夏の日
初の三部作になりました。どうぞお読み下さい。
頭の中が散らかっちゃって、夕飯の準備ができません。
先程、貞子のケイタイに送ったメールの文章を頭の中で反芻すると、つぐみは食卓の椅子に腰を下ろし、溜め息を吐いた。
浴室を掃除した辺りまではまだ良かった。頭をこんがらかせながらも、手はブラシをつかみバスタブを磨いてくれた。けれど夕飯の支度をしようと冷凍庫を開けた途端、つぐみは頭の中が溢れ返るのを感じた。あらかじめ冷凍保存しておいた、鮭の味噌漬けやらハンバーグやら茹でた小松菜やらの食材の情報を、頭がキャッチするのを拒んだのだった。
何を作ったら良いのか分からない。つぐみは途方に暮れ天井を仰いだ。こんな気分になったのは初めてだった。今までにも食事作りが億劫になったことはあったけれど、こんな風に、脳が食材の情報を捉えることを拒否したのは初めてだった。
頭の中が散らかっていると思った。大人と子供が散らかっているだけじゃない。もっと色んな沢山の物が散らかっている。片付けたい。不要な物を捨てたい。頭が爆発してしまいそう。
その時、玄関の鍵が開く音がした。つぐみは走って玄関まで貞子を出迎えた。息せき切って出迎えに来たつぐみを見て、貞子は
「何だ。頭の中が散らかってるとかいうから何か落ち込んでるのかと思った。元気じゃん」
とのん気に笑った。
「元気じゃないの。頭ぐちゃぐちゃなの。伯母さん助けて」
「ちょっと待ってよ。サンダル脱ぐから」
「脱ぎながらでいいから、話聞いて」
慌てるつぐみに、貞子はマスカラを丹念に塗った目を丸くすると、少しつぐみの頭を冷やさせようと考え
「随分急いでるのねえ。伯母さんまだこれからバッグ二階に持って行くわよ」
と階段を上りかけた。
貞子が背中を向けたことで、不意につぐみに勇気が生まれた。つぐみは階段を上る貞子の背中に向かって
「伯母さんあたしって、ママが強姦されてできた子なのよね?」
と尋ねた。
貞子は階段を上る足を止めると、ゆっくりと振り向いた。その顔には驚愕が張り付いていた。貞子は薄く形の良い唇を震わせ
「誰に、聞いたの」
と尋ねた。
「伯母さんが言ったんだよ。先月酔っ払って帰って来た日に。やっぱ覚えてないんだ」
「……もしかしてツッタンが、三日学校休んだ前の晩?」
「そう」
貞子は二階に行くことを諦めると、階段を下り居間のソファーに腰掛けた。こんな時なのに貞子は、ああパンツがシワになると考えていた。今つぐみに突きつけられた質問から心が逃避したがっていた。けれど貞子の体が貞子をここへ運んだのだ。もしかしたら心よりも体の方が誠実なのかも知れないと、貞子は思った。
貞子はつぐみにも座るよう促すと
「そうか。酔ってたとはいえ申し訳なかったね」
とうなだれた。
あの日は銀行で、貞子が課長代理に昇格したことをねたむ先輩社員が、自分の陰口をたたいているのを聞いてしまい、いつになく深酒をしてしまったのだ。それなのに仕事とは無関係な正子の件が、口をついて出たのはどういう訳か。正子が強姦された事実が自分にとって深層心理に食い込む傷だからか。だから嫌なことが起きた時にその傷が共鳴し、記憶を呼び覚ますのか。
整った顔を、これ以上ない程に歪めながら自問する貞子の姿を見て、つぐみはああ確定的だと思った。これまでつぐみは頭のどこかで、自分が強姦によって生まれたなどということは酔った貞子の生み出した妄想で、自分はその戯言を、気に病んでいるだけではないかという希望的観測を持っていた。けれど貞子の態度によって、それは事実なのだとつぐみは悟った。
「言っちゃった言葉はもう取り消せないからいいの。それより教えて。ママはどうしてあたしを生んだの? どうして堕ろさなかったの?」
「正子は運命論者だったのよ。どんな過程であれ、自分の子供がお腹に宿ったんなら生むことが運命だって考える子だったの」
「おじいちゃんたちは、反対しなかったの」
つぐみは優しかった祖父母のことを思い出しながら尋ねた。祖父母も自分の呪われた出生を知って尚、自分を愛していたのだろうか。
貞子は遠くを見るような目つきをすると
「おじいちゃんたちは強姦のこと、知らなかったからねえ」
と何かを諦めたような口調で答えた。もしも知っていたならば、彼らはおそらく何が何でもつぐみを堕ろさせたに違いなかった。
「じゃああたしが強姦で生まれたって、知ってるのは誰?」
「この世では、伯母さんとツッタンだけ」
「あたしの……、父親は? 知らないの?」
つぐみは一瞬、彼のことを何と呼んだものかと言いよどみながら尋ねた。母親のことはママと呼んでいるのだから、父親はパパであるはずだった。事実それまでつぐみは自分の見たこともない父親のことをパパと呼んでいた。けれど強姦の事実を貞子が認めた今、つぐみは彼をパパと呼ぶことに、抵抗を覚えた。
つぐみの問いに、貞子は果たしてどこまで話したものかと迷いながら
「ツッタンが生まれる前に死んじゃったから、ツッタンが生まれたことは知らないよ」
と乾いた声で答えた。
「ホントにあたしの父親は、あたしが生まれる前に死んでたの?」
「そう。ツッタンのパパとママが結婚してたっていうのは嘘だけど、パパがツッタンの生まれる前に死んだのはホント。ママがツッタン生んですぐ死んじゃったのもホント。でもツッタンのパパの両親が死んでるってことと、パパが一人っ子っていうのは出任せ。本当は伯母さんは、ツッタンのパパのことよく知らないの」
「あたし……、父親がホントに死んでるなんて思わなかったから、もしかして縫ちゃんのパパが、自分の父親なんじゃないかと思ってた」
思いもよらぬつぐみの告白に、貞子は「どういうこと」と固い声を出した。一体なぜ強姦の事実が西海とつながるのか、貞子にはさっぱり分からなかった。
「あたしママに似てないでしょ。縫ちゃんもパパ似だし。それで皆があたしと縫ちゃんのこと似てるって言うから、ひょっとしたら縫ちゃんのパパが、あたしの父親かも知れないと思って、伯母さん知らないで付き合ってたらどうしようって思ってたの」
ようやくつぐみが告白を搾り出した。貞子は「そうかなあ」とつぶやいた。
「ツッタンと縫ちゃんて、似てるかなあ」
「えっ、伯母さんは似てると思わない?」
これまで縫と似ているという評価に、異を唱えた者に出会ったことが無かったつぐみは、心底驚いた。もちろん自分でも似ている自覚は無く、周囲の声に、翻弄されて似ているのだと思い込むようになったのは確かだが、実は自分は縫に似ていないのだろうか。
つぐみが考え込んでいると、貞子は
「確かにパッと見は似てるけど、でもパーツをじっくり見ると似てないよ。鼻の線とか唇や耳の形とか全然違う。同じ遺伝子には見えないよ。目元がちょっと似てるから、皆は『似てる』って言うんでしょ。人は目元で判断するから」
と冷静に答えた。
「伯母さん、随分じっくり観察してるね」
「縫ちゃんが初めてうちに来た時、何だか知ってるような顔だなあと思って、それでチラチラ見たのよ。後で考えてみれば、西海の娘なんだから知ってるような気がしたのも当たり前なのよね。あの子は西海に生き写しだから」
そう答えながら貞子は、縫が西海に似ているおかげで、自分はどれだけ救われただろうと考えた。もし縫が西海の亡き妻の面影を宿していたら、自分は縫に亡き妻の姿を感じて耐え難かっただろうと思う。妻がいたことを承知していたとはいえ、恋人の娘に亡き妻が伝えたかんばせを認めることは辛い。
貞子が西海の妻に思いを馳せていると、つぐみが言いにくそうに
「あのね、伯母さん」
と言った。「なあに」と貞子は答えた。
「あたし縫ちゃんのパパが、自分の父親かも知れないって思ってたから、縫ちゃんのパパのこと憎んでたの」
「あら」
「そしたら縫ちゃんのパパが、階段から落ちたり車に十円ビームされたり、チンピラに絡まれたり事故ったりしたの。それでナエミンが、誰かに恨まれてるんじゃないかって言ったの。誰かが誰かを恨むと、その恨みのパワーで恨まれた人に不幸が起こるんだって言ったの。ねえ伯母さん。縫ちゃんのパパに次々と色んなことが起こったのは、あたしが縫ちゃんのパパを、憎んでたせいかな」
不安そうに尋ねるつぐみを、貞子は可愛く思った。実際に犯した罪すら反省しない者もいるというのに、この子は自分の心が犯した罪にすら心を痛めている。
貞子はつぐみの若さゆえの純粋さを好ましく思いながら
「ツッタンのせいじゃないわよ。階段から落ちた時も事故った時も、あの人酔っ払ってたのよ。十円ビームは誰の仕業か分かんないし、チンピラに絡まれたのも理由は分かんないけど、少なくとも階段から落ちたのと事故はお酒のせい。ツッタンは何も悪くないわよ」
と微笑んだ。
「そうなんだ。お酒って怖いね」
「怖いわよ」
「お酒のせいで伯母さん、あたしが強姦されて生まれたって言っちゃうしね」
つぐみの何気ない一言に貞子は大いに反省した。本当はその秘密は、棺まで持って行くつもりだったのだ。
貞子は罪悪感に駆られながら
「ごめんね。ホントは黙ってるつもりだったんだけど」
と謝った。中学生の身で自分が強姦によって生まれたなどと知り、つぐみはどれだけ辛かっただろう。
「伯母さんがあたしに対して、悪いって思うだろうと思ってたから、あたしも伯母さんにそのこと言うのやめようって思ってたの。伯母さん忘れてたみたいだったし」
「うん。申し訳ないけど綺麗さっぱり忘れてた」
「でもそのこと聞いてから、そのことに関連して色んなことがいっぱい起きて、もう黙ってるのが辛くなっちゃったの」
そう打ち明けながらつぐみは、少しだけ心が軽くなっているのを感じていた。口にしてはならないとは分かっていても、秘め事を持ち続けるのはやるせない。もしかしたら貞子もずっと、悩ましい思いを抱いていたのではないかと思う。自分の出生の秘密を一人で背負い、悶々とした日々を送っていたのではないかと思う。だとしたら自分がそれを知り貞子に話したことは、ある意味貞子を救うような気がした。
だが貞子は、つぐみの言葉にドキリとしていた。「そのことに関連して色んなことがいっぱい起きて」とは何のことだろうか。このことを知る者は、今や自分とつぐみの他にはいないはずなのに。
貞子はおびえながら
「色んなことって、西海に起きたトラブル以外にも何かあったの」
と尋ねた。自分が口をすべらせてから、知らぬ間に一ヶ月以上の月日が流れていたことが貞子には恐怖だった。
「あ、その前に伯母さんの彼氏を憎んでてごめんなさい」
「ああそれはいいのよ。西海とはもう別れたから」
「え、何で?」
驚くつぐみに、貞子はしまったと思った。つぐみの言う「そのことに関連して色んなことがいっぱい起きて」について聞こうと思っていたのに、つい余計なことを口走ったばかりに話が脱線してしまった。しかし貞子はすぐに仕方が無いと諦めた。西海と終わったことは、遅かれ早かれつぐみには話さなければならなかったのだ。何しろ西海の娘はつぐみと仲が良いのだから。
貞子は観念すると
「看護師とキスしてたのよ。あいつ」
と憎々しげに言い放った。つい数日前に自分の口元に押し当てられていた唇が、同じベッドの上で他の女の唇を愛撫していた事実に、貞子は頭に血が上る思いをした。
「いつ?」
「一週間くらい前かな。だからいいのよ。あんな奴憎んでも。むしろ伯母さんの代わりに憎んで欲しいわ」
「伯母さん……、縫ちゃんのパパのこと憎らしい?」
ああだから貞子の部屋は散らかっていたのかと考えながら、つぐみは尋ねた。恋人と別れたショックから貞子は怠惰になり、自室の片付けを怠っていたのだ。
つぐみの質問に、貞子はちょっと考えてから
「そうね。憎いわよ。再会してから一ヶ月ちょっとだっていうのにもう他の女に手出すんだもん。でも少しスッキリした気分もあるな。これでようやく昔の恋に区切りがついたというか。あの時は距離のせいで別れることになったと思ってたから、どっかで心の区切りがついてなかったのよね。伯母さんがずっと結婚しなかったのは、もしかしたらそのせいかも知れない。だからね西海に浮気されて、それでやっと心が自由になったような気もするのよ。もしかしたらこれから、本当の恋愛ができるかも知れないって気もするのよ」
と晴れ晴れとした顔で答えた。その生き生きとした表情を、つぐみはとても羨ましく思った。
「伯母さんて強いなあ。あたしの好きな人もすごく気が多いって今日知ったんだけど、あたしはとても、スッキリした気分になれないや」
「……中学生が気が多いってどういうこと?好きな子が沢山いるの?」
「根野君ていう男子なんだけど、昨日ひずるちゃんて子に告って振られたらしいの。それなのに今日あたしに告ってきて、あたしがちゃんと返事しない間に、縫ちゃんに告られて、それであたしに告ったこと取り消してきたの」
こうして言葉に表してみると、根野はつくづくいい加減な男だとつぐみは思った。縫の父親といい根野といい男とは何といい加減なのか。いや誰よりも悪い男は自分の父親だ。つぐみは今更ながらに、父親の血をひく自分に嫌悪を覚えた。
つぐみが落胆していると、貞子は
「あらやだ。ツッタンと縫ちゃんて恋敵だったの」
と微笑みながら尋ねた。つぐみの複雑な心中を知らない貞子にとっては、仲の良い後輩と男を取り合う羽目に陥ったつぐみの姿しか、想像できなかった。
「恋敵じゃないよ。あたし縫ちゃんのこと応援してたから」
「どうして? その根野君のことツッタンも好きだったんでしょ?」
「好きだったけどでもあたし縫ちゃんのことも好きだから、縫ちゃんのこと応援して、縫ちゃんにあたしのこと好きになって欲しかったし、あたしが恨んでたせいで、縫ちゃんのパパが入院したのかなって思ってたから、罪滅ぼししたかったし、それにどうせ強姦で生まれたあたしなんて、根野君が好きになってくれるはず無いって思ってたし、だからどうせ根野君が、あたし以外の人と付き合うなら、あたしに顔の似てる縫ちゃんにして欲しいと思ったの」
そう言って肩を落とすつぐみを見て、貞子はようやく、つぐみの言う「そのことに関連して色んなことがいっぱい起きて」を理解した。つぐみはただ一人で、自分の心と戦っていたのだ。
貞子はつぐみを憐れみながら
「ツッタンが強姦で生まれたってことを、根野君は知らないでしょう?」
と優しく尋ねた。知られていないコンプレックスを苦にして、恋を諦めようとしていたつぐみが不憫だった。
「知らないけどでも、事実は事実でしょ」
「ツッタン。ツッタンは若いから男女の恋愛を神聖視しすぎてるのよ。強姦なんて夫婦の間でも起こるのよ? ちゃんとした夫婦だって、その都度お互いの了承を得て愛のあるセックスしてるなんて限らないの。そうやって生まれた子なんて、世の中にゴマンといるのよ。だから自分が強姦で生まれたからって全然コンプレックスに思うこと無いのよ」
「そうなの?」
確かに自分は恋愛を神聖視しすぎていたかも知れないと考えながら、つぐみは尋ねた。例えば浮気一つにしても、そんなことをする人は特別な悪人だと思っていたが、貞子の恋人がつい一週間前にしたという。そして自分の焦がれていた根野にしても、あまりにも節操が無さ過ぎる。
ひょっとしたら世の中というものは、自分が考えていたよりも、軽いのではないだろうか。夫婦や恋人の愛というものは、もっとしっかりしたものだと思っていたが、ひょっとしたらもっと、軽くてゆるいものなのではないだろうか。
自分の中に構築していた世界と、実際の世界の感触の狭間で揺らぎながら、つぐみが考え込んでいると、貞子は
「そうよ。大体今なんて四組に一組が離婚してる時代なのよ。その時愛のあるセックスをしたと思って生まれた子だって、後になってみれば、あれは本物の愛じゃなかったって思われちゃうのよ。本当の愛によって形成される人間なんて実はすごく少ないの。だからツッタンは、自分の生まれにコンプレックス感じる必要全然無いの」
とまくし立てた。
「でも本当の愛によって生まれる人がすごく少ないなんて、何だか悲しいね」
「恋愛って難しいからね。惚れた当初は、自分にとって都合のいいことしか信じようとしないし。それで月日が経って、ようやく相手の欠点を認識して耐えられなくなって別れてなんてケースは、世の中にいっぱいあるからね」
「縫ちゃんも今、自分にとって都合のいいことしか見えてないかも知れない。根野君が昨日、ひずるちゃんに振られたこと教えてあげたのに、縫ちゃんは自分の好きな人のことを信じるって言うの」
貞子の話を聞いて、つぐみは不意に不安になってきた。あれから縫からは連絡が来ていない。根野は一体何と言って縫に釈明したのだろうか。
つぐみが縫のことを気に病み始めていると、貞子は
「ツッタンが告白されてすぐ取り消された話は、縫ちゃんにしてないの」
と尋ねた。さすがにその話をすれば縫も真実に気付くような気がした。
「縫ちゃんが自分の好きな人を信じるって言ったから、言うだけ無駄かなと思って言わなかったの。下手なこと言って、逆恨みされるのも嫌だったし。でもあたしずるかったかな。縫ちゃんに嫌われるの覚悟で言うべきだったかな」
「もし相手が縫ちゃんじゃなくて、ナエミンだったらどうした?」
「ナエミンにだったら言ったと思う。ナエミンはそんなことで、逆恨みする人じゃないから」
その時つぐみはあっと思った。逆恨みをあれだけ心配していたのは、縫は逆恨みをする子かも知れないという思いが、心のどこかにあったからだ。自分は縫と仲良くなりたいと思い根野との恋を応援していながらも、縫を心のどこかで信頼していなかったのだ。
縫に対する自分の思いを確認しつぐみが愕然としていると、貞子は
「だったらいいんじゃないの。縫ちゃんとは知り合って一ヶ月ちょっとだし、まだ信頼関係が築けてるとは言えない段階でしょ。半端な人間関係の時は、迷った時は口をつぐんでるのが賢いやり方よ」
と大人の意見を言った。
その時つぐみはふと思い当たり
「ねえ伯母さん。あたしの名前って誰がつけたの?」
と尋ねた。貞子はぎくりとしたが顔には表さず
「正子がつけたのよ」
と嘘をついた。
「何で、つぐみってつけたの」
「正子が女の子の名前はひらがなが可愛いからって、生まれる前から考えてたのよ」
「そっか。あたしはてっきり強姦によって生まれたから、その件に関して口をつぐんでろって意味でつけられたのかと思った」
図星だったため、貞子は思わず不自然な笑い方をした。その名前は本当は貞子がつけたのだ。正に今つぐみが想像した通りの謂れで。
後ろめたさから思わず貞子はつぐみを抱きしめた。その感触に、つぐみはふと母親のことを思い出した。自分を生んで間も無く他界した母に、抱かれたことがあるのかどうかは分からない。けれどシャツ越しに感じた貞子の柔らかな皮膚と温かい体温は、母親のそれである気がした。
貞子はつぐみを抱きしめたまま
「ツッタンは一ヶ月以上もずっと、一人で苦しんでたんだねえ」
とつぐみをねぎらった。つぐみは目をつむったまま、貞子の言葉に耳を傾けていた。何だか甘く心地好い匂いがした。
「縫ちゃんのパパのことを恨んだり辛かっただろうねえ。ツッタンがぐれなくて、ホントに良かった」
「ぐれるって、どういうこと」
「そうねえ。髪を染めたりパーマをかけたりピアスを空けたり」
昭和時代に中学生生活を送っていた貞子は、とりあえず当時のスケ番像を想起しながら答えた。あの当時は服装の乱れは心の乱れと言われたものだ。
つぐみは何だかピンと来ないまま
「それは高校生になってからでいいよ。あたしまだ似合わないし」
と答えた。貞子のピアスの大人びた輝きは、まだ十三歳のつぐみには不釣合いなものだった。
「あとは学校や、部活をサボったり」
「だって大学まで行かせてくれるって言われてるのに、学校サボったら困るでしょ。部活だってあたしが行かなきゃ、縫ちゃんに教える人誰もいないし」
「でもぐれる人っていうのは、周囲の迷惑考えないで好き勝手するものなんだよ」
貞子の答えにつぐみは、あたしは多分ぐれるという直接的な行動を取る代わりに、縫の父親を恨むという選択をしたんだろうなと、漠然と思った。そのどちらが望ましいことなのかは分からないけれど、縫の父親を恨んだ件は後味が悪かった。もうあんな陰湿なことはすまいと思う。
つぐみがそう決意していると、貞子は
「ツッタンが良い子でホントに良かった。辛いことがあっても道をそれないことは、本人にとって宝だよ。偉い偉い」
とつぐみの頭をくしゃくしゃと撫でた。本当に自分は、道をそれなかったのだろうかとつぐみはいぶかしんだが、貞子の機嫌が良いならそれに越したことは無く、貞子のするがままに任せていた。
貞子はしばらくつぐみを可愛がると
「さあて遅くなっちゃったけど、ご飯作るかな」
と立ち上がった。
「え、今日当番あたしなんだからあたしが作るよ」
「いいって。今日は伯母さんが失言のお詫びに作るから。ツッタンはお風呂入っちゃいなさい」
「はあい」
返事と共に、つぐみが浴室に消えていったのを確認すると、貞子は流し台に寄りかかってフウッと息を吐いた。とりあえず父親の死因をつぐみに尋ねられなかったのが、不幸中の幸いだった。
父親は実は正子が殺したのだ。とはいえ直接手を下した訳ではない。父親は交番に勤める警官だった。それを知っていたから、正子は来る日も来る日も交番に通い、交番前の道端の窓ガラス越しに彼と目を合わせては、意味ありげに腹を撫でてみせた。その腹が次第にふくれてゆく様を見て追い詰められた彼は、拳銃自殺をしたのだった。
今思えばそれは、正子なりの復讐だったのかも知れない。だが正子は彼が自殺するとまでは考えていなかったようだ。彼が自殺した後、正子は切迫流産になりかかり絶対安静の中で早産でつぐみを産み落とし、そして死んだ。
こんな話を、なぜつぐみにできるだろうか。それでも正子がつぐみを堕ろさなかったのは、復讐のための手段だけではなかったと、正子の心のどこかには母性本能もあったのだという貞子の希望的観測には、何の根拠も無いのだ。けれどいずれつぐみに父親の死因を尋ねられる日は来るだろう。その日何をどこまで話すべきか、貞子は考えておかねばならない。
浴室から湯を使う音が漏れてきた。はちきれんばかりの十三歳の肌は、流れる湯を肌にぐずぐずとまとわりつかせるようなことはせず、弾くように流してしまうことだろう。けれどつぐみに全てを打ち明けなかった貞子は、心にすすぎきれないしこりを残していた。いっそ全てを洗い流してしまえれば良いのにと思う。しかしそれはできない相談だ。それが人を育てるということなのだから。
貞子は深呼吸をして気持ちを整えると、冷蔵庫を開けた。手早くできて成長期のつぐみにとってふさわしい旬の食材はどれだろう。冷蔵庫の中を眺めながら貞子は、先程のやり取りもこういった日常の行為も全て、人を育てるということなのだなと、しみじみと考えた。
とびっきりの太陽の下の、夏休み中の市民プールは、水着と水しぶきでごった返している。つぐみは人の間を縫うようにしてクロールで泳いでいた。
やっぱり学校のプールの方が良いと思う。学校でなら飛び込みができるから、飛び込んでから水面に浮かび上がるまでの、不思議な浮遊感を堪能することができるし、人の間を掻き分ける必要も無いから、泳ぎに集中できる。賑わった市民プールでは五十メートルを泳ぐのがせいぜいだ。
つぐみは肩で息をすると、泳ぎで疲れたのやら、人で疲れたのやら分からないと思いながらプールから出た。1コースではまだ縫が平泳ぎをしている。綺麗な形で平泳ぎをする縫を見ながらつぐみは、似てないとこあったじゃんと考えていた。つぐみはクロールは得意だが、平泳ぎでは二十五メートルすら泳ぐことができない。
プールサイドで体育座りをしながらぼんやりしていると、プールから上がった縫が近づいてきた。スポーツ用の水着の胸が、水を滴らせながらたわわに揺れている。似てないとこあったじゃんとつぐみは再度考えながら、体を少し前に倒し貧弱な胸を隠した。
「駄目ですねえ。混んじゃって」
と言いながら縫はつぐみの横に座った。「全くね」と膝小僧にあごをくっ付けたまま、つぐみは同意した。つうと水滴が首筋を走りつぐみはひやりとして身を固くした。
しばらくつぐみと縫は黙って目の前の景色を眺めていた。歓声の中、人々が泳ぐ様や、映った入道雲が乱され散り散りになっていく眩しい水面を眺めていると、現実から浮遊しているような気分になってくる。これはありふれた夏の日だ。どこにでもあるようなありふれた夏の日。
その時突然、縫が
「先輩の伯母さん、パパと別れたそうですね」
と言い出した。現実の世界に呼び覚まされたつぐみは縫の方をチラッと見ると
「そうみたい。これで縫ちゃんも一安心でしょ」
と嫌味に聞こえないように、声のトーンを工夫して答えた。
「安心じゃないですよ。もう新しい女がいるんですから」
「そうだったね。看護師さんだっけ? その人と始まったから伯母さん別れたんだよ」
「いえ看護師さんとはもう終わっちゃって、今は検査技師の人と付き合ってます」
あまりのめまぐるしさにつぐみが口をポカンと開けると、縫は
「実はうちのママって、病気で亡くなったって言いましたけど、それって半分ホントで半分嘘なんですよね。ママは自殺したんです。パパの浮気があんまり酷かったから鬱病になってそれで」
と淡々と説明した。
つぐみは目を見開くと
「縫ちゃん、ショックだったでしょう」
と縫をいたわった。自分の親が自殺などしてしまったら、どれだけ衝撃を受けることだろうと思う。
「ショックでしたよ。だから縫パパに再婚して欲しくなかったんです。散々恋愛して楽しんでその挙句ママを死なせておきながら、違う人と結婚するなんて、ママがあまりに可哀想って思ったんです。それでパパに言ったら、『女を整理するために転勤願い出す』って言ってそれで引っ越すことになって。それなのに引越し先の昔の女と復縁なんて、何考えてんだか分かんないですよ。だから先輩の伯母さんのこと反対したんですけど、結局その後、看護師、検査技師って続いて何だかもうどうでも良くなっちゃいました」
「パパが再婚しても、いいってこと?」
縫は悪い子になってしまうのだろうかと心配しながら、つぐみは尋ねた。父親を再婚させないために悪い子にならないと言っていた縫が、父親のことをどうでも良くなった今、縫は悪い子になってしまうのだろうか。
つぐみが不安な目で縫を見詰めると、縫は
「いえ、これだけサイクルが短いこと考えると、おうちの中さえがたついてなければ再婚はしばらく無いのかなあって気がして。考えてみればママがいた間も、パパの浮気相手はしょっちゅう入れ替わってたんですよね。それにパパ、ママが亡くなってからもマリッジリングは外さないし、ママのこと苦しめてはいたけど、でもパパにとってママは特別な存在だったのかなって気がして。だったら特別な相手って、そうそう出てこないんじゃないかなみたいに思って」
と疲れた顔で答えた。父親に恋人ができる度にやきもきすることに、縫はくたびれたのだった。
「でもその考えに行き着くまでは、大変だったでしょう」
「大変でしたよ。一人で散々悩んで出した結論です。根野先輩は全然、縫の悩み聞いてくれないし」
「えっ、根野君て結構冷たいね」
つぐみは根野の彫刻刀で彫ったかのような、鋭利な表情を思い起こした。あのシャープなかんばせが、触れたら凍傷を起こしてしまいそうな、冷たい雰囲気が好きだった。けれど本当に冷たい男などごめんだと、つぐみは思った。
根野の冷酷な無関心さにつぐみが悪寒を覚えていると、縫は
「本当に冷たいんですよ。あの男は。灰原先輩のこと聞いた時もすっごい不機嫌になっちゃうし。縫の不安な気持ち全然考えてくれなくて。それで縫の悩みは聞いてくれないわ、根野先輩が灰原先輩に告ったって噂、よそからも聞くわでもう嫌になっちゃって、昨日別れました」
と忌々しげに言い放った。
「別れたんだ」
「別れました。根野先輩て、つぐみ先輩と仲いいくらいだから、も少しマシな男かと思ってたんですけどね」
「別に仲良くないよ。席が隣だからしゃべるだけで」
否定しながらつぐみはそうか別れたのかと考えていた。縫が根野と別れたのなら、根野の告白を、再度検討することもできるのだと思った。根野ははっきりしないつぐみに業を煮やし好意を寄せてきた縫と付き合い始めたのだから、縫が去った以上、再びつぐみは土俵に上がれる可能性が生まれたのだった。
けれどつぐみの心は冷えていた。いつの間にか根野に焦がれる気持ちは消えていた。
目の前の、生まれては消える水しぶきを眺めながら、つぐみが恋のはかなさを味わっていると、縫が
「そうなんですか? 縫もしかしたら根野先輩は、つぐみ先輩のこと好きなんじゃないかって思ってました」
と言い出した。
つぐみはドキリとして縫の目を見詰めたが、やがて視線をそらすと
「告白はされたよ。縫ちゃんが根野君に告る何時間か前に」
と打ち明けた。もう縫が根野と別れたのなら言ってしまっても良い気がした。
「えっ、今までどうして教えてくれなかったんですか」
「縫ちゃんが、自分の好きな人を信じるって言ったから」
「だって縫、つぐみ先輩のこと好きですよ」
縫の言葉につぐみは沈黙した。水を弾く音に混じって人々の歓声が聞こえる。しばしの時間が流れた。やがてつぐみは
「じゃああの時、ひずるちゃんのことを教えたあの時、あたしがそう言ってれば縫ちゃんは信じたってこと?」
と尋ねた。
「信じました。……根野先輩ともすぐに別れたと思います」
「じゃああたしのせいで、縫ちゃんは根野君とすぐに別れられなかったんだ」
「いいんです。縫、彼氏って欲しかったから。いいんです。それは。でも……、教えて欲しかったです。縫、つぐみ先輩が直接告られたって言うんなら信じたから。灰原先輩のことはつぐみ先輩の又聞きだったから信じられなかっただけで、先輩が直接告られたって言うんなら、信じられたから」
そうだったのかとつぐみは思った。縫は自分を好いてくれていたのだ。それなのになぜ自信が持てなかったのだろう。自分が強姦により生まれたからか。だから自分に自信が持てなかったのか。
つぐみはまぶたを閉じた。脳裏に写真でしか知らない母親の姿が浮かぶ。見たことのない父親の姿が浮かぶ。
バイバイ、ママ。バイバイ、パパ。あなたたちがどうやってあたしをつくったのかあたしには関係ない。あなたたちがあたしの出生を望んでいたかなんてどうでも良い。どんな事情があったにしろ、あたしは生まれちゃったんだもの。だったらどうせなら楽しく生きるわ。
つぐみは縫の顔を見た。濡れた眉毛がうねって、張りのある目の上にぺったりと張り付いている。つぐみとは違ううねり方だった。ここにいるのはつぐみと血のつながらないつぐみの後輩だった。
つぐみは縫を愛しく思いながら、
「ごめんね。でも信じてくれるのは嬉しいけど好きだから信じるってどうだろう。好きな人だって、自分に嘘つくかも知れないよ」
と言った。妹ではなくても血がつながっていなくても縫はつぐみの可愛い後輩だった。
「それは今回感じました。根野先輩も最初は灰原先輩に告ってないって言ってたし」
「自分の好き嫌いの感情じゃなくて、信用できそうな人を、信じた方がいいんじゃないかな」
「でも誰が信用できるかとか考えるのって、難しそうですよね」
縫が困った顔をすると、つぐみは
「これからでしょ。あたしたちは。これからいっぱい色んな人に関わって見る目つけていくんだよ」
と笑った。
「その過程できっと、いっぱい傷付きますね」
「でも多分、人はそうやって勉強してくんだよ」
「縫、分かんないことだらけですよ。例えば根野先輩はどうして、急に恋に目覚めたのかとか」
縫の疑問を背中で受けながら、つぐみは立ち上がると
「知らない。夏だからじゃないの」
という言葉を残してプールに足から飛び込み、水を大量にすくって、プールサイドの縫にかけた。
「ひっどーい。何するんですか」
「嘘つき男と、付き合ってた罰」
「何ですか。それ。意味分かんない」
叫びながら縫もプールに飛び込んだ。二人は笑い声をあげながら水をかけ合った。きらめく水しぶきがひんやりと綺麗だった。水しぶきの向こう側で、歓声を上げる人々が愛しかった。頭上で輝く真夏の太陽がありがたかった。
つぐみは幸せだと思った。ありふれたこの夏の日を幸せだと思った。
二年前に執筆した作品です。当時は随分、残酷なものを書いていたんだなと読み返しながら思いました。
作品にしてしまうと忘れてしまうこともあるけれど、思いついたということは、私の中にこういう残酷さがある訳です。こうやって形になったものを読み返すことは、忘れていた残酷さを突きつけられたような気分です。