第百三話 とめどなく、止め処もなく
身体機能を上げるのに魔法は役に立たない。自分で身体を動かすしかない。セプルゴは熱が高かったが自らの足で歩いて体力を回復させるつもりでいた。
「馬鹿じゃないのか!? どれだけ重傷だと思ってる!」
「いや、身体がまなってしまうよ。いざって時に動けなくなる」
「いいから大人しく負ぶられておけ!」
ドゥナダンたちにやりこめられ、トールクがセプルゴを、ドゥナダンとファレスルがポルテットと荷物を交互に背負うことになった。荷物の少ないケーワイドとアイレスは自然に先頭を歩くことになる。
「ポルテットもセプルゴも傷はまだ治りかけだ。しかし拒否反応が怖いから本当は治癒魔法は最小限にとどめたいのだ。緊急事態だったからセプルゴには魔法を使ったが、これ以上は控えたい。良いかの?」
ケーワイドは生命にかかわる魔法には慎重だ。派手な攻撃魔法を駆使すると思いきや、仲間たちが白い人を殺さないように武器に細工するし、トゥライト平原での決戦でもフーレンを殺さなかった。「殺し合いをすることがらではない」と言い張り、手を汚すこと、仲間に手を汚させることを、かたくなに避けているようにも思えた。
(ケーワイドは何かを恐れているの?)
アイレスはケーワイドのすぐ後ろを歩きながらじっと考えた。ドゥナダンたちも荷物やら怪我人やらを背負っており言葉少なだ。
(恐れている…。あたしに『ワールディア』が何なのか知らせないのも、何かを恐れているからじゃないかしら?)
思えばいつもそうだった。3手に分かれて峡谷を越えた時も、トゥライト平原で白い人と戦った時も、本当の狙いや、何が起こっているかなどは、それとなくはぐらかされていた。それはなぜなのか? 何かを恐れているからなのか?
無言で歩き続け、一行は気分まで暗くなっていた。仲間に負ぶわれているという負い目から、セプルゴもポルテットもいつものように明るく話すことはない。セプルゴは疲れが出たかトールクの背中で眠ってしまうこともあった。
「……ユーフラ…」
セプルゴのか細い寝言であった。皆は聞こえないふりをしたが、心に黒いもやがかかるのを感じた。
「………」
「………」
5人分の荷物を背負ったファレスルが、ふと空を見上げた。
「…あれ、雨?」
天気雨だ。
「虹が見えるね」
雨でかすむ東の空いっぱいに虹がかかっている。セプルゴが目を覚ました。
「虹? どこに?」
トールクはセプルゴを背負ったまま振り返り、後方に広がる荒野、そしてその向こうに悠然とかかる虹をセプルゴに見せた。
「虹だ…」
セプルゴはとても遠くを見つめていた。ローホー村への途中、ユーフラが虹を見せてくれたことがよみがえる。
「濡れると良くないですよ。あの木で雨宿りしましょうよ」
前方に1本だけ生えている大樹を目指しアイレスは歩みを速めた。ケーワイドもうなずき、怪我人たちを雨から守るため、傘のように防壁魔法を出そうと振り向いた。その拍子に石に足をとられ、ケーワイドは転倒してしまった。できかけの水たまりに身体を打ちつけられ、容赦なく雨が降り注いだ。
「ケーワイド!」
日が陰ってきた。虹が消える。ケーワイドは尻もちをついたままうつむいていた。わずかに唇をかんでいる。強大な魔力を操るケーワイドであったが、転んで雨に濡れる様はとてもちっぽけだった。アイレスは思わず右手を差し出した。激しさを増す雨音だけが耳を襲うように届いてくる。
アイレスはケーワイドの悲痛な目をまっすぐに、しかしどこかぼんやりととらえていた。時間が止まっているかのようだ。ケーワイドはアイレスの手を両手でとり、額の前に寄せた。ケーワイドの手は骨張っているが、思いのほかしわが少ない。軽くかんでいた唇が徐々に開かれ、呼気が震えてきた。精一杯声を殺して泣いているのだ。
「ケーワイド、木のところへ行きましょう?」
ささやくようにファレスルが促した。アイレスの支えを頼りにし、杖も持たずにケーワイドは立ち上がった。大樹の根元までアイレスに手を引かれ、ずぶ濡れになった髪を額に貼りつかせたまま膝をついた。途中でポルテットを背負ったまま器用に杖を拾ったドゥナダンは、杖と一緒に乾いた布をアイレスに手渡し、無言でケーワイドの方へあごをしゃくった。そう指示するドゥナダンの目尻も濡れている。雨と見分けがつかないが、先刻のケーワイドと同じようにキュッと唇をかんでいた。アイレスもケーワイドに近づきながら、瞬きなどせずとも自分の目からハタハタと涙が流れ落ちるのを感じていた。ケーワイドの肩に清潔な乾いた布をかけると、偉大でちっぽけな老魔法使いは堰を切ったように嗚咽をもらした。
「…っ…、くっ、……ふ、ぅうっ……、ああぁ……」
トールクとファレスルが目を腫らしながら怪我人の寝床をしつらえ、わずかな木炭で湯を沸かした。湯気と雨音が五感の緊張をゆるやかに解いていく。雨がやみ、日が暮れて一番星が見えるまで、ケーワイドはむせび続けた。