古事記の神話① イザナギとイザナミ
・世界のはじまりと神々の誕生
かつて、この地球は泥の海に覆われた未熟な姿をしていました。
宇宙の中心から「アメノミナカヌシ」という神様が誕生し、歴史は大きく動きはじめます。
アメノミナカヌシを事きりに、次々と神様が誕生していきます。
タカミムスビ、カミムスビ、ウマシアシカヒコヂ、アメノトコタチ、クニノコトタチ、トヨクモノ。
この神々は性別のない「独り神」でした。
そしてそこから更に夫婦の神々が産まれます。
ウチヒニ/スヒヂニ夫婦、ツノグヒ/イクグヒ夫婦、オホトノジ/オホトノベ夫婦、オモダル/アヤカシコネ夫婦。
そして最後に私たちの星、地球を創ったイザナギ・イザナミ夫婦が誕生しました。
これから私がお話しするのは日本の始まりの物語。
その中に隠された古代の人たちのメッセージを紐解き、皆さんへとお伝えしていきたいと思います……。
・二神の結婚とヒルコの誕生
天から地球へ降り立ったイザナギ・イザナミ兄妹はそこで婚礼の儀を執り行います。
地球はまだドロドロの海ばかりが広がっていたので、まず二神は「天沼矛」というとても長い矛を用い、土をこねて回して、地盤を固めていきました。
そうして地球に初めて作られた島が「オノコロ」といい、現在の淡路島に相当します。
完成したオノコロに二神は社を建て、結婚の儀を行いました。
しかしそこで問題が起こります。
「まぁ、なんと素敵な男性なのでしょう」と、女神であるイザナミから愛の告白をしてしまいました。
結果、哀しい事になんと奇形の赤子「ヒルコ」が誕生してしまいまうのです。
二神はヒルコを海へと流し、このままではいけない、と一度天へ戻り、ほかの神に相談を持ち掛けます。
そこで婚礼をやり直してから子づくりを再開しなさいと提言され、その通りに行いました。
結果生まれたのは五体満足の健康な神様たち。無事日本の創世を行う事ができました。
★★★
さて、この物語が伝えている事はなんでしょうか?
私は思うに、これは「結婚などの重要な儀式は男性によって執り行われなければ良くない事が起こる」という教訓ではないでしょうか。
古代世界は万国共通で男性社会です。男性によって世の中が動かされていました。
その是非はともかく、女性からのアプローチで何かが始まるのは当時として好ましくなかった、という事です。
現代でも、プロポーズの言葉は男性からカッコよくされた方が、女性にとっても嬉しいものですよね。
そんな重要なことを女性任せにするような、頼りない男性についていく、というのはやはり女性にとっては不安で仕方ないでしょう。
古代の人たちも「キメるべき時はバッチリキメるんだ!」と己に喝を入れていたのかもしれませんね。
ちなみに、捨てられてしまった奇形の「ヒルコ」神ですが、その後の顛末を少しだけ。
海を流れたヒルコはその後岸に流れ着き、近隣の人たちによって救出されます。
捨てられた事を憐れんだ人々はヒルコを祀り、社を建てて篤く信仰しました。
イザナギとイザナミが捨てた場所が現在の淡路島。そしてヒルコが漂着したのが西宮です。
そう、ヒルコとは「ヱビス」様。七福神の一柱を務める幸せの神様だったのです。
奇形のヒルコを祀った事で西宮神社は毎年、福を求める人たちで大賑わい。
奇形とはつまり障がいです。障がいを持つ人を助ければ、その情けは巡り巡ってあなたの元へと訪れる……。
古代の神話は、そう物語っているような気がします。
・カグヅチの誕生とイザナミの死
イザナギ・イザナミ夫婦はその後も多くの神々を生み、日本はどんどん賑やかになってきました。
ところが……。
炎を司る神「カグヅチ」の誕生により、二神の幸福な時間は終わりを告げてしまうのです。
なんと、カグヅチは誕生と同時、イザナミの体にひどい大火傷を負わせてしまいました。
神から誕生したにも関わらず…イザナミはその火傷が原因でひどく苦しみ、哀しいことに死んでしまいます。
★★★
「火」とはなんでしょうか。
それは人類だけが扱い、そしてこの地球を制した偉大なる叡智の力です。
肉を焼き、鉄を鍛え、村を照らす……。古代人にとって火は何より珍重された文化の極みともいうべきモノです。
しかし同時に、家を焼き、子の命を奪い、村を滅ぼす悪魔の権化となり得ることもまた、ありました。にも関わらず、「消防」と言う概念は江戸時代まで発展する事はなく、一度燃え始めたら最後、全てを飲み込む炎の波を抑える術は彼らにはなく、その暴力にただ屈するほかなかったのです。
この世界を創った女神すらも抗えない程の強い破壊力を「火」は持っていました。
この話によって伝えたかった事は「警告」……火を扱うなら、そこに細心の注意と責任が伴うのだ、と女神は命をもって私たちに伝えてくれていたのです。
・イザナギの黄泉降り
死んでしまったイザナミは死者の国「ヨミ」へと葬られます。
突然の妻の死が受け入れられなかったイザナギは、生きたままヨミへと降り、イザナミの元へと向かいました。出来るなら生き返らせてもう一度二人で暮らしていきたかったのです。
ヨミとはすなわち暗闇の世界。冷たく、そして湿った空気が四方を漂い、見渡す限りを暗黒と穢れが支配する死の洞窟。再会した二神ですが、互いに姿を確認する事ができません。
イザナミはもうヨミの食事を口にし、死の世界の住人となっていました。が、夫の嘆願に応え、生き返る事がかなわないか、ヨミの神々との談判に向かいます。
戻るまで決して自分の姿を見ないように、約束を交わして―――。
…一時間経ち、二時間経ち、しかしイザナミは戻ってきません。
待ちくたびれたイザナギはいてもたってもいられず、約束を破り自分の櫛に火を灯してヨミの中を散策しはじめます。
ゴツゴツとした岩肌が続く洞窟。そこを進んでいくと、光の中に人影が浮かびました。
そう、そこにはイザナミがいたのです。
しかし―――
「―――ッ!? その姿は…!」
「ひどい、決して見ないでと言ったのに…!」
イザナミはヨミの穢れを全身に浴び、おぞましい姿へと変わり果てていました。皮膚が爛れ、ウジが四肢を這いまわり、そして唸りを上げる雷神が五体から産まれ続けています。
それはまさに「死」と「穢れ」を体現した姿。「ヨモツオオカミ」へと転生してしまったのです。
イザナギはその醜さに目を白黒させ、脱兎のごとくヨミの国から逃げ出します。美しく可憐だったイザナミはもういない……。死は、穢れは、神でさえも容赦なく呑み込んでしまったのです。
イザナミは逃げ出した夫を必死に追いかけます。
醜い姿を見られた怒り。醜い姿に仰天した事への嘆き。醜い姿を受け入れられなかった事への深い深い哀しみ…。
追いかけ合いはヨミの入り口まで続き、そこで二神は最後の会話を交わします。
「こんな仕打ちをするなんてひどすぎます! 許せない、決して許しはしませんッ! この怒り、この哀しみ、貴方の国の人間を毎日千人呪い殺しても、決して晴れることなどありません…!」
「そうか……ならば私は、毎日一万の産屋を建て、人間を増やし続けよう。其方の哀しみが少しでも癒えるよう、私は祈っている。すまなかった。さらばだ、我が妻よ……」
かくして。この日本を産みたもうた神々は永遠の別れを約束しました。
千の命が死にゆき、そして万の命が誕生する。
国と人を創った神によって「死」もまた生み出されたのです。
★★★
大切な人の死、それも事故の様な突然死に心が折れてしまう事はあると思います。
しかしイザナギが行ったヨミへの旅は、すなわち後追い自殺。
神といえど、自ら命を絶つ事は許されません。
愛する妻との永遠の別れ、そして人類の逃れえぬ「死」
イザナギの罪は、最悪の形で贖うことになりました…。
また、ヨミの国を満たす「穢れ」は神といえど抗う事ができません。
「穢れ」とは文字通り汚れであり、老いであり、罪です。
私たちは常に心と体、そして住む場所を美しく保つ事で、穢れを払いクリーンな状態で生きる事ができる。
逆に、どんなに美しく豊かな人であったとしても、穢れを積み上げる事で落ちぶれ、醜く変わり果ててしまう事をこの神話は物語っています。
日本の神話には明確に倒すべき敵や怪物はあまり登場しません。
「妖怪」「悪魔」等は後の世で、他国の文化と触れあう事で増築されていった概念であり、原始の日本には存在しませんでした。
「破魔矢」という物を毎年の初もうでに購入していると思いますが、これも江戸時代に端を発するもの。「魔」とは仏教……開祖たる釈迦の瞑想を誘惑した魔王「魔羅」の事であり、こちらは明確な邪悪です。
正義と悪というのは日本においてはあいまいで、私たち誰しもがどちらでもあり、どちらでもないのです。
・三貴子の誕生
イザナミとの別れを経て、地上へと帰還したイザナギ。
その体は「穢れ」で満ちていました。
これからどうしたらいいか。何をするにもまずはこの穢れた体を綺麗にしなければなりません。
近くの湖で禊、水浴びをして体から穢れを落とします。
すると穢れの中からも神が誕生し始めました。
左目からこぼれ堕ちた穢れから誕生したのは太陽を司る女神「アマテラス」
右目からこぼれ落ちた穢れから誕生したのは月と夜を司る神「ツクヨミ」
最後に鼻からこぼれた穢れから誕生したのは海と嵐を司る神「スサノヲ」
イザナギは見るも立派な三柱の神に感心し、地上の支配を彼らに譲る事を決めました。
★★★
なんと、おぞましいヨミの穢れからも神は誕生しました。日本で最も有名で尊いとされる「三貴子」の登場です。
イザナミを悪神へと変えてしまったヨミの穢れ、そしてイザナギの自害の罪は、しかしそれを払い落す事で美しく立派な神様の誕生につながりました。
穢れは誰しもが溜めてしまうもの、この地上で生きる限り抗いようのない運命のようなものである。
ならばそれを払い落とす事でより美しい何かを生み出す事もまた、可能なのです。
私たちは罪を恐れ、罪人を恐れ、そして汚物の様に忌避します。
ですがそれもまた「穢れ」によってもたらされたモノかもしれません。
一度帯びた穢れは、しかし払う事で贖う事が可能である。
生きたまま死の国へ向かう事は許されなくとも、忘れ得ぬイザナミへの想いが、そこへ向かう勇気を振り起こしたのなら、その尊さから生まれたのが三貴子であるのかもしれません。