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虹色のカタツムリ

作者: くまごろー

 叔母とボクら兄妹には血のつながりはない。父のすぐ下の弟に嫁いで十五年、近所では強欲で知られた女だった。叔父夫婦が二階建てを新築したとき、引き売りの八百屋の六さんが母を相手にこぼしていたのを聞いたことがある。

「あの屋敷の便所くらいは俺が建ててやったようなもんさ」

 叔母は大根やらカボチャやらに勝手に値をつけて、帳面につけておけと六さんに命じるとリヤカーからサッサと野菜を持ち去る。それが叔母の〈買い方〉だった。商売をしてまわる近所で争うわけにも行かず、評判のよかった六さんも叔母にだけは泣かされた。


 ボクが小学校の五年生の年に父は交通事故で他界した。保険金が下りたから家が急に貧しくなるということはなかったが、父の死を切っ掛けにしたように、それまで穏やかだった母の性格が一変した。母はボクらがいるので落胆ばかりしていられなかったのだ。母は電化製品を次々と買い込んではその使い方をボクらに教えた。洗濯機はもとより電気釜や扇風機さえもまだまだ高価な時代だった。叔母を筆頭に口さがない近所から「亭主と取っ替っこにお大尽様になっちまって」とやっかみを言われるようになった。

「いいかい? 母さんはもう家事はやれないからね。おまえたち二人で協力してやるんだよ。世間がどう言おうと、おまえたちは二人きりの兄妹なんだからね。どんな小さいことでも協力し合わなくちゃダメだよ」

 母親は口癖のようにボクら兄妹を諭した。

 父を亡くしてやっと三ヶ月という頃、母は保険金の出処となった保険会社に外交員として就職した。免許も取って、一日中原付きバイクで駆けずり回った。がんばり屋の母は世間の父親以上に働いた。営業成績は群を抜いていたし、ボクの口から言うのも変だけれど、母は美しい人だったので再婚話もずいぶん持ちかけられていたが、母は見向きもしなかった。

 ある日、友人の家に遊びに行っていたボクはとんでもないことばを耳にして度を失った。

「あれはちょいといい女だからね、寝技に持ち込みゃあ成績だってあがるさぁね」

 明らかに母を当てこすった叔母の声だった。まさかとは思ったが、ボクはどうしても我慢できず、その晩おそくに帰った母に聞いた。

 母の目の色が見る見る変ってボクにビンタが飛んできた。唇は震えていた。

「母さんがどれだけ口惜しいか、おまえには判らないのかいっ」

 ボクは母が口惜しいというのはあらぬうわさを立てられたことだと思っていた。とにかく、ボクをぶって叔母の言を否定してくれたのはうれしかった。

「母子家庭をバカにされたからじゃないんだよ。人の口に戸はたてられやしないんだ。母さんは、おまえが母さんよりも根も葉もないうわさを信用したってのが口惜しいんだ。それじゃ、父さんに申し訳が立たないんだっ」

 母のことばに父が出てきた。母のなかで父は死んでいないと判って、ボクは母に何度も謝りながらうれし涙が止まらなかった。叱られてうれしいと思ったたった一つの経験だった。

 母は険しい顔で虚空をにらんでいた。

「いいかい真嗣、あの女は信用しちゃいけないよ……」


 三年ほどして、その母も過労がもとで死んだ。望遠鏡を逆さに覗いたように周囲が遠ざかって、ボクは、母が言ったように、妹と二人きりになったと思った。

 母の葬儀の後、親類一同が集まった。そこにはボクだけが加わり、泣き疲れた妹は別室に寝かせた。父が死んでからほとんど行き来のない親類の男たちが色々話していたが、内容はボクにはよく判らなかった。話は叔母が立候補したようなかたちで叔父がボクらの後見人になることに決まった。住まいが近い身内だというのが理由だった。男たちのなかには叔母の性格を知ってかボクら兄妹の先を心配してくれる人もいたが、みな遠方だったし、その人たちもボクらを引取ろうと申し出てはくれなかった。一人娘だった母は、父方の親類のなかにボクら兄弟を託せる人が探せなかったのかも知れない。「おまえたち二人きりの兄妹なんだよ」という母のことばがガンガンと鳴り響いていた。

 叔母が後見人を引受けたのは、立場を利用してボクの家の財産を自分のものにしてしまおうという腹だったろう。近くに目を光らせる親戚はないのだし、合議で家の財産管理を任せたのだから、やろうと思って出来ないことではない。めんどりに時を告げられて叔父も企みに参加したようだった。

 田舎の高校生のボクには後見監督人のことなどわからなかった。なぜ母はボクが相談できる人を決めておいてくれなかったのかと思う。いや、母だって、こんな時がこんなに早く来るとは考えていなかったのだ。何も判らないボクは母に倣うしかない。母ならどうするだろうと考えて答を出すしかない。コマネズミのように働き詰めだった母のことばをあれこれ思い出してみると、心当たりは一つしかない。哀愍寺の学真さんだ。

 彼はお坊さんには珍しく大学は法科を出た人で、坊守(僧の妻)さんは女学校で母の後輩だったらしい。母は学真さんにだけは心を許していたようで、時に冗談まで口にしたと記憶する。

 母は、父の法事は世間並みにしかやらなかったけれど、月命日の墓参りを欠かさなかった。ボクと妹を父の墓に待たせておいて、前のカゴに花を放り込み、後ろの荷台に水の入った手桶をくくり付けて母はバイクで駆けつけた。墓参りのときはいつも合掌する母の手にオパールの指輪が光っていた。

「しーちゃん(母の名は静江)、墓にバイクを乗り入れるなよ」

 学真さんは笑いながら言う。

「あ、いや、少しでも早くダンナに会いたくってさぁ」

「あわてなくたってお骨のダンナは逃げやしないさぁ。しかし、感心だな、毎月毎月」

「そ、毎月少しずつね。法事を盛大にして間をおくと御院家がお勤めを忘れるからね」

「あっはっは。さすがだな、しーちゃんは」

 派手好みの叔父夫婦から、法事はもっと盛大にやれと圧力がかかったようだけれど、母は「あの人たちはウチに金をつかわせたくて、私を不信心呼ばわりしてるだけよ」と取り合わなかった。母が学真さんと気安くし過ぎるのも同じ門徒として叔父夫婦には面白くないのだ。

 墓参りは長くはかからない。ボクは退屈そうにしている妹に、お経はきっかり十五分だからがまんしな、と言ってやる。母は阿弥陀経(小経)が好きで、学真さんはいい声で、如是我聞一時仏在舎衛国……とやった。

 母に倣うと相談相手は学真さんだけなのかな、とボクは思った。


 叔母は好き勝手をやりはじめた。彼女が形見分けを取り仕切った。親類には故人を偲ぶよすがにと母の品々を欲しがった人もいたが、叔母はこれまで形見分けのことはおくびにも出さなかった。叔母には考えがあった。百ヶ日で納骨を済ませ親戚を帰したその数日後にいきなり形見分けをすると言いだした。関西にまで散らばった親戚たちはおいそれとは集まれない。それぞの都合も考えて一周忌まで待つのが常識だと腹で思っても、何くれとなく面倒を見ているはずの後見人に対しては弱味があった。後に伯母(父の三つ上の姉)が「あれじゃ形見分けどころかまるで盗っ人だ」と怒ったように、叔母は母の着物をあらかた持ち去っていた。着物を着ない叔母のことだから、なにがしかの金に換えたのだろう。

 高校二年のボクは急に大人にならなければならなくなった。これからは年齢のはなれた妹と二人でやって行かなければならない。ボクは掃除、洗濯、弁当などの毎日の細々したことに頭を奪われて、先の見通しなど立てる余裕がなかったし、それが考えられる年齢でもなかった。母親を亡くしたショックに始まったばかりの妹の生理が止まってしまったことも気づかなかった。

ボクはボクら兄妹が叔母宅に引取られることをきっぱりと拒否した。叔母とてそれは心から望んだことでなく、後見人の体面を保ち、ボクらに恩を売ろうという考えだと察したからだ。今まで通り自分たちの育った家で妹と二人で暮らすほうが、話に聞く居候よりは妹にはいいと思ったし、何かにつけて母に悔し涙を流させた叔母を恐れていたからだと思う。

 叔母は、後見を任されているという大義名分があるので、頻繁にボクの家へやって来ては実に細かいものまで探していた。

「義姉さんの指輪はどうしたのよっ? まさか、隠してるんじゃないだろねっ」

 ボクは、オパールの指輪は母にとって特別な価値があるものだと感じていたので叔母にだけは渡したくなかった。かと言って故意に隠しもしなかったのだが、叔母の言うようになくなってしまったのなら一大事だ。父との思い出として大事にしていた指輪だろうから、父親の思い出のほとんどない妹の手に渡らなければならないとボクは思っていた。

 叔母は結局指輪を見つけられずに帰っていった。


 梅雨に入り父と母の好きだった庭に雨が降りつづいた。

「兄ちゃん、あれ!」

 妹の指差す方を見ると、アジサイの葉に一匹のカタツムリがいた。

「きれいねぇ」

「うん、珍しい色してるなあ」

 カタツムリは虹色に輝いていて、その周りは雪洞ぼんぼりが灯ったようにぼうっと明るいのだった。カタツムリは翌日も、翌々日も同じ場所に現れた。まるでボクと妹を見守るかのようにツノのすっと伸びた頭は、いや、姿全体が気品があって美しかった。ボクがカブト虫を渡そうとしただけで泣いて逃げ出す虫嫌いの妹が「きれい」と言ったのにボクは少し驚いた。

「兄ちゃん、あれ採って……」

 ボクは躊躇した。なぜかカブト虫のようにいかない。

「カタツムリにはここにいてもらえばいいじゃないか。ようく見てみな。何か思い出さないか?」

 妹も同じ思いに打たれたらしく、目をみひらいた。

「……母さん?」

「……だろうと思うよ」

 ボクらは傘に当たる雨音を聞きながら、いつまでもカタツムリを眺めていた。



 叔母が母の指輪をあきらめた。梅雨に入って、仏壇の抽き出しにやっと彼女が探し当てた指輪はプラチナの台だけでオパールはなくなっていた。えんじ色のビロード張り小箱にはカタツムリが這った後にできる筋が虹色に光っていた。

「え? どしたのよ。石はどうしたの? あんた知ってるんでしょ?」

「知らないよ。そこは母さんが死んでから叔母さんが何度も探したじゃないか」

「おかしいねえ。今になって台だけが出てくるなんて。これじゃ、二足三文だわ」

 ……二足三文。叔母のことばでボクは、やっぱりと思った。何が後見人だ。

 居間のガラス戸から、雨にけぶった庭のアジサイに、この日もカタツムリがやって来て虹色の雪洞を灯しているのが見えた。妹とボクだけしか知らないカタツムリのことは叔母に悟られてはならないと思った。妹がはしゃぎ出さないようにと、ボクはカタツムリの方をあごをしゃくって妹に知らせて目配せをした。妹はうなずいた。

 叔母は茶箪笥のなかから妹のどら焼きを取出すと、それを頬張りながら帰っていった。浅ましい叔母の背中を見送ってボクらはほっとした。

「夏子、カタツムリが来てるぞっ」

 妹はうなずき、ボクらは遠側から庭におりた。

「きれいねえ。いつまでここに来てくれるのかな」

「さあな、でも、いなくなる前にちゃんと見ておこうな」

「うん」

 母が遺してくれた指輪の台に、妹の成人式までに、自分の稼ぎでオパールを買ってつけてやろうと決心して、ボクはまだ小さい妹の手を見ていた。

「ああっ、兄ちゃん!」

 妹の怯えたような声にボクは我にかえって、改めてカタツムリを見た。カタツムリは一段と輝きをましたかと思うと、周囲にぼんやりした虹の光輪を残したままじょじょに消えていった。

 妹のほっぺたを涙が伝った。

「いっちゃったね……」

「だいじょうぶ。また来年も来てくれるさ。さ、夏子、スパゲッティ茹でるぞ」

「また来てね、カタツムリさん、さよなら」

 このときの妹の気持ちを思うと、カタツムリが母親だなどとバカなことを言わなければよかったとボクは後悔した。


 この頃、ボクはよく母の遺影を眺める。横に並んだ父の写真は死んだ人のものとしか思えないが、母のは未だにそうは思えない。ボクは正座をしなおすと線香を取った。母は白檀の線香を好んだ。信心などというたいそうなものではないけれど、妹もだんだん大きくなれば男のボクでは相談に乗れないことも出てくるだろう。ボクは無意識のうちに、もはや答えてくれない母にすがろうとしていた。妹が、お線香なんて嫌いだと言っていたのは、他でもない母を憶い出すからだ。それでもボクが毎日線香をあげるのを見なれてきたのか、悲しみのうちにも「兄ちゃん、おとなの人みたいだね」と言って笑うようになった。ボクは妹の心境に明るい変化が兆してきたのがうれしかった。

 仏壇を見てボクはあっと思った。マッチを擦ったときに母の位牌の脚のすき間に光るものが見えたからだ。位牌をよけ手に取ってみると楕円形のオパールがついた母の指輪だった。


 カタツムリは殻を作るためにカルシウムが必要なのだそうである。梅雨どきの庭や道端の草場だけでなく、一見生き物とはなじまないコンクリート塀を這っているのも、ヤスリのような歯でコンクリートを削ってカルシウム分を摂取しているのだという。そんな話がぼんやり頭に浮かんでいた。


 合掌を終えて、ボクは「8時だよ、全員集合!」を見ている妹に指輪を差し出した。

「叔母ちゃん、ずっとこれを探してたんだよね」

 妹は手のひらにくぼみを作ってボクから指輪を受け取った。ゆっくりと指を伸ばした手のひらを目の高さに持っていって、微細な虹の欠片が散らばって輝くオパールをぢっと見てポツリと言った。

「カタツムリだね、兄ちゃん」

「うん、大事にするんだぞ」

 ……母は妹に渡すべきものを自分で守ったのかも知れないな……。決して科学的とはいえない考えに苦笑しながら、ボクは妹に深くうなずいて見せた。(了)

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