を追いかける視線があった。
「ようやく出発しました」
その男は、スマホで相手に伝えていた。
「そちらへの到着は、そちらの時間で、明日の午後になります……監視はあったと思いますが、彼女には手も足も出せなかったようで……とりあえず計画どおりに進みそうですね……良かったです」
男は、スマホをしまい、鉄道駅の方に引き返していった。
西藤 有利香は、さらに背後から、全体を窺っていた。
香子と男の両者の後ろ姿を交互に見ながら、肩をすくめた。
「葉島 香子の引き離し作戦は、失敗に終わったのだわよ。予想以上に行動力はあるのねよ。やっぱり、仄香さんに頑張ってもらうしかないのだわよ」
香子の背中が見えなくなったところで、有利香も、その場を後にした。




