08 : これは僕の都合だから。
なにも考えられないくらいの忙しさは、経験したことがある。あまりの疲労に、家に帰り着いたとたんの記憶が飛んだこともあった。そのときは玄関で、帰ってきたときのまま倒れるようにして眠りこけていたから、慌てて身なりを整え出勤したために休んだ気がしなかった。
今ユサは、たぶんそんな感じの状態にある。
「よろしいでしょうか」
部屋で常にユサを警護してくれていた女性にそう声をかけられ、どこかに案内されている間も、ユサはなにも考えていなかった。べつに女性のことを信頼して身を任せたわけではない。ただ、シュウが「潜り込む」と言ってから、まるで気配を感じさせずただ控えていた彼女が、いきなり声をかけてきたのには理由があると感じたからだ。
「ここでお待ちください。もう少しで戻られるそうです」
いろ、と言われた場所は、宿泊している宿の中庭だった。戻るとはなにかわからなかったが、シュウがそばにいることがなくなってから初めての外であったから、なにか変化があるのだろう。
ぼんやりと空を眺め、祖父セイドやイースは元気にしているだろうかと取り止めもなく思っていたら、少しして風がユサの頬を撫でた。
「なんと強引なことよ」
そう子どもの声が最初に聞こえた。
「イチヒトも規格外だと思っていたが、その兄弟子も規格外だな。今さらであるが」
「いえ、これはちょっと、強引過ぎます……ヒョーリ、レン、無事ですか」
中庭にはユサのほかに警護の女性だけだったのだが、気づけばふと、人の気配が増えていた。見上げていた空からそちらに視線を向ければ、少年貴族と細身の魔術師、少女を抱えた青年貴族という、奇妙な団体がいつのまにかいらっしゃった。
なんだろう、と首を傾げれば、風がまたさらに舞い上がり、見慣れているが懐かしい存在がふわりと、ユサの前に現われる。
シュウだ。
「……シュウ」
「! ああ……ユサ」
目の前にユサがいたことにシュウは驚いた様子だったが、その顔はすぐに、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ただいま、ユサ。今帰ったよ」
「……おか、おかえり」
「うん、ただいま。ちょっと抱きしめてもいい?」
両腕を広げ、もうその準備はしているのに訊いてくるシュウに、ユサは心の底から安堵して自分から飛び込んだ。
「わぉ……ふふ、ユサから来た」
「おかえり、シュウ」
一気に、思考が現実に戻ってくる。
シュウだ。ただいまと、帰ってきてくれたシュウだ。相変わらず薬っぽい匂いがして、実は背の高いシュウが、ユサを抱きしめている。
「ほったらかしにしてごめんね、もう終わったから」
「終わった……?」
「あれの回収」
あれ、とは、奇妙な集団のことを指しているようで、シュウに抱きしめられるとすっぽり隠れてしまうユサには、まだ気づいていない。
「最悪、エンリさまだけでも回収できればよかったんだけれど、まあ面倒だから全員ね、回収してきたの。僕の仕事はこれで終わり」
「……終わり」
頼まれたことが終わったのなら、では旅行の続きが待っている。
「旅行……」
「うん、少し休んでからね。さすがにこの人数を、短距離とはいえ飛ばしたから、魔力が空っぽで疲れたよ」
疲れた、と言うシュウの顔をきちんと覗き込めば、穏やかな顔つきはやや色味がない。
「魔力が……枯渇すると身体に悪いって聞いたことがある。早く休まないと」
「うん。けれど、その前に……ね」
もう少しぎゅっとさせて、と言われて、軋むくらいに抱きしめられた。少々恥ずかしい気がしてきたのはこのときで、けれどもやはりこれは悪くない。
「少し痩せたね、ユサ。きちんと食べたの?」
「シュウこそ」
「僕は……思い出したらお腹空いたな。ユサ、なにか作ってくれる?」
「厨房を借りられたら……でも、手の込んだものは無理だよ」
「軽くでいいよ。厨房に行こうか」
身体を休める前になにか食べたいと言うので、身体のためにもそれがいいだろうと、ユサも頷いてシュウの腕から抜け出す。シュウと一緒に厨房へ行こうとしたときだった。
「待たぬか、シュウよ」
中庭は、シュウが回収してきたという奇妙な集団が少し賑わっていたので、聞きつけたらしい「センリさま」も中庭に出てきていた。シュウを呼び止めたのは「センリさま」だ。
「まだ邪魔をする気ですか、センリさま」
「そもそも終わりではないぞ」
「イチヒトが戻ってきたんですから、僕はもういいでしょう」
辟易とした様子のシュウが、呼び止めた「センリさま」に文句を言う。だが、シュウを呼び止めたのは「センリさま」だけではなかった。
「シュウよ、休んだら顔を出せ。話がある」
少年貴族が、さも当然とばかりに、歩み寄ってきながら口を開く。
「おまえがいてくれてかなり助かっているのだ。今さら抜けられては困る」
「エンリさまも、僕の邪魔をしないでください。僕は本来、ここにはいない身ですよ。イチヒトがいるのですから、そっちを頼ってください」
「おまえがここにいるのは天の采配だ。恵みに感謝する」
「……この兄弟、どうして勝手に自己完結するかな」
今まで以上に深いため息をついたシュウは、もういくつもの幸せを逃しているように思う。それではだめだと思ったから、ユサは握られているシュウの手を引っ張った。
「わたし、まだ待てるよ」
「ユサ……」
「シュウがいるから、だいじょうぶ。でも、だから今は休んだほうがいい」
終わったかどうかはこの際置いておくとして、シュウを休ませたいと訴えるため、シュウの影から少年貴族を窺えば、そのとき漸くユサに気づいたらしい少年貴族に驚かれた。
「本当に娶っていたのか、嘘であろう」
そう呟き、少年貴族は後ろにいた細身の魔術師を見上げ、細身の魔術師もまたユサに驚いていた。
「……ど、どこから攫ってきたのですか、シュウ」
揃って驚かれたので、ユサもつられて驚いてしまう。いや、驚かれるほどのことはしていないが、というかシュウは誤解される紹介の仕方でユサのことを話していたようで、真に受けているらしい少年貴族と細身の魔術師に、どう説明したらいいのか困った。
「僕は一度も嘘を言ってないのだけれど……イチヒトはひどいね、どうして僕がユサを攫うの。ちゃんと許しをもらってきているよ」
否定するところが違う、わけでもないがそればかりではないだろうに、どうしてこう誤解を招く言い方をするのかと、ちょっとシュウに呆れる。
それにしても、細身の魔術師のほうは、どうやら師が一緒だという弟子のようであるらしい。外套の頭巾のせいで顔はよく見えないが、ちらちら覗く髪がさらりとしていて綺麗な人だ。
「いちひと……」
「え? ああ、わたしをご存知ですか。はい、シュウと同じくアリマ・アマゼンテを師事する魔術師、イチヒトです。あなたは……」
「あ、わ、わたしは」
自己紹介してくれるとは思っていなくて、少し慌てたら、ユサの視界を遮るようにシュウが立ち位置を変えてきた。
「イチヒト、あとにしてくれる?」
今ここではやめてくれ、という態度を取ったシュウは、少しふらついた。疲れているのは本当だから、休みたいのだろう。確かに自己紹介などしている場合ではないかもしれない。
「センリさまも、エンリさまも、とにかく今は僕の邪魔をしないでください」
そう言うと、シュウは戸惑うユサの手を引っ張り、少し強引に宿へと戻った。速足のシュウは、どこか、思い詰めているような顔をしている。
「だめ……だめだよ、ユサ」
「え? だ、だめって、なにがだめ?」
「うん、だめ。あれはだめ」
「? なにがだめなの」
「ユサが巻き込まれちゃう。だからだめ」
ぶつぶつ言いながら、シュウはユサの手を引き、厨房に立ち寄ることなくまっすぐと宿泊している部屋に向かった。
「ユサはあそこで彼らを知ってはだめ」
「かれらって……センリさまとか?」
「そう、だめ。知らなくていいの」
「でも……」
どうやら詳しく知って欲しくないらしい。
部屋に入るとすぐ、当然のように寝台に向かったシュウは、なぜか自身が腰掛けた膝にユサを座らせた。
「イチヒトには、きちんと紹介する。けれど、センリさまやエンリさまのことは、ユサは知らなくていいんだ」
「……シュウがそうしたいなら、かまわないけれど」
知って欲しくないなら、深入りはしない。だが、それでは身分が明らかに上である「センリさま」や少年「エンリさま」とやらに、失礼にならないだろうか。
「あとでちゃんと話すから、今は知ろうとしないで」
「それで、だいじょうぶ? 失礼にならないかな」
「あのひとたちは旅行に関係しないから、だいじょうぶ。逢ったのも偶然ではなくて、そもそも逢ってもない」
「……なかったことにしろってこと?」
「そう、ユサはあのひとたちに逢ってない」
少々意味不明なことであったが、どうしても今は、きちんと紹介するということをしたくないらしい。誤解される紹介の仕方は、それゆえのことだったのかもしれない。
「もう名前は知ってるけど」
「それくらいはいいよ。けれど、それ以上はだめ。いい?」
「いいけど……それより、この体勢……恥ずかしいんだけど」
「これは僕の都合だから」
シュウの膝から退こうとしたら、いいから、と留められてしまう。いくら人の目がないからといって、これはどうかと思うユサだったが、まあ居心地はとくに悪くはなく、恥ずかしいくらいなので我慢はできる。
「食事、しないと」
「うん」
「シュウ、休んで」
「休んでいるよ、今、ユサと一緒に」
「わたし邪魔でしょ」
「そんなことない」
腹部に回されているシュウの腕は、ユサをシュウに密着させている。後ろ首にはシュウが、頭を寄せて懐いている。かなり恥ずかしいが、心臓もばくばくとするが、シュウが離してくれないのでは逃げられようもなかった。