やっかいな友情(こんとらくと・きりんぐ)
河口と奥地を往復するオンボロ蒸気船は夜の河をしんどそうに遡っていた。岸辺には森と沼地、それに開拓村や国境警備隊が川岸につくられた桟橋にしがみつくように掘っ立て小屋を並べている。
ショートへアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋は後部のデッキで白いペンキが剥げかけた錆っぽい欄干にもたれて、マッチをすって、一服つけた。
蒸し暑い夜だった。星がかかった空でさえよどんで見えるような具合で、水が船体にヒタヒタとぶつかる音だけが心地よさそうにきこえてきていた。
一つ前の村で降りた男は昆虫学者で毎年、この時期、この一帯にやってきて、新種の昆虫を十種は見つけるそうだ。そんな辺境の地にやってきたのはもちろん仕事のためだが、もう少し仕事を選んでもいいような気がしていた。
というのも、今回の仕事はまだ依頼主と標的が知らされていない。今晩、その両方を知らせるというひどくいいかげんな話だった。
ただ、殺し屋にも否がないわけではない。安全な仕事よりも、こういう微妙な仕事を優先して受けるのは他ならぬ殺し屋自身なのだ。
デッキから階段で降りると社交室で天井の扇風機が温い空気をかき回している。客が何人かいる。殺し屋は一番近いテーブルの灰皿に煙草を押しつけると、カウンターの席についた。
名無しの依頼人曰く、この社交室のなかに依頼人がいて、そして標的がいる。殺し屋は抜け目なく目を配った。
まず、カードをしている二人組の男がいる。どちらも白い熱帯地方用の背広を着崩していて、一人はがっしりとしていて、もう一人はひどくやせていた。勝っているのはがっしりとしているほうで、その手元には金貨が山のように積まれている。痩せたほうにはもう銀貨の山が二つあるだけだが、動揺している様子はなく、涼しいものだ。
次は女性の一人旅。蝋紙張りの長椅子に座ったオールドミスらしいその女性のそばには、キザな男が一人、そばに座っていて、船のなかのことや外のことについて、頼まれもしないで説明をしていた。
今だって、外からきこえてきた女性の悲鳴のようなものにオールドミスがビクッとすると、キザ男はあれは沼地でカエルがヘビに飲み込まれた音ですよ、と説明する。まるでオールドミスのために説明できることが嬉しくてしょうがないみたいだった。それに対し、オールドミスは「まあ、かわいそうなカエル!」と言ったが、それは本当にかわいそうに思ってのことというよりはそう言うのが淑女のすることだと思ってのことだった。
左舷の窓際に一人、老弁護士が座っている。トランプのスペードを逆さまにした形の顎鬚を生やし、この暑さにかかわらず、黒い背広をきっちり着ている。ゴム農園関係の権利書やら契約書やらをイライラしながらめくっては万年筆で何か書き加えている。ときどき思い出したように給仕を呼んで、ぬるくなったコーヒーを変えさせていた。
そして、最後にこの給仕。まだ若く、給仕とバーテンダーとコックを掛け持ちにしている器用貧乏な男でつくることができる料理は干しタラのフライだけ。出すのは温くなったコーヒーか地元で飲まれている火酒。
殺し屋は、依頼人は老弁護士で、標的は説明狂のキザ男と睨んでいた。というのも、キザ男からはいかにもスケこましらしく、いやらしい下心があって、あれこれ説明役を買っているふうがある。老弁護士のイライラはいかにも寝取られ男っぽい。おそらく親子ほどに歳が違う若い妻がいて、それをキザ男が寝取った。だから、殺すのだ。
「ほら、あれを見てください」たぶんあと二時間かそこらで人生が終わることになるキザ男がオールドミスに言った。「あの二人、奇妙なゲームをしているんですよ。勝ったほうが負けて、負けたほうが勝つ。変なルールでしょう?」
殺し屋はカードをしている二人を見た。つまり、金貨の山が出来上がっている男のほうが負けていて、もう銅貨が二十枚手元に残すだけとなった痩せた男が勝っているというのだ。なるほど、痩せた男がちっとも焦っていないのもそれで納得だ。
そのとき、老弁護士が立ち上がった。そして、書類を足元のカバンにどんどん詰め込むと、殺し屋のほうへ歩いてきた。
さあ、やっと依頼人の登場だ。
ところが、老弁護士は殺し屋の前を通り過ぎて、そのまま社交室の出口へ。
依頼人候補が消えると今度は標的候補もいなくなった。というのも、オールドミスが部屋へ戻ろうしたので、キザなナイトを気取ってその手を取ろうとしたのだ。
殺し屋と負けたほうが勝つゲームをしている二人、そして、給仕でコックでバーテンダーの若者が残った。
時計が午後十時を指すと、給仕でコックでバーテンダーの若者は本日終了の札をカウンターの上に置いて、とっとと立ち去った。
そのとき、ゲームの決着がついた。最後のコインが痩せた男からがっしりした男へと移っていく。決着がついたのだ。
ゲームが終わると、二人は思い出したように煙草を取り出し、一服つけた。煙一呑みで痩せたほうはひどい咳をした。あまりにも激しく咳き込むから目に涙が薄い膜を作ったほどだ。
二人は殺し屋のほうを向くと、こっちに来るよう手招きした。
殺し屋はカウンターから離れると、二人が座っているテーブルの空いている席に座った。
「おれが依頼人」痩せたほうが言った。
「おれが標的だ」がっしりした男はそう言ってから、目の前の金貨の山を指差し、「これが報酬だ。文句はないな?」
「まあ、ぼくのほうが構いませんけど」
殺し屋はがっしりした男にたずねた。
「ほんとにいいんですか。ぼくに殺されても?」
「そういうゲームだ」がっしりした男が言った。
「そういうこと」痩せたほうが相槌を打った。
さあ、行こうぜ、とがっしりした男が言い、痩せた男を残して、デッキへ上がった。
殺し屋は半信半疑でナイフを取り出した。
がっしりした男はくわえていた煙草を河に捨てると、デッキの最後尾の欄干の上に尻を落ち着けた。
「このまま胸を刺せば、おれの死体は河へ真っ逆さまだ。お前のほうもそうしたほうが面倒がなくていいだろう? じゃあ、さっさと終わらせてくれ」
殺し屋が仕事を終えて、社交室に戻ると、痩せた男が袖をめくって、ゴム管で腕を縛り、その片端を噛んで引っ張りながら、注射器でモルヒネを打っていた。
「中毒なんですか?」
「いや」注射を終えて男が答えた。「末期ガンだ。どこがガンなのかよりも、どこがガンじゃないかを数えたほうがはやいくらいの末期だ。報酬ならそのカバンに全部入れた。全部金貨で重いと思うなら、銀行で両替するんだな。まあ、一番近い銀行でもここから二日かかるが」
「これは好奇心なんですが」と、殺し屋。「なぜ、ぼくを雇ったんです? 標的はあなたにとってどんな人だったんです」
「親友だった」
「でも、殺しちゃったんですよね?」
「ああ。ほんとはおれが死ぬはずだった」
痩せた男は首をふった。
「お互い、妻帯もしていない。おれはもうガンで死ぬことが決まっていたから、あいつに全財産を残す気だった。そのために負けたほうが勝つゲームをやったわけだ。あいつは堅物でカードなんて生まれて初めてさわったようなやつだから、おれがわざと負けるなんて、お茶の子さいさいのはずだったが、今日に限って、ツキに見放された」
「わかりませんね」殺し屋は小首を傾げた。「お金を残すなら、こんな面倒でリスクのある方法を取らずにただあげればいいじゃないですか」
「あいつは施しは受けない。絶対にな。だから、こうやって面倒なゲームを仕組むしかなかった」
「でも、あなたがゲームに勝ったとして――つまり、あなたが標的になったとしても、あっちの人が依頼人になって、お金は全額ぼくへの報酬になりますよね。それじゃ、結局、あの人にお金は残らないじゃないですか」
「おれもお前さんの業界についてちょっと調べた。お前さん、標的を殺れなかったら、報酬は全額返金するんだってな? だから、おれが逃げ切って、ガンで死ねば、報酬はあいつの手元に残る。実際、モーターボートをこの船にこっそり横付けしておいたんだ」
「あなた、ぼくから逃げる気でいたんですか? こういっては何ですけど、ぼく、結構腕はいいほうですよ」
「わかってないな。おれを殺すとなると、ガンがお前さんの商売敵になるってことだ。そりゃ、お前さんは狙撃用の高性能な銃や爆薬を使えるかもしれない。だが、おれの内臓を寝返らせるなんてできないだろ? ガンはそれができるんだ。胃も肝臓も骨も、みーんなおれを裏切って、ガンの味方になりやがった。それにあんたからは逃げることはできても、ガンは無理だ。逃げる先逃げる先で必ず待ち受けている。そのたびにおれの体のどこかがおれを見限りガンの味方になる。ここまできいて、あんた、ガンに勝てる気がするか?」
「ちょっと厳しいですね」
「そういうことだ。でも、その計画もパーだ」
「こう言っちゃなんですけど、あなたの友人、めんどくさいくらい誇り高いですね」
「そうだ。めんどくさいほど誇り高い。だから、最高の友だった」
痩せた男は灰皿の吸い差しを手にとって、思い切り吸った。
大粒の涙がモルヒネで濁った目からポロポロこぼれ落ちた。