第五十六話 トゥライト平原へ
ユン川を下る船の乗員はすべて、わけの分からぬ状況に翻弄されていた。
「村長、村長! ひとり混乱して飛び降りました!」
「いかん! 皆とにかく落ち着け! 実害は出ていないはずだ!!」
阿鼻叫喚とはこのことだ。またトールクの耳にクスクス笑うような囁き声が聞こえた。妙に耳につく声に、今度はファレスルも振り返った。
「トールク、今!」
「聞こえたか。なんだと思う? 魔法か?」
ファレスルはキョロキョロと見渡して考えていたが、やがて首を横に振った。
「いや、こんな魔法は聞いたことがありません。雨を降らせるくらいならケーワイドにもできそうですが、太陽をもうひとつ出現させるだなんて」
「それだけじゃない。今は昼なのに夕日が見えるとは…、しかも両方沈んでいるとは……」
「太陽や月の動きはこの星の自転によるんですよね? 太陽が逆に動いていくだなんて、物理法則が狂ってる!」
トールクは祈るように偽の『ワールディア』を取りだし問いかけた。
(ケーワイド、あなたもこの状況に遭遇しているのか? どうしたらいいのでしょう?)
両手で包み額の前に掲げて念をこめる。
「トールク! 石が光ってますよ!」
「え?」
見ると、普段ほのかに発光している小石が強く青緑色に輝き始めた。光に押されて霧が晴れていくかのように、辺りの異常な光景が眼前から消えていく。雨が降ったはずなのにいつの間にか服は乾いていた。全員の耳に同時に大勢の子どもの笑い声が聞こえてきた。「アハハハハ……」と無邪気な声だった。耳の奥にいつまでも響いている。
「………」
「……………」
一同はただ呆然としていた。よく見知ったユン川に戻りホッとしている。
「…なんだったんだ」
飛びこんだ何人かを引き上げるために川に縄が下ろされた。皆水に親しみ泳ぎには慣れているようなので無事に助けられるだろう。
「トールク、あれですかね。ドゥナダンが遭遇した…」
「ファレスルもそう思うか」
「なんですか? やはり心当たりがあるのですな?」
トールクに目で促され、ファレスルは村長たちに向き直って口を開いた。
「…妖精です。すべて幻でしたから、魔法ではありません」
「魔法ではないと?」
「魔法は現実的で、すべてが実際に起こっていることなんです」
「ええ。このように人を惑わすだけのことは、魔法にはかえって難しいんですよ。いたずら好きな妖精に一杯食わされたのではないかと思います」
村人たちは今も混乱した様子でざわついている。すると村長よりも年上と思しき村役人がつぶやいた。
「海の妖精……、かも知れません」
皆が一斉に振り返る。
「このユン川は海に近い。普段から海水が微量に混じっているのです。先日大規模な大潮がありましたな? 海の水と共に妖精もやってきたのかもしれない」
放心しながら聞いていると、帆のてっぺんに登っていた若者が素早く降りてきた。
「皆さん! トゥライト平原はもうすぐそこです!」
「何? そんなに早く進んでいたか?」
いぶかしんだところで、ずっと幻想に惑わされていて距離感覚はなくなっている。
「ずいぶん勢いのある風に乗っていたんだな」
「幻から覚めるのが遅かったらトゥライト平原を通り過ぎていたかもしれません」
村長は自分の額をペチリとたたき顔をしかめた。
「なんともはや、妖精というものは! 長年船に乗ってきたがまだまだこの世は不可解なことだらけだ」
「以前のようにフラッと冒険に出かけたりしないでくださいよ、村長!」
異様な光景から逃れて安堵したカイシキ村の援軍の面々は、右手に悠然と広がる大草原を見つめた。東にローホー山、南に今トールクたちが船を浮かべているユン川、北から西にかけてルリの森が続いている。この広大なトゥライト平原で白い人と決戦するというのがケーワイドの考えであった。
(確かにあの数千人の白い人をまともに相手にしていたら我々は破滅的だ。白い人も強力になってきている以上、逃げきるのも無理なのだろう。しかしただ大勢で戦闘するだけでは無意味だ。ケーワイドの真意はどこに…?)
「私たちが一番乗りだったんだな」
船を降りる支度をしながらファレスルがひとりごとを言う。トールクはケーワイドの考えを推し測れないものかと深い思案にくれていた。
「さあ、あとのお方はショーラ町と、ローホー村、それからテイノ町からお越しでしたな?」
「そうですね。ケーワイドたちは心配いりませんから、ローホー村からとテイノ町からの街道から見つけやすい位置に野営を張っていただけると助かります」
「承知した」
川が曲がり浅瀬のようになっている場所に船をとめた。錨をいくつも下ろし、村人50人ほどは船を守るためにその場に残った。
かくして、決戦の場トゥライト平原に初めに到着したのは、トールク、ファレスルと共に参じたカイシキ村の援軍、およそ1500人であった。




