天暗星奇譚~妖刀幻舞~
雨が降っていた。
篠突く雨である。
かつて大和と呼ばれた、寧楽の深き山中。平山清記は、朽ちかけた祠で雨宿りをしていた。
まだ陽が暮れるには時はあるが、空は黒く低い雲に覆われて薄暗い。
清記は扶桑正宗を抱え、如月の寒さに耐えていた。雨漏りが滴り、隙間風もある。火を熾したい所だが、祠の中は何も無い。
疲労感が極限だった。空腹でもある。ここ数日、ずっと山中を彷徨っていたのだ。
人を殺した。それが清記の活計なので仕方ないが、討っ手の追捕が厳しかった。
御手先役。それが夜須藩士たる清記の役目だった。所謂、藩が抱える闇の刺客である。
明和二年になって、今回が最初のお役目だった。相手は、南都に潜伏していた公卿。名は千坂伴尚という。千坂は激しい尊王論者で、小山田朝訓や藤岡左門と共に、倒幕の密計を練っているという噂があった。
その男を、清記は斬った。理由は幕府や領民を助ける為ではない。千坂の門下に夜須藩主家に連なる若者もいて、それを止める為に藩主・栄生利永と首席家老・犬山梅岳から暗殺を命じられたのだ。
清記は六日張り込んだ後に、千坂の隠宅を急襲した。しかし、相手はこちらを待ち構えていたと思えるような、万全な備えがあった。
何故? と、思う前に、乱戦になった。何とか千坂を仕留めたものの、離脱に手間取ってしまい、このような山中を逃亡する羽目になった。
(情けないな……)
清記は自嘲した。
以前の自分なら、このような下手は打たなかったろう。
夜須には、愛する妻・志月と三歳になる息子がいる。息子の名は小弥太。帰宅すれば、穏やかな日々が待っているのだ。妻には言えぬ秘密を抱えてはいるが、幸せである。幸せなのだと思い込み、そしてそう思うようになった。しかし、そうした満たされた時間が、自分の感覚を鈍らせたのかもしれない。
微かな眠気に襲われた。このまま微睡むのもいいが、いつ討っ手が来るか知れたものではない。
清記は、腰の竹筒を手繰り寄せた。中には酒。もう半分もない。それを一気に流し込んだ。喉を焼く感覚が、疲れた清記の脳を覚醒させた。
目が覚めると、晴れていた。
山には、光が差し込んでいる。どうやら酒を飲んで寝入ってしまい、その間に雨があがったのだ。
清記は扶桑正宗を佩くと、外に出た。雨が止んだという事は、討っ手も動くという事なのだ。このような場所には、いつまでもいられない。
雨上がりの山道を下った。寂として冷たい山気が、身を包んだ。あと一枚、着物が欲しい所である。
「もし」
声を掛けられたのは、拓けた場所に出た時だった。
(追いつかれたか)
と、思った。しかも、場所は戦うには絶好の場である。
振り向くと、男が立っていた。
背が高い男だった。そして珍妙な恰好に、清記は目を細めた。
狩衣に立烏帽子。斯様な山道には相応しくはない、いで立ちだったのだ。
「何か?」
清記が答えると、男は青白い顔に薄ら笑みを浮かべた。
「そち、殺生をしたであろう? それも人間をの」
「私が?」
「血が臭うてのう。麻呂は鼻が利くのじゃ」
「これは、何処のどなたか存じませぬが、失礼な物言いですな」
「ふふふ」
男が、扇子で顔を隠す。
「麻呂の名は、蛭川歌仙丸。そちの血臭に誘われて出て来たのじゃ。それも、昨日今日の殺生ではないぞよ。今までの殺生で、染み付いた血臭じゃ」
「……」
清記は、眉を顰めた。この恰好に、言動。気狂いの類だろうか。
「麻呂は、そちとの立ち合いを所望じゃ。受けよ」
「断る」
清記は即答した。
「立ち合う理由が無い」
「ほう。断るなら断るでよろしい。麻呂が勝手に仕掛けるまでじゃ」
その時。歌仙丸の右袖から、スッと反りの強い太刀が現れた。どういう仕組みなのか判らないが、歌仙丸はその太刀を片手に構えた。
清記の一刀を、歌仙丸は優雅に躱した。そして、風に吹かれるように浮き、木の枝の上に舞い降りた。
清記は、我が目を疑った。細い木の枝に、歌仙丸が立っているのだ。
(なんと、面妖な)
歌仙丸は、ただ笑っている。立ち合いが始まり、四半刻ほど。歌仙丸からは、余裕しか感じない。
「おぬし、妖鬼の類か?」
「そうさなぁ」
すると、歌仙丸は羽毛のような軽さで、地に降り立った。
「では、続きを参ろうかのう」
歌仙丸が、太刀を八相に構える。清記の扶桑正宗は正眼だった。距離は四歩ほど。
清記の心は乱れていた。相手は追っ手だと思っていたが、どうやらそうではない。いや、人間ですらない。
夢なのか。いや、違う。夢なら、このような殺気で、肌が粟立たないはずだ。
どう戦えばいい。相手は妖鬼。人間の技で通じるのか。
脳裏に、小弥太を抱く志月の顔が浮かんだ。
家族を失っても、気丈に振る舞う女。彼女なら、こう言うはずだ。
「試してみないと判りませんわ」
そうだな。
自分には念真流がある。父から受け継がれ、志月の父と兄を斬った、この剣が。それ以外で、何で戦えようか。
距離が三歩に縮まっていた。清記は、迷いと恐怖を打ち消すように気勢を挙げた。
そして、跳んだ。
目が覚めると、祠の中だった。
(夢だったのか……)
清記は頭を振った。どうやら、いつの間にか眠っていたようだ。
しかし、何という夢か。御伽噺でもあるまいし、妖鬼と立ち合うとは。
清記は嘆息を漏らし、祠の戸を開けた。
朝日が差し込み、眩さに清記は目を細めた。驚く事に、一晩眠り込んでいたらしい。
と、視線を下に移すと、清記は思わず声を挙げた。
そこには、十名ほどの骸が転がっていたのだ。いずれも武士。恐らく、追っ手であろう。中には見覚えある顔もあった。
(まさか)
骸の山の中心。そこには、まるで斃れた武士たちを眺めるように、一振りの太刀が地に突き刺さっていた。
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