記憶
彼の視線が泳いだ。何かを追っているのだ。私の視線がその先を追う。蝶だ。彼は涎掛けを掛けスプーンを手にしたまま、蝶を追っていた。何を思っているのだろう。彼や彼を囲む人たちに問う事は出来なかった。声にすれば私の問いに答えてくれる人はいただろうが喉元まで出かけた私のその問いが形を得る事は無かった。
私の事
覚えていないの?
彼がどういう状態であるか、私は知ろうとしなかった。
電話を掛けた時そこに出たのは女性で、用件を伝えると少しの間私を待たせ、また同じ声が返ってきた。
「お待ちしておりますとの事です。」
続き「道は分かりますか?」「気を付けていらしてくださいね。」などなど。明るい声に壁を感じる事もなく、今思えばあれは看護師さんだったのかも知れない。
彼はなぜ、私の訪問を許したのだろう。そもそも私と分かっての事だろうか?「もうすっかり秋ですね」あれ以降、私は彼と話していない。
彼の記憶に私はもういないと仮定して、それほど不思議な事ではない。15年。お互いに沢山の人々と出会い、新しい記憶が厚みを増してゆく。同じ場所に立ち返り、何もないと、変わってしまった自分を想う事もあれば逆もある。美しかった事に気付く事もある。よくある事だ。
私も同じだ。
それでも今、目の前にいる。その姿は昔と違っていたとしても。
私の記憶は彼を呼び戻す。
細い手はごついが暖かな温度を感じさせるものだった。昔から変わっていない。
年を取り擦れた声でも構わなかった。私の名前を呼んでくれたなら。
ちりじりに風に飛ばされそうな行き場の無さを感じ、部屋を出た。
昨日彼が私の訪問を拒まなかったのとよく似た、その日の始まりだった。
静かで冷たい空気の中、彼の温度が私を温める。