05 : 僕がもらったよ。
日用品の調達と、求職情報をちらりと得て帰ってくると、シュウが居間で祖父セイドと談笑していた。
「シュウ」
「おかえり、ユサ」
「ただいま……いらっしゃい?」
「お邪魔してます」
もはや居間にシュウがいることは当たり前になってきているが、それでもユサがいるときに限られていたので、ユサがいない間にシュウが訪れていたのはこれが初めてだった。
「ユサ、わしは畑に戻るぞ」
「ああうん、いってらっしゃい」
そそくさと出て行ってしまうセイドの様子から、シュウとの談笑ではなにかこう、ユサのことでも話題に上がっていたのかもしれない。
「じいちゃんとなに話してたの?」
「ん、旅行のこと。ほら、明日には出発だろう? 経路のこととか、宿泊先とか」
「あ、そうだ。旅行のことで話があったの」
「なに? 今さら無理とか言わないなら聞く」
「なにそれ……」
久しぶりの遠出、それも名目的には旅行だ。準備もしたのに今さら「行かない」という選択肢はユサにはない。豪雨で状況が悪くなるとかであれば話は別だが、それくらいで中止にしたくないくらいに、実は旅行を楽しみにしているユサである。
「繁華街でフェイさんに逢ったの。そしたら、旅行に行く前に風邪薬を処方して行ってくれって、伝言を頼まれたんだよ」
「ああ、あそこは奥さんが身体弱いからねぇ……滋養の薬も作っておいてあげようかな」
「うん、奥さんがそうらしいね。今も、ちょっと調子が悪いみたい」
「了解。ほかになにか言われた?」
「言われたというか……教えてもらったんだけど」
「なに?」
首を傾げてユサの言葉を待つシュウに、さてこれをどう切り出すかと言葉を考え、しかし悩んでも仕方ないと、率直に述べることにする。
「師匠の命日が……近いって」
「ああうん、そうだね」
「わたし知らなかった」
あっさりとしたシュウに、非難がましく言ってしまったのは、シュウに師匠の話を聞いたときは生きていると思っていたからだ。だが、よくよく考えてみれば、言葉の端から師匠の存命はあり得ないことが窺えた。きちんと話を聞いていなかった自分に、少なからず苛立ちを感じる。
どうしてもう少しちゃんと、シュウの話を聞いていなかったのか。
「ユサ、つき合ってくれる?」
「え?」
「師のお墓参り」
「当たり前だよ」
今回の旅行は、それがもしかしたら本来の目的なのかもしれない。それを考えれば、行くと決めた以上、シュウにつき合うのも当たり前なのだ。もちろん邪魔になるようであれば控えるが、誘ってきたのはシュウなのだから、少なくともユサの存在を煩わしいとは思っていないはずだ。
「もう少し早く知っていたら、わたし、ちゃんと言葉考えたのに……今まで失礼なこと、わたし言ってなかった? 言ってたらごめんなさい」
「言わなかった僕が悪いんだから、ユサが謝ることないよ。というか僕、師の命日をはっきりと憶えてないんだよね……」
「え?」
「ああいや、悪い意味じゃないよ? 師が亡くなったとき、そばにいなかったから。この時期だったかなぁ程度にしか憶えてなくて」
なにかあったのだろうか、と心配したら、明るい笑顔でシュウはそれを否定する。だが、なぜだろう、その当時なにかあったのだと、確証めいたものをユサは抱いた。
「あのひと、本当に死んじゃったんだよねぇ……」
そう遠い目をしたシュウが、目の前にいたからだろうか。
「今からじゃ遅いかもしれないけど……師匠が好きだったものとか、憶えてない? それ、墓前に供えようよ」
「師の好きな……お酒が好きだったけれど」
「それならすぐに手配できるね。どんなお酒でも好きなの?」
「酒乱ではないけれど、いろいろなお酒を試飲するのは好きなひとだったよ」
「じゃあ、この町のお酒でもいいね。わたし、買ってくる」
「待って、ユサ」
財布だけを握って繁華街に再び行こうとしたら、シュウにそれを止められた。掴まれた腕が、少しだけ熱い。
「行きながらでもお酒は買えるよ。どうしたの、急に」
「急にって……べつに、急じゃないよ。知らなかったから、ただ……申し訳なくて」
「ユサがそう思う必要はないって、言っただろう」
「だってわたし、シュウの話、きちんと聞いてなかった……きちんと聞いていれば、わかることだったのに」
「僕が曖昧な表現をしていたせいだよ。ユサは悪くない」
「でも……」
顔は笑っていても、目は笑っていないと、シュウは気づいているだろうか。遠い目をしたシュウは、そこに心がなかった。それがいやだと、ユサが思うことは、おかしいだろうか。
「行かないでよ、ユサ」
「……わたしはどこにも行かないよ。ここにいるじゃない」
「うん。だから……僕のそばにいてよ」
にこりと笑うシュウの目が、寂しそうだった。なにがシュウをそうさせているのかはわからなかったけれども、師匠の命日を話したとたんにこうなったのだから、原因の一つはそれだろう。
「ユサ」
「……うん」
「ねえ、ユサ」
「うん、なに」
掴まれていた腕が離されたかと思ったら、手に握っていた財布を取られて、机に置かれる。そうして空いた両手を、シュウの両手が握ってきた。
シュウの手のひらは温かだった。指先は少し冷たい。薬草ばかり触っている手だから、いつも薬っぽい匂いがして、たまに薬草の色に染められていることもある。
なんだろう、この状況は。
「師に、ユサを紹介してもいい?」
「へ? え、ああ、まあ、紹介してくれるなら」
「母にも、イチヒトにも一応、紹介したいな」
「シュウがそうしたいなら、かまわないけど」
「そう? なら、紹介する」
「うん、ありがとう」
「師の名前はアリマ・アマゼンテ。僕は師の継嗣になってしまっているから、シュウ・イレイ=アマゼンテ」
「へ……あ、そうなの」
「ユサは?」
なぜこんな話になっているか、状況もよく読めなかったが、とりあえず名前を訊かれているのはわかった。
そういえば、きちんと名乗り合っていない。ここはきちんと答えるべきだろう。
「ナユサ・ナズライトだよ」
「ユサは愛称?」
「うん。両親が好きな音を並べたらナユサになっちゃって。呼びにくいでしょ? だから名乗るときも、ユサ・ナズライトって略してる」
「それ、知っているのはおじいさんだけ?」
「じいちゃん憶えてるかなぁ……うん、知っているとしたらじいちゃんだけ、かな」
両親の好みだけでつけられた名は、神殿に提出された書類だけで、あとはどこにも使われていない。署名が必要なものにも、ユサは「ナユサ」と名を書いたことがない。呼びにくい名であるし、呼ぶ人もいなかったから、ユサは幼い頃からユサと名乗っているし、書いている。
「そう……ふふ、そうなんだ」
なにを笑っているのか、シュウは嬉しそうに口角を上げた。
「真名を、握れるなんて……思わなかったな」
「まな?」
「なんでもない。ねえユサ、ユサがナユサっていう名前だって、おじいさんのほかに僕しか知らない?」
「神殿に提出されただけだから、そうじゃないかな。べつに困ることもないし」
「ナユサ……ナユサ、か」
「言い難いよね」
「僕には都合がいいね」
「なにそれ」
「ねえユサ、ほかに教えちゃだめだよ?」
「え? 名前のこと?」
「そう。もうこれから先、ナユサっていう名前だってこと、誰にも教えちゃだめだからね」
「はあ……べつに、呼ぶ人もいないからいいけど」
「うん、それでいい」
にこにこと、まさしく満面笑顔であるシュウに、いったいなにがそこまれ喜ばしいのかやはりユサには不明だが、名前で困ったことはないので、シュウがそうしろと言うならそれはかまわない。というより、そんな機会もないと思う。
だから。
「僕がもらったよ」
シュウが小さく呟いたそれは、本当に小さくて聞こえなくて。
「僕の、ナユサ」
噛みしめるように呟かれたそれも、ユサの耳には届かなかった。
「なに?」
「シュウセイ」
「ん?」
「シュウセイを略して、シュウ」
「あ、シュウも愛称なんだ」
「呼んでって言ったら、呼んでくれる?」
「シュウセイ?」
「うん、そう」
ただとにかく、寂しそうな目をしていたシュウが、今はちゃんと全身で微笑んでいるから、今はそれでいいかとユサも笑った。