06 : 魔術師の継嗣。
山へ行ったときのように遭難することはまずないだろうということで、イースはセイドと留守番してもらうことにして、ユサはシュウと旅行第一日めを、どきどきしながら迎えた。
「ねえシュウ」
「うん」
「シュウ、ねえ」
「聞こえているよ」
「わたし、手を引かれて歩くほど、子どもじゃないよ」
国境までイースは見送りについて来てくれたが、半日も歩けば到着する国境を超えると、イースはセイドのところに帰った。国境を越えればもう目の前に隣国であるエヌ・ヴェムトの砦が見え、旅行者であることを国境兵に証明することになる。
ユサは、イースが帰ってからこちら、シュウに手を引かれて歩いていた。歩くことに手いっぱいになる山道では助かることだとはいえ、もう人目につくくらいの場所に出れば、さすがに恥ずかしい。
「見せつけてくれるねえ。嫁さんかい?」
旅行者である証明をするために立ち寄った砦の兵にそう言われて、ユサは真っ赤になった。
「な、ちが」
「うちの奥さん可愛いでしょ? もう恥ずかしがっちゃって」
「しゅう!」
違うのに、そんな関係もないのに、堂々と言いきって砦の兵の揶揄を流したシュウは、白々しく満面笑顔だ。
「ほら、ユサ。転ぶと大変だから、ちゃんと掴まってね」
「気ぃつけてなぁ! 嫁さん大事にしろよぉ!」
「ありがとう、兵士さん」
証明書に名前の記載でもあればよかったのだが、終戦からこちら、他国への出入りが緩和されたので、署名が必要な部分は出国地だけだ。入国した先では、どこから来たのかという証明書だけを提示するだけでいい。よって、砦の兵はユサとシュウの組み合わせを、夫婦だと見ためだけで判断しても仕方のないことだ。
ユサとシュウは律儀に砦に立ち寄ったが、これは入国先で問題に巻き込まれた際にすぐに助けてもらえるようという保険で、危険に巻き込まれるようななにが起きようが自己責任でどうにかできるという人は、出国手続きも入国手続きもしない。傭兵や冒険者がそうだ。旅行者は身の危険を考えて、必ず手続きをしている。
「怒ったの?」
「だって違うのにっ」
「ああいうのは笑って誤魔化しておくに限るよ。そもそも、知らない人に弄られても楽しくないだろう?」
「そ……それはそうだけど」
「僕と夫婦に見られるの、いや?」
「シュウがいやでしょ、隣にいるのが、わたしで」
「僕はユサが隣にいてくれて嬉しいよ」
「……シュウがいいなら、いいけど」
勘違いされるのはいやだ、という思いは、シュウが嫌いだからとか、そういうことではなかった。シュウに申し訳ない気がしたのだ。
「ねえ、本当にわたしが隣にいて、平気? いやじゃない?」
「なんでそんなこと訊くかな」
「だって……」
シュウは薬師で、今のユサはただの無職だ。それも逃げてきて、今もまだ現実逃避のなかにある、落ちぶれた状態にある。しっかりしているシュウと、今の不安定なユサでは、隣り合うには不釣り合いなように思えてきたのだ。
「ユサ、この旅行を実は楽しみにしていただろう?」
「えっ」
「楽しもうよ。僕も、ユサと旅行ができて、嬉しいよ? 師に紹介もできるし、楽しみなことがたくさんあるんだよ?」
純粋に旅行を楽しもうとしているシュウには申し訳ないけれども、どうしても不安に思ってしまう。こんなことなら誘いを断ればよかったと、ちらりと思ったが、困り顔でも笑っているシュウを見ているうちに、そんな迷いは消えた。
「た……楽しみたい」
「うん、それでいい。さて、この先に小さな町があるから、そこの乗合馬車で宿場町のアルバナチュードに移動するよ。アルバナチュードはわりと大きい宿場町でね、冒険者組合の本部がある。父の名前で本部御用達の宿に泊まれるから、今日の宿泊地はアルバナチュードだ。明日は、王都に向かうように進んで、途中にあるパンペストという街から、北のほうへと抜ける。その先に師の家があるけれど、パンペストから歩きになるちょっとしんどいかもしれないな」
行こう、とやはり手を引くシュウに、子どもじゃないから、とはもう言えなかった。
そうだ、旅行を楽しもう。遠出は久しぶりだ。就職が決まれば、こんな機会はそうそう得られない。楽しまないなんて損だ。
「じいちゃんのお土産、なににしよう? フェイさんと奥さんにも、お土産買いたいな」
「おじいさんには、そうだなぁ……野菜の種なんてどうだろう? エヌ・ヴェムトにしかない野菜はけっこうあるよ。フェイのところにはお菓子かな」
「うん、いいね。お土産買うの、すごく楽しみだ」
「旅行の醍醐味だからね。うん、楽しみ」
笑い合いながら、人目を気にすることなく、ユサはシュウと歩く。傍から見ればそれは仲睦まじい夫婦のようであったらしいが、その真実を誰かが知っている必要はなく、ふたりは世界に溶け込んでいく。
宿場町アルバナチュードに着いてからも、ユサとシュウのふたりはどこにでもいる旅行者そのもので、紛れもなく観光者だった。初めての異国にきょろきょろとあちこちを見渡し、興味の惹かれるものがあればふらふらと誘われてしまうユサと、そんな連れを微笑みながら上手く誘導してはぐれることがないようしっかりと手を繋いで歩くシュウは、微笑ましいくらいに仲睦まじい旅行中の夫婦だったのだ。
なんでもない、どこにでもいる人そのものだったのに、なにがどう狂ったのか。
「見た顔だと思ったら、シュウではないか」
それは、やけに人混みがきついと思っていた、矢先のことだった。
「あれ……センリさま?」
人混み、正確には妙に武装した傭兵のような人たちと、それを興味津々で盗み見る人だかりで、その中心にいたと思しき人物は、シュウの知り合いだった。しかも、「さま」とその人の名につけてシュウが呼んだということは、明らかに身分はただの平民ではない。
ユサは癖になりつつあるシュウの背に隠れ、そっと「センリさま」とやらを窺い見た。
「なんだ、ついに娶ったか」
ユサがこっそり顔を出すと同時に、「センリさま」とやらもユサに気づいて顔を覗かせてきたので、吃驚してユサはシュウの背に顔を押しつけて隠れた。
一瞬だけだったが、見えたのはなかなかの美丈夫、赤茶色の印象的な双眸を持った武人だった。
「祝ってくださいます?」
「ほう……そうか、本当に娶ったか。祝いくらいいくらでもしてやる。と、言いたいところだが、おまえ、なぜここにおるのだ? イチヒトからなにか報せを受けたのか?」
「はい? なんのことですか?」
「おまえ、かなりちょうどいい頃合いでここに現われておるぞ。わざととしか思えぬくらいに」
「はて……おっしゃられている意味がさっぱり理解できませんね」
身分は上なのだろうけれども、シュウは親しげに「センリさま」と会話をする。誤解される紹介の仕方も、知らない人には弄られても楽しくないと言っていたのに、それまでは口にしなかった「祝い」を乞う発言までした。
いったい、「センリさま」とは、シュウのなんだろう。シュウと同じ魔術師の師匠を持つ弟子の名前まで知っているということは、シュウが師事した魔術師の師匠のことも知っているということで、おそらくその関係の知り合いではあるだろう。
「ちょうどいいから、少し手伝え」
「いえいえ、先ほどの話の流れから、なぜそういうことになるんですか」
「ちょうどいいからだ」
「意味がわかりませんよ」
「おまえの腕を借りたいと思っていたところだ。どうやって呼び出そうかと思案していたところに、偶然にもほどがある。これは天の采配だな」
「相変わらずの自己完結ですね……」
「手伝え、シュウ」
「いやですよ。僕はユサと旅行中です。邪魔しないでください」
「では奥方に頼もう。ユサと申したな。ユサよ、シュウを借りたい。なに、僅かな時間だ。埋め合わせはもちろんしよう」
「ちょ、センリさま」
せっかくシュウの背に隠れていたのに、「センリさま」とやらは強引に話しかけてきた。身分が上であると明らかにわかるから、おそらく貴族さまであろうから、たとえ強引であろうとも頼みを言ってくる「センリさま」を、まさかユサが無視できるわけもない。警戒心と緊張感からがちがちになって口を開けなくなっていても、無視だけはしてはならない行為だ。不興を買っては身が危ないうえ、シュウにも迷惑がかかる。
「あ、あ、あの……っ」
「センリさま、ユサを怖がらせないでください。けっこう人見知りするんですから」
「しゅ、しゅう、わた、わたし……っ」
「ああ、だいじょうぶ。僕がいるし、だいじょうぶだから、ね?」
がちがちに固まったユサを、シュウは背中から引っぺがし、不安がったユサを宥めるように正面から、両腕で抱きしめてきた。状況が状況でなかったら、恥ずかしさにシュウを突き飛ばしていたところだろうが、今は救いだ。
「なんと……愛らしい奥方だな、シュウよ」
「可愛いと思うのは僕だけで充分です。まったく……ユサを脅すようなことをしないでくださいよ。律儀なんですから」
「と、いうことだ奥方よ。シュウを借りるぞ」
「センリさま!」
理由は不明だが、「センリさま」はシュウに手伝ってもらいたいことがあるらしい。ここでの再会は偶然にせよ、シュウの手を借りたいと思っていたらしいので、これ幸い、ということなのだろう。
「しゅ、しゅう、わたし、いいから」
「ああもうユサったら……」
「せ、せんりさま、しゅうにてつだって、ほしいって」
「ちょっと舌足らずになってるの可愛いね」
「しゅう!」
誤魔化さないで、怖いから、と涙目で訴えれば、いやそうながらも仕方なさそうにシュウはため息をついた。
「僕になにをさせたいんですか、センリさま。言っておきますが、僕はただの薬師ですよ、今は」
「今は薬師であれ、本来おまえは魔術師であろう、シュウよ」
少し遠ざかった「センリさま」の気配は、勝ち誇ったような声で言った。
「なあ、アマゼンテが継嗣、安寧の魔術師よ」
ホッとしたような声でもあった「センリさま」の言葉に、シュウはやはりため息をつく。
「僕はただの薬師ですよ」
ただ旅行を楽しむ、どこにでもいる夫婦のようなものだったのに、いったいどうしてこうなったのだろう。