Ⅱ
誰もいない寒いキッチンで悲鳴が響く。
嗚咽と嘆息の入り交じったような悲鳴だ。
それは、間違いなく俺の悲鳴だ。
俺は何度も何度も腹を包丁で刺しまくる。しかし痛みは感じなかった。
俺には痛覚がない。
それは生れつきだった。
「くそぉ、くそぉぉぉッ!!」
何度も何度も突き付ける。刺して、抜いて、刺して、抜いて。
しかし、血液は地面を染めるけれど俺には一つも傷が出来なかった。
刺して、抜いたら回復するのだ。
何もなかったかのように回復して、つるつるな皮膚が張り付く。
怒りに震える俺をそして嘲笑う。
ケラケラケラケラと嘲笑う。嘲笑い、嘲笑う。
「自傷も出来ねえのかよッ!俺は、俺は死ぬことも生きることも許されてねえのかよッ!」
俺は返事をしない。ただ、無言で狼狽える俺自身を睨んでいた。
そしていつも通り怒りの感情に身を任せて包丁を投げ捨てる。そして落ち着かないまま肩で息をした。
昔からだ。転んだ傷も、刺した腹も、直ぐに回復する異常な回復能力を生れつき持っていた。そんなものいらないが、拒否権などない。
そして俺は度々その能力の不要さに怒りをぶつけていた。
「お前は悪役だろ?」
鏡に映る黒い影が薄く笑う。
「なら、死ぬ前に巻き添えにしろよ。平凡に生きている老若男女、殺しちまえ」
意識を保ち俺も薄く叫び笑う。
額にはぬるい汗が流れていた。
「俺はてめえとは違ぇんだよ、クソ鈴也」
影は機械的に咽び笑う。その影は瞳だけが赤色だった。
「かかかかか。てめえは永遠にピエロだろ。人間になろうとしたって無駄だ、貴様を支える糸が切れない限りな」
笑顔で鏡を叩き割った。轟音とともに破片が舞う。
「俺はもうお姉様の道化師じゃねえ。俺は自分で生きる電池式のカラクリおもちゃだよ。だからいつかは生きたえる」
影は笑う。笑い声がキッチンに反響していた。
「言うなら、てめえがピエロだよ」
呟くように言うと、それきり声が聞こえなくなった。
急に訪れた静寂に身を任せる。
しかし影はまだ残っていたらしく声が聞こえてきた。
「だけどお前はもうじきピエロでもなくなる」
コツンとやかん同士がぶつかり合う音がした。
「どういう事だよ」
影は今度は白熱灯のランプの影と一体化していた。
「魔法少女、というのに聞き覚えがあるか」
魔法少女。
ふと五年前に俺から離れて行った義理の妹の事を思い出した。
「ないな」
「そうか、なら少し説明させてもらう。魔法少女という存在が一年前から流行っていてな。魔法少女になろうと願った少女が魔法少女になれるテキストが販売されたらしい」
魔法少女になる為のテキスト。
「ゲームか?」
「ゲームの世界に住みたきゃずっと寝とけば良い。しかしそれは現実だ」
なら妹は魔法少女になれるのだろうか。
「魔法少女って何が出来るんだよ?」
影が首を振る。
「知らん。しかし、魔法少女になれる期限は一年だ。一年経てば、死ぬ」
「そんなの誰が魔法少女になるっていうんだよ」
「それが多くてな。300人ほど魔法少女がいると噂に聞いたことがある」
300人?…の自殺者が?
「近頃は自殺者が多いんだな…。物騒な世の中だ」
「いや、必ずしも一年で死ぬ訳ではないらしい。ある行為をする度、一年延ばせるそうな」
魔法少女が住む世界。それはお伽話のようでありながら酷く現実味に帯びていた。
「ある行為?」
「ああ、共食いだ。共食いが魔法少女の寿命を延ばすんだ」
頭の中で捕食音が響き渡る。目を閉じ耳を塞ぎ影を睨んだ。
「つまりそれは、人間同士の共食いか?」
影は陽炎のように揺れる。
それと同時に白熱灯が灯りを消した。
影はとうとう返事をしなかった。
「それなら、どうしてそんな世界を俺は今まで気づかなかったんだ」
深き闇の中、影は一層濃く形を保っていた。
「魔法少女は、不死の人間を食えば不死の身になるらしい」
不死の人間。
そんなのは一人しかいない。
だから影は俺に忠告しに来たのだ。
「取り敢えずお姉様の元に向かう。これからの事を考えるのはそれからだ」
「了解した」
影はケラケラと笑いながら消えて行く。
そして俺は薄く見える死を大きく笑い飛ばした。