第三話 婚約破棄
会合のあった翌日、ドゥナダンは重い足を引きずりアイレスの家を目指した。つい先ほど魔法使いのガダン・ケーワイドから聞いた話が頭を駆けめぐっている。
(『ワールディア』? デ・エカルテ? 白い人? 俺はどうしたらいい? 答えははっきりしている。行くしかないんだ。他の人にも家族がある。こんなことは俺だけじゃない。しかし帰ってこられるのか? アイレスはどうする?)
2日後が来なければいいのに。しかし20日後がこないとアイレスとは結婚できない。いや、20日後自分はデ・エカルテを目指す道中にあるのだ。自分の中で生じた矛盾を、ドゥナダンは自嘲気味に鼻で笑った。
会う人会う人が「結婚おめでとう」、「楽しみだ」と祝福してくれる。もうそんな言葉を一言も聞きたくない。ドゥナダンは唇を強く噛み、アイレスの家の扉を乱暴に開けた。驚いたアイレスとその家族が、ドゥナダンらしからぬ感情が露わになった様子を見て、恐る恐る寄ってきた。テンクスは二日酔いの抜けない青白い顔でドゥナダンを見つめた。
「ドゥナダン……? どうしたの? 何かあったの?」
アイレスはそっとドゥナダンの腕に触れた。せきを切ったようにドゥナダンはアイレスを抱きしめ、その場で激しく口づけした。
「んっ…、待っ…、……んん…」
「アイレス…アイレス……」
「どうしたの、どうしたの、ドゥナダン?」
長女のマリエスがふたりに割って入った。そしてドゥナダンの目から滝のように涙が流れているのに気づき息を飲んだ。アイレスも心配そうにドゥナダンを見上げた。
「ドゥナダン、どうしたの?」
再びドゥナダンはアイレスに口づけ、血を吐くように声を絞り出した。
「……アイレス、婚約を破棄させてくれないか…」
テンクスはそれ以上ふたりを見ていられなかった。
なぜ結婚できないのか。何度聞いてもドゥナダンは答えなかった。アイレスは自室で茫然とし、ドゥナダンの涙ばかりがまぶたの奥から消えないでいた。
愛しているよ。
そう言い、幾度となく口づけし、そしてドゥナダンは逃げるように去っていった。納得できる要素は何ひとつなかった。ただ「なぜ」、それしかアイレスは考えられなかった。
ふと、アイレスは扉のすぐ外に人の気配を感じた。
「アイレス、少しいいか?」
今朝方、泥酔状態で帰宅した父テンクスの声であった。そのようなことは初めてで家族は心配していたが、テンクスも決して事情を話そうとしなかった。アイレスに対しては目を合わそうともしなかった。
「お父さん、どうしたの? 朝から様子おかしかったね」
一方的に婚約破棄を言い渡されたにもかかわらず気丈に自分を気にかける娘の姿を見て、テンクスは一筋の涙を流した。
「お父さん?」
「アイレス。ドゥナダンがなぜあのようなことを言い出したか、かいつまんで話そう」
アイレスは怪訝な目で父を見上げた。
「どうしてお父さんが知っているの?」
「…いぶかしく思うのは当然だ。すべてを話すわけにはいかないが、今ウェール村で何が起こっているのか、それがドゥナダンの言動に直結しているんだよ」
少し陰ってきた日の光がテンクスの足元を照らしている。一度唾を飲みこんで、テンクスは昨晩秘密裏に行われた会合のことを打ち明けた。
「じゃあ、ドゥナダンはその中に選ばれたってことなの……?」
「そうだ。ドゥナダンはこの任命から逃げ出すことはできなかったのだろう」
アイレスも、ドゥナダンは必ず運命を甘んじて受け、困難に立ち向かうだろうと思った。そういう心根の持ち主だということはよく知っていた。そして、自分の都合や願望だけを貫くことはないと、誰よりもよく知っていた。