07 : ひとりは寂し過ぎる。
巻き込まれたら危険だから、という理由で、ユサはシュウから遠ざけられ、シュウのいない部屋の窓際で、ぼんやりと外を眺めている。なにがどう危険なのか知らないが、シュウはいなくとも、この部屋には武装した人がひとり、ユサを気遣ってか女性の傭兵が待機していた。居心地は悪いが、旅行が台無しになったのは言うまでもなく、落ち込んでいるユサとしてはもはや居心地の悪ささえどうでもいい。
旅行の予定が狂ったということは、日程も狂うことになるので、一週間程度だと伝えていた祖父セイドには、シュウを連れて行った「センリさま」が使者を出してくれた。もうこの際だから使者と一緒に帰ってしまおうかと思ったが、そう思ったとたんにシュウが寂しそうな顔をしたので、師匠の墓参りをするという約束を思い出し、「帰る」とは言わなかった。
けれども、さすがに二日も放置されると、帰りたくなってくる。
「帰ろうかな……」
巻き込まれないよう配慮されているのなら、ユサが家に帰ってしまえば、完全に巻き込まれない状態になるはずだ。ユサのために部屋で待機している女性も、本来の役割に戻れる。
「ユサが帰るなら僕も帰る。というか、本来の旅行に戻る」
「……シュウ」
降って湧いた声に振り向けば、少々お疲れ気味の様子のシュウが、女性を部屋から追い出しているところだった。二日ぶりのシュウだ。
「わたしの我儘だから、聞かなかったことにして」
「違う。センリさまが勝手なんだよ。僕がいなくてもどうにかできるくせに」
愚痴めいたシュウの文句に、ユサは微笑む。久しぶりにシュウの顔を見られて、異国の地にいる緊張感やらいろいろな感情が、とにかく安堵したのだ。
「……ユサ」
「うん?」
「その……ちょっと抱きしめてもいい?」
「え……」
「ああごめん、僕疲れてる。センリさまの勝手なんだけど、どうやらイチヒトが絡んでいるようで、しかも外側から手助けに入られない状態で……なんかもうごたごたしてて」
本当に疲れているのだろう。目頭を揉み、逢えなかった二日間でぼさぼさになっている頭を掻きながら、シュウは肩を落として苛立ちを露わにした。穏やかでないシュウなど初めて見る。
「大変そう、だね」
「僕がいなくてもだいじょうぶだろうけれど、あのイチヒトが動けない状況っていうのが……」
シュウが感情を持て余している。そんな状態にさせるくらい、「センリさま」が持ちかけた手伝いはひどいものなのだろう。同じ弟子がそのなかにいれば、なおさらだ。
「いいよ」
「ん?」
「抱きしめて、いいよ」
シュウは疲れている。原因がなんにせよ、その疲れを癒すためにわざわざユサのところに来たのなら、ユサはシュウに必要とされているのだ。
シュウに必要とされるのは、悪くない。嬉しいと思う。
なんの役にも立てず、シュウにばかり動いてもらっていたユサにも、シュウに返せるものがある。
「……いいの? ぎゅうって、しちゃうよ?」
「シュウがそうしたいなら」
わたしなんかで、疲れた身が癒されるなら。
そう思って身を差し出せは、じっとユサを見つめていたシュウが、ふらりと近づいてくる。そのまま無言で、強く、抱きしめられた。
シュウのためと思いながら、抱きしめられてユサも、ほっとした。シュウのいない二日間は心細かったのだ。
「これからちょっと、潜り込んでくる」
「……うん」
どこに、なんて聞かない。シュウが手伝っている「センリさま」のことは、ユサが聞いてもたぶん理解できない、そんなものだろうからだ。
「さっさと片づけてくるから、もう少しだけ、ここで待っていてね」
「シュウが帰ってくるまでおとなしくしてる」
「うん、すぐに帰るから。終わったら、旅行の続きだよ」
「楽しみなこと、いっぱいあるんだもんね?」
「そうだよ、楽しいことしかないんだ」
すり寄ってくるシュウからは、薬師らしく、薬っぽい匂いがする。心地いい、なんて思った。
「ユサと楽しいことしかない旅行だったのに、こんなことになってごめんね」
「だいじょうぶ、シュウがいるから」
「ありがとう、ユサ」
ふっと、密着していた身体が離れていく。そのことに寂しさを感じて、思わず引き留めるために腕が伸びた。
「……ユサ」
「あ、ごめん。なんか……寂しいみたい」
伸びた手はすぐに引っ込めたけれども、シュウがそれを追ってきて、手を握られた。
「いってくる、ね」
「……うん、いってらっしゃい」
怪我をするようなことでなければいいけれど、と心配を抱きながらも、名残惜しそうに離れていくシュウを、ユサは微笑んで見送った。
扉が閉められてシュウの姿が見えなくなると、とたんに身体から力が抜ける。シュウを置いては帰られないけれども、いくらシュウが自分のところに帰って来てくれるとわかっていても、やはり異国の地にひとりでいるのは心細く、なにかと怖かった。
窓の向こうでは活気ある声が飛び交い、屋台からは美味しそうな香りも漂ってくる。シュウと一緒なら楽しかったであろう場所が、シュウがいないというだけでこんなにも恐ろしいものに見えてしまうそのことに、己れの心の弱さを痛感した。
「だめだなぁ、わたし……」
ここにイースがいてくれたら、気も紛れただろう。なにも語ることなく寄り添ってくれるイースは、慰めてくれることもないがその逆もない。
ここでひとり、シュウの帰りを待つのに、ひとりは寂し過ぎる。
「ほんとに、早く、帰ってきてよ……シュウ」
世界にたったひとり取り残されてしまったかのような錯覚は、それ以上寂しさを感じないようにするために、ユサの心を閉ざした。
窓辺に座り込み、空虚な眼差しで空を見つめるユサの姿を、扉の隙間から窺い見ている者がいた。
「犯罪紛いなことをしてくれるな、シュウよ」
センリは、友人とは呼び難いがただの知り合いとも呼べないシュウをちらりと眇め、僅かに開いていた扉を閉めた。シュウは白々しくもそっぽを向いている。
「ユサの身に傷の一つでもつけたら、殺してやります」
ユサの前では決して聞くことのない物騒な言葉は、確かにシュウの口から発せられ、そしてユサに施した魔術は棚上げにした発言でもあったそれは、確実にセンリへと向けられていた。
「繋ぎ役をおまえに頼んだだけであろう。奥方には誰も近づかぬ。もっとも安全だ」
「あなたが僕の前に現われた、それだけでユサへの危険は跳ね上がるんですよ」
「警備は万全を期しておろう。そこまで牙を向けるな、シュウ。おまえがどれだけ奥方を大切にしているかは、もう誰もが承知だ」
異常なほどの警戒心を持ったシュウは、そんなシュウのために徹底して警備を整えたセンリでも、なかなか信じようとしない。この二日、シュウの要望のためにどれだけの人が動いたか、シュウもわかっているだろうにそれでも納得しないのでは、もう打つ手もない。
まあそれも仕方ないことか、とセンリはやや諦めつつ頭を掻く。
「いっそ連れて行くか……」
「そんな真似をしたら絞殺しますよ。あなたの奥方さまを」
「ぐ……」
「それともエンリさまにいたしましょうか」
「……シュウ、わかった、わかったから」
べつに手を汚すようなことを頼んでいるわけではないのに、今まさに人を殺してきたかのような凶暴な顔つきをしたシュウは、もうセンリの手には負えない。
「邪魔をして悪かった。この詫びは必ずする。だからもう怒ってくれるな」
「では、今後一切、僕と関わらないでください」
「それは無理だ」
「……殺されたいのですね」
死線を潜ったこともあるセンリでも、凶暴化したシュウには敵わない。けれども、シュウともう二度と関わらない、という約束はできなかった。
「シュウ、悪いがそれだけは確約できぬ。おまえ、己れがどれだけの存在であるか、わかっておらぬのか。おまえは、エヌ・ヴェムト国王直下魔術師団の、次期師団長なのだぞ」
「候補だっただけです。僕はそれを辞退しました。今はイチヒトが候補に挙がっています。僕にはもう関係ありません」
「そうは言うが、己れの価値を甘く見るなよ。おまえの国籍は今もエヌ・ヴェムトが握っておるのだからな」
あまり見せつけたくはないが、国家権力のしぶとさを強調すれば、さすがのシュウも舌打ちして忌々しげにする。
「それで僕を拘束したつもりですか」
「いざとなれば……あれも利用しようぞ」
センリはちらりと、扉の向こうに視線を投げる。とたんに息苦しくなるくらいの殺気が飛んできた。
「ユサに手を出したら国を滅ぼしてやります」
紙一重ではあるが、これまで弱みらしい弱みがなかったシュウの、今生で最大の弱点をセンリは見つけたことになるだろう。
「では、国を護る象徴である王太子のわたしに、おとなしく従え。知っておろうが、われらはしぶといぞ」
シュウとの睨み合いなど御免被りたいセンリではあるが、シュウと渡り合うと大抵こうなるので、多少は慣れているつもりだ。それでも、シュウの凶悪的な雰囲気は、ふだんの穏やかさが嘘のように悪質なものになるだけに、かなり心臓に悪い。ずきずきと、錯覚だろうが痛くなっていた。
「……許せ、シュウ……国はおまえを手放せやせぬ」
「なんのためにイチヒトをエンリさまにくれてやったとお思いですか。イチヒトだけでも充分でしょう。あれは、国に護られる必要のある魔術師、それだけの価値もあるのですから」
「足りぬ。わが国には、戦争という人災に負けぬだけの力が、まだ足りぬ」
「……なんて身勝手なことでしょう」
「承知のうえだ。許せ、シュウ」
シュウの殺気に耐えつつ、どうにか踏み止まって対峙すれば、センリの誠意が伝わったのかシュウは盛大なため息をつき、家屋の外へと足を向けた。遠ざかる殺気に、王太子という身分に在りながら、センリはホッとした。
「まったく手に負えぬ……なんという継嗣を育ててくれたのだ、アマゼンテよ」
シュウの養母であり先々代魔術師団長であった偉大な人物へ悪態をつきつつ、愛らしい弟に早く癒されたいものだと思いながら、センリも屋外へと漸く足を向けた。