第十五話 峡谷越え前夜
下から吹き上げる風はどことなく不気味さをはらんでいる。ケーワイドたち一行は垂直に切り立っている崖を目の前にして次の行動について相談していた。
「ここは少し地形が複雑で、峡谷になっておるのだよ」
ケーワイドは地図に印をつけながら説明していく。
「崖はずいぶんと険しいな。真っ直ぐ降りるのは無理そうですね」
「……。実はその経路も考えてはおる」
この数日考えていた作戦をケーワイドは皆に打診した。少し時間がかかるし危険が伴うが白い人を撒くための作戦だ。
「要するに、囮ですね」
「さよう。我々を3隊に分け、どれが本隊か、すなわち本物の『ワールディア』を持つ者か分からなくさせ、注意を分散させる。そしてこの峡谷は大人数を率いて越えるのは容易ではないはずだから、注意をあちこちにそらしつつ、足止めをさせつつ、我々は素早く向こう側を目指す」
フォアルを肩に乗せ、ユーフラは地図をのぞきこんだ。
「ですが8人を分けるのは危険ではありませんか?」
「私としては何千人もの白い人に追われ続ける方が気に食わんのだよ」
「それはそうですが…」
アイレスは数日前に見た、翼を持ち腕を持たない白い女の濁った瞳が頭から離れなかった。ケーワイドに飛ぶように突進してきたときの無表情がまぶたにこびりついている。背筋が凍るようだ。できることなら白い人に追われないようにしたかった。
「あたしは賛成です。3つに分けるって、どうするんですか?」
「ひとつは峡谷をまっすぐ降りてつっきる。岩を素手で下り、川を越え、岩を伝って向こう側を登る。もうひとつは下流を目指す。この峡谷は…、地図で見るとここだな。このあたりに橋がかかっており、ここは普通に歩いて行ける。通常はこの道を行くのだが、分散させて行方をくらませたいので、ここを行く者は本隊にはしない。もうひとつは上流を目指す。このあたりに小さな船着き場があるのだ。小船に乗り、向こう岸のこの船着き場に着く。このあたりで岩登り隊と合流だ」
8人は頭を寄せて地図に見入っている。ケーワイドはさらに言葉を続けた。
「一番楽なのは下流を行く道だ。あとのふたつは割と奇矯な道程だな。私はどちらかを行く」
皆一斉に「ケーワイドに岩登りはさせられない」と止めた。
「仕方ないの。では私は上流から船に乗るか。できれば歳若いポルテットとアイレスは私と同行してもらいたい」
「では囮は? 岩登りが囮に当たるわけですよね?」
「それなら普段から慣れている私が」
トールクがそう言いかけたのさえぎり、
「いや、俺がひとりで行きます。囮なら俺が適任だ」
と、ドゥナダンが名乗りを上げた。アイレスはハッとしてドゥナダンの腕に触れた。
「トールクは確かに岩登りが得意でしょう。でも、なんというか、手抜かりがなさすぎて目立たないというか…、囮として目を引かないんじゃないかって」
ケーワイドはジッとドゥナダンの目を見つめた。そして少し微笑んで言った。
「なるほど、面白い考えだな。しかしもちろん危険があってはならんので、フォアルを供につけよう。あとの4人は下流へ行ってくれ。明朝は早くに動き出すぞ」
その夜、アイレスはドゥナダンの隣で寝た。あまり寄り添っているとファレスルやセプルゴがからかってくるのだが、今夜は見ぬふりをしてくれた。
「…ドゥナダン、ひとりで大丈夫?」
「囮なんだからひとりがいいんだ。それにフォアルがいる。……トールクには5人も子どもがいるって話だろ? セプルゴもファレスルも長旅には必要だ」
「ドゥナダン、そんな考えで……」
ドゥナダンの頭に温かい手が触れた。ケーワイドだった。
「私はそんなふうには考えておらんよ。囮ではあるが、万全の対策をとらせてもらう。まず白い人に追いつかれても抵抗しないこと。そして万一のためにこれを持っていなさい」
ケーワイドは懐に手を入れ、小さな包みを出した。少し開いて中を見せる。小さな石であった。
「ケーワイド、それは!」
「もちろんこれは偽物で、本物は私が持っておる。だがこれはただの偽物ではない。持つ者が願えば発光し、威力は小さいが防壁魔法も生じさせる」
ドゥナダンは大切に包みを受けとり、懐にしまった。
「本物そっくりであるから、もし白い人に迫られたときはこれを差し出せばいい。恐らく彼らは……、むやみに人を殺さない」
その一言に幾ばくかの含みを感じたが、ドゥナダンもアイレスも不安を思い出さないように眠ることにした。
「ありがとうございます、ケーワイド」
月も沈み、闇に包まれて夜は更けていった。何か淡く光るものが風のようにケーワイドの防壁魔法の上空を飛んでいった。アイレスは流れ星かと思ったが、眠りの海に飲みこまれて意識が遠のいていった。