第五十五話 船上での混乱
翌日は絶好の出航日和であった。大きな帆に太陽の光が反射してまぶしいほどだ。
「やっぱり私たちの舟は見劣りしますね。なんとも貧相だ」
「まあ、そう言うな」
昨晩の酒が残っているのか、トールクは食欲がなかった。しかし、
「これから船に乗るんだから、あまり腹一杯食べなくてもいいんだ」
と、気にもとめていない。
「さあ、装備の確認はすんでいるか? 出航するぞ!」
村長自らが指揮をとり、トールクたちと同じ先頭の船に乗りこんできた。身軽で機能的な船乗りの格好だ。独特の衣服を身につけ、およそ1500人の壮青年が20隻の船に分乗している。ユン川はワン川と同様、もっとも深く豊かな大河であった。
「皆さん必ず襟巻きをしてるんですね」
「とても丈夫ですが軽い布でできています。風を見るのにも日除けにも役立つんですよ」
ファレスルが村人に興味深く声をかけると、朗らかな答えが返ってきた。川面でキラキラ輝く日光のように清々しい。船を操り遠くまでおもむき貿易に精を出す男たちの気質がよく分かった。
船は川の流れに揺られて快調に進んだ。ユン川を丸1日下ってトゥライト平原の端にさしかかるかどうか、というほどの距離である。折から吹いてきた追い風が順調な船旅を予感させた。風に乗り水鳥が追いかけてくる。
「風が気持ちいいなー! あ、トールク、今朝出発前にですね、市場に寄って干し魚のほぐし身を買ったんですよ。みんなと合流したら何作ろうかな。何か食べたいものありますか?」
トールクが二日酔いに頭を痛めている間に、若いファレスルは村を散策していたのだ。
「そうだな、ファレスルの得意なものが一番だ。候補はあるのか?」
「んー、いい出汁が出そうだから煮込んでもいいし、みじん切りにした野菜と混ぜて瓜につめて蒸しあげても良さそうだ。あとでアイレスたちに聞こうっと」
皆の顔を思い出し、ファレスルはわくわくした表情で空を見上げた。
「アイレスとポルテットは本当によく食べるよ」
「料理人冥利につきるというものです」
家族の話をし、昨晩は杯を交わしたふたり。お互いが気安い存在になっていた。
ふと、トールクの耳に囁き声のような音が聞こえてきた。クスクス笑っているかのようだ。
「…ファレスル、何か聞こえないか?」
「何かって?」
「いや、虫かもしれない…」
耳にまとわりつくのがなんとも不快だ。思わず頭の周りを手で払う。
「おや? 雨か?」
村長がそうつぶやくと、皆が上を見上げた。しかし晴れ渡った空には雲ひとつない。それにも関わらず雨が降りそそいでくる。
「なんだ、なんだ?」
「川の水がはねてるんじゃないか?」
「いや、水面は荒れてないからこんなにはねるのはおかしいだろう」
村人たちは甲板から下を見下ろしたが、川は穏やかな流れのまま変化がなかった。
しばらくすると雨は前触れもなくフッとやんだ。そして大量の海鳥の鳴き声が急に聞こえてきた。
「海鳥だ!」
「どういうことだ! どこにも海鳥などいないぞ!」
風と共に海鳥の声が襲ってきて、頭のすぐ上をバサバサと羽ばたく音も聞こえる。しかし鳥の姿はまったく見えない。少し経つと海鳥の幻は徐々に消えていった。
「なんだ? 何が起こっているんだ?」
村人は当然のごとく困惑しきっている。トールクとファレスルは時折顔を見合わせ、揃って前方をにらんだ。その様子に村長が気づいた。
「おふたりとも、この状況にお心当たりが?」
ファレスルは黙ってトールクを見上げた。トールクは小さくうなずく。
「人知を超えた状況だと思いますが、こんなことができる存在は多くない。魔法使いか、あるいは……」
すると突然、空全体が燃えるように赤く染まった。夕焼けの色だが、西だけでなく全天が真っ赤であった。それにそもそも今は真昼だ。
「ああ、信じられない!!」
村人のひとりが頭を抱えてしゃがみこんだ。ファレスルも東と西を交互に見て目を疑った。
「太陽が…、太陽がふたつある…!」
「なぜだ!? 両方とも沈んでいくぞ!」
これには村長も声を荒げて立ちすくんでいる。トールクはひとり西の太陽を見つめ思考が混乱するのに抗おうとしていた。
(これは魔法か? それとも……)
無意識にケーワイドから預かった小石を服の上から握りしめた。




