女たちの恋
父親の病室に入った途端、縫が驚きのあまり花瓶を落としたのは、なぜなっだのか。勘の良い方ならお分かりでしょう。
この時の縫の動揺がその後、波紋を広げる第2話です。
病院前のバスの停留所で、つぐみは貞子と二人バスを待っていた。ベンチの上には日よけがついていたものの、初夏の勢いを持つ太陽は容赦なく地面に照りつけ、その反射が二人の体を火照らせていた。
つぐみたちの他にも二人程、隣のベンチに腰かけている者がいたが、こちらは連れではなさそうだった。八十がらみの老婆が、暑さにうだるような様子でぼんやりと座っている横で、隣の中年男はスポーツ新聞に真剣に見入っていた。
しばらくして貞子が
「縫ちゃん、怒ってたねえ」
とつぶやいた。つぐみは
「うん。カンカンだった」
と答えた。
貞子はカゴ型のバッグから扇子を取り出すと
「どうしてあんなに、怒ったのかしらねえ」
とおっとりと尋ねながら扇ぎ始めた。
よく見ると今日の貞子は、藤色のワンピースをまとい、胸には首筋の美しさを強調するような大ぶりのべっ甲のネックレスを垂らしている。見舞いに来たはずだというのに、そのいでたちには、怪我人を見舞うというよりは、男と逢引をする女の浮き立つ心が匂っていた。
ポロシャツにデニムスカートという軽装で、伯母の隣に腰掛けていることに、つぐみは何とも気詰まりな思いに駆られながら
「そりゃだって伯母さんが、縫ちゃんのパパとキスしてたから」
と小声で言って顔を赤らめた。
テレビや映画の画面を通さずに、人のキスシーンを見たのは、つぐみはこれが初めてだった。しかも相手が自分の身内とあっては気恥ずかしさが体中を駆け巡る。
「だって付き合ってるんだから、キスしたっていいじゃない」
「でも娘の身としては、突然自分のパパが、よその女とラブシーン繰り広げてたらショックだと思うよ。しかもその相手が面識ある伯母さんだった訳だから」
「そう? 素性の分からない女がパパの唇奪ってたんなら、びっくりするかも知れないけど、知ってる相手なんだからいいじゃない。ツッタン縫ちゃんと仲いいんでしょ?」
貞子の楽天家振りに、つぐみは心底驚いた。大人というものは中学生の繊細な心を全く理解していないのだろうか。いくら小中学生が売買春をする時代とはいえ、そんなことをしているのは、全体の数パーセントだ。貞子にだって中学生だった時代があったはずなのに、年齢を重ねる内に、思春期の潔癖さというものは忘れ去られてしまうものなのだろうか。
つぐみはすっかり貞子に呆れながら
「伯母さん知らなかったの? 自分の彼氏が縫ちゃんのパパだってこと」
と尋ねた。別に事前に知っていたからといって悪いということはないのだが、しかしもし知っていたのなら、つぐみに一言あっても良いはずだった。
「知らないわよ。ツッタン縫ちゃんの苗字、伯母さんに言わなかったじゃない。縫ちゃんが転入生だってことも」
「じゃあ縫ちゃんのパパも、知らなかったのかな」
「知らなかったんじゃないの。知ってたらさすがに言ってくるわよ」
貞子は答えながらやれやれと思っていた。まさか北中に転入したという西海の娘が、姪の後輩の縫だったとは、思ってもみなかった。言われてみれば確かに縫は西海によく似ているが、そんなことは改めて考えてみなければ分からなかった。
つぐみは「そう」と答え、しばらく迷った後
「縫ちゃんは、元々パパの再婚に反対みたいだよ」
と 言った。遅かれ早かれ分かることなら、早めに伝えておいた方が貞子にとっては良いだろうとつぐみには思われた。
「反対なの? 何で?」
「何でかは知らないけど、それが普通の子供の気持ちなんじゃないの」
「ツッタンは、伯母さんが結婚するの反対?」
つぐみは思わず黙り込んだ。今までなら貞子の結婚に反対する気は毛頭無かった。縫の父親は稼ぎも悪くなさそうだから、つぐみは約束通り進学をさせてもらえそうだし、縫父娘と同居することになれば、貞子が仕事を辞めようと続けようと、確実に家事の負担は減る。だが縫の父親はひょっとしたら母を犯した相手かも知れないのだ。そんな男と家族になったりして、果たして良いのだろうか。
だがつぐみはこうも考えた。もし縫の父親と家族になれば、縫の父親が本当に母を犯した相手なのかどうか探り易くなる。けれどそんな動機で、人と家族になったりして良いのだろうか。もし縫の父親が本当に強姦魔だったとしたら、貞子は妹を犯した相手と結婚することになるのだ。それは何と歪んだ家庭だろう。
つぐみは今こそ自分は、自分の出生の秘密を貞子に問いただすべきだと思った。伯母さんあたし聞いちゃったの。伯母さんが酔っ払って言ったこと聞いちゃったの。あたしのママを犯したのは、ひょっとして縫ちゃんのパパじゃないの?
しかしその時、隣の中年男が立てたスポーツ新聞をめくるバサリという音が、つぐみを我に返らせた。このような話は公共の場でするのにふさわしくない。小声でキスをテーマにひそひそ話をするのがぎりぎりだ。
そこでつぐみは
「あたしの気持ちより、まずは伯母さんの気持ちでしょ? 伯母さんは縫ちゃんのパパと結婚するつもりなの?」
と質問をかわした。
「そのつもりは無いよ。縫ちゃんがそれだけ反対してるんなら、無理に結婚したって面倒臭いし」
「じゃあ縫ちゃんが、賛成に回ったら?」
「そしたらそれから考える。実は縫ちゃんのパパとはさ、十四年前に付き合いがあった訳。向こうが北海道に転勤になってご破算になっちゃった仲なんだけど、再会して付き合い始めてから、はまだ日が浅いのよ。だからそう焦ることはないしね」
貞子ののん気な返答につぐみは面食らった。一体貞子は、自分をいくつだと思っているのだろう。つぐみは呆れながら
「じゃあ縫ちゃんがずっと反対してたらどうするの? 伯母さん一生待ち続けるの?」
と尋ねた。いくら若く見えるとはいえ貞子はもう三十五なのだ。
「いやそんな長いこと待つ必要は無いと思うよ。思春期の女の子のファザコンなんて、彼氏でもできれば一発で治るから」
「そういうもの?」
「普通はそういうもんよ。自分も恋愛をすれば恋愛をする親の気持ちも分かる。何より彼氏に夢中になってパパのことなんて意識から飛んでっちゃう。あの子割と可愛いし、ほっといてもその内、彼氏できるでしょ」
余裕たっぷりな貞子の様子を見て、これが男と付き合っている女の自信というものなんだろうかと、つぐみは考えた。まだ誰とも付き合ったことのないつぐみにとっては、それはまるで未知の世界で、これ以上口を挟むことははばかられた。
その時バス停にバスが到着して、つぐみと貞子はバスに乗り込んだ。つぐみの隣に腰掛け目をつぶる貞子の姿は、やはり美しかった。弓なりにカーブする眉の下で閉じられたまぶたには、エクステンションをしている訳でもないのに、びっしりとしたまつ毛が生えそろい、薄く形の良い唇は口角が上がっている。
本当に美人は、傍から見る程、幸福ではないのだろうかと、貞子の言葉を思い出しながら、つぐみはしばし貞子の寝姿に見入った。
縫の父親の退院を待つことなく、地区コンクールの日はやって来た。つぐみが控え室でチューニングをしていると、苗美がやって来て
「縫ちゃん今日もとうとう、来れなかったんだね。朝練だけは欠かさず来てたのにね」
と残念そうな声を出した。
「何せパパが入院中だしね。まあどっちみち、まだ縫ちゃんの技量じゃステージに立つことは無理だったんだけど」
とつぐみは答えると、軽く溜め息を吐いた。縫が話題に上るだけでつぐみの心は鉛を飲んだように重くなる。
「何、ツグミン緊張してる?」
「うーん、先輩が抜けて初めて一人で立つステージだしねえ」
「それにしても顔色悪いよ。何かあった?」
苗美の勘の良さに思わず涙ぐみそうになりながら、つぐみは一連の話を伝えた。自分を気にかけてくれる友達という存在は、何とありがたいものなのだろうと思った。もっとも自分の出生の秘密と、縫の父親が犯人かも知れないという話は伏せたけれど。
話を聞き終わると、苗美はうーんと首を捻り
「まあパパに、再婚して欲しくないって気持ちは分かるけどさ、縫ちゃんがいくらそう言ったところで、止める権利は無い訳でしょう? だったら気心知れたツグミンと同居できることを、喜べばいいのになって気はするけどね」
と感想を述べた。
「でもさああの後、縫ちゃんとも朝練の時に話したんだけど、縫ちゃん的には伯母さんが、昔の彼女だったってのが気に入らないみたいなんだよね。だったらママの立場はどうなるの? みたいな、そんな心境みたいなのよ」
「成る程ねえ。まあ縫ちゃんもパパが災難続きでカリカリしてるんだろうしねえ」
「そのパパの災難もさあ、パパが伯母さんと付き合い始めたから、ケチがつき始めたんじゃないかって思ってる節があるのよ。もう縫ちゃんにとっては、伯母さんなんて疫病神状態。そういうこと考えるとほとほと参っちゃってさ」
そう説明しながらつぐみはふと、苗美に洗いざらい全てをぶちまけてしまえば、どんなに楽だろうと思った。自分が今悩んでいるのは、縫が貞子のことを反対している件だけではないのだ。けれど核心を告げられないために、何を話しても鉛を飲んだような心の重さは一向に救われない。
いっそ全てを打ち明けてみようかという誘惑に、つぐみは駆られた。苗美は全てを聞いても、案外ひるまず良い相談相手になってくれるかも知れない。秘密を守り続けることにつぐみはとても疲れてきた。楽になりたいと思う。この悩みを誰かに共有して欲しいと思う。
その時
「北中の皆さん、そろそろ待機して下さい」
との声がかかった。時間切れか。つぐみはコンバスを持つと皆と一緒になってステージの袖へとぞろぞろ歩いた。中学生の群れ。右を向いても左を向いても中学生の群れ。ああやはりあたしの秘密は明かせないと思いながら、つぐみはステージの袖で順番を待った。
あたしに今求められていることは、ステージを無事つとめること。プライベートな問題は全て忘れて演奏に魂を込めること。
何やら自分がプロの演奏家を気取っているようで、つぐみは自分を笑った。他校の生徒は、自費で高価な楽器を用意している所も少なくないというのに、学校の備品である安物の楽器を使用する北中は、分が悪いのだ。それなのに心境だけは演奏家になっている自分が何やら滑稽だった。
演奏はつつがなく終わったが、北中の評価は金銀銅章の内の銀賞だった。ボロい楽器で銀賞が取れたのだから、まずまずだと思いながらロビーを抜けると、東中の部員たちが目を赤くして泣き腫らしていた。彼らもまた北中と同じく銀賞を取ったのだ。
銅賞を取った学校もあるというのに、銀賞で泣いていたら、銅賞を取った学校の生徒たちの立場はどうなるのだろう。呆気に取られながら学校に戻ると、部員たちは顧問教諭にたっぷり油を絞られた。
皆と一緒に頭をうなだれながら、つぐみはようやく、どうやら顧問教諭は金賞を狙っていたらしいと悟った。金賞受賞の学校の中から、県大会に出場する学校が選ばれるのだから、その候補にさえならない銀賞を取るなどということは、顧問教諭にとってはあるまじきことだったようだ。
その時つぐみはふと、ああこれぞ生活だなあと感慨にふけった。
銀賞を取ったのは、果たして生徒だけが悪いのか。指揮者であり指導者である顧問教諭には責任が無いのかという思いも頭を巡ったが、しかしつぐみにとっては、そんなことはたいした問題ではなかった。伯母が付き合っている相手が、自分の母を犯した男かも知れないなどという事実に比べたら、金賞を取れなかったと叱られている方が、余程正しい中学生の生活だとつぐみには思えた。
「銀賞だったそうですね」
と縫が言った。翌日の朝練の音楽室だった。
コンバスのチューニングを終えたつぐみと縫が、合同チューニングに備えて、コンバスを運び込んだ直後だった。ぱらぱらと集まり始めた部員たちの顔には、コンクールの緊張感から解き放たれただるい軽やかさがにじみ、音楽室の中は、先週までとは違った怠惰な義務感が漂っていた。心なしか辺りに響く各パートのチューニング音も、諦めを知った開放感を含んでいるような気がする。
そんな音色に同化しそうな気持ちとは裏腹に、やはり心の奥底に根付く失望を否定できないつぐみは
「うん。残念ながら」
と淡々と答えた。
「やっぱ金賞、取りたかったですか」
「そりゃできればね。大会に向けて人差し指の指紋が無くなる程、練習した訳だし」
そう答えながらつぐみは、右手の人差し指を見詰めた。今回の課題曲のコンバスの楽譜は弦を弾く箇所が多かったため、何度も弦を指で弾いていた結果、人差し指の皮は剥け指紋が見えなくなってしまった。
けれどつぐみは、部活にそれ程打ち込んでいる訳ではない。練習はほぼ休まずに出るけれど、何が何でも金賞を取りたいという熱い思いは無かった。もちろん銅賞は恥ずかしいので避けたいと思っていたが、吹奏楽部は個人プレーではないため、自分一人が張り切ってどうなるものではない。
つぐみはただ音楽が好きだった。両親がいないことも、自分が伯母に育てられているという負い目も、音楽が自分の聴力に訴える力によって慰められた。悲しい旋律を奏でれば、種類は違っても同じく悲しみを感じていただろう作曲者に親近感を持ち、また軽快なメロディーを奏でれば、その明るさに勇気づけられる心地がした。
どうせ部活が強制参加なら、音楽を奏でる吹奏楽部に入りたかった。だから楽器は何でも良かった。そして与えられたパートのコンバスに愛着も持っていた。つぐみはただ、音楽を奏でていられればそれで良かった。
だがもし部活が強制参加でなければ、つぐみは間違いなく帰宅部だった。家事を半分担うつぐみとしては、少しでも自分の時間が欲しかった。だからこの部活はつぐみにとって好ましい反面、自分を縛る場でもあった。そんな場でこうして隣に立つ縫を、つぐみはつかみどころの無い存在のように感じた。
少し前まで縫とは確かに仲が良かった。お互いの家を行き来もした。縫の父親が入院した際には見舞いにも行った。しかし見舞いの場で貞子と鉢合わせ、貞子が縫の父親と交際していることが明るみになった。父親の再婚を反対している縫は、あの場で烈火のごとく怒った。
その出来事の後、朝練で顔を合わせると、縫は貞子が昔の彼女だった点が気に入らないと言った。つぐみはただ黙って縫の言い分を聞いた。
その後、縫が自分を避けるのではないかと思っていたが、縫は以前とあまり変わらない態度でつぐみに接した。幾分表情が暗いようにも思えたが、それは父親が入院中であるせいとも思えた。縫は放課後の練習に来なくなったが、それも父親が入院中のためという大義名分があった。お互いの家を行き来することも無くなったが、それもやはり父親が入院中で忙しいためとも思われた。
だが実際のところが、つぐみには分からなかった。本心では縫はつぐみを避けたいのだがパートの先輩であるため仕方なく関わっているのか、それとも貞子の件は別として、まだ自分を慕う気持ちを残してくれているのか、つぐみにはよく分からなかった。
いずれにしろそれは、縫の父親の退院後に明らかになるように思われた。だが退院は数ヶ月先だ。つぐみはふと待てないと思った。縫が自分のことをどう思っているのかはっきりさせたくなった。
その時貞子の
「思春期の女の子のファザコンなんて、彼氏でもできれば一発で治る」
というセリフが不意に思い出された。
縫に彼氏をつくってやりたい。そんな思いがつぐみの脳裏にひらめいた。縫が心に思う男がいるのなら、自分がキューピットになってその恋を成就させてやりたい。そうすれば縫は自分に感謝し自分を慕うだろう。貞子のことを認めるかどうかは別にしても、自分への好意は確実になるだろう。
つぐみは突如、この時間と今の縫との会話を、大切にしなければならないという思いに駆られた。何とか上手く縫の好きな相手を聞き出せないものだろうか。
その時、自分の人差し指をぼんやりと眺めていた縫が
「指紋かあ。縫も入部したての頃無くなっちゃったなあ」
とつぶやいた。そうだ今は指紋の話をしていたのだとつぐみは現実に立ち返った。縫の想い人のことは、話の流れの中で上手く聞き出さなくてはならない。
「入ったばっかの頃は、指の皮薄いからすぐ剥けるよね」
「そうなんですよね」
「特に縫ちゃんって手の皮薄そう。つーか全体の皮膚が薄そう。肌全体が透き通ってるよね」
つぐみはとりあえず縫を褒めて機嫌を取ることにした。縫は
「えー、そうですかあ」
と照れたような顔をした。
「肌が綺麗な子って男子にモテるんだよね。縫ちゃん結構モテるんじゃないの」
「えー、そんなことないですよ」
「何、それは肝心の人にはモテてないってそういう意味?」
しめしめ上手い具合にこっちに話をもってこれたと、つぐみは内心ほくそ笑んだ。だが問題はここからだ。いくら話がこっち側に来たからといって、縫の側に打ち明ける気が無ければ、好きな男の名は聞き出せない。
すると縫は
「ていうか、肝心な人がそもそも、縫の存在を知ってるかどうか分からないんですよねえ」
と透き通るような皮膚で覆われた頬を、薄桃色に染めた。
縫には好きな男がいる。つぐみは縫の頬の下で燃える血潮に、目を奪われそうになりながらも、辺りをそっと伺った。各々のパートのけだるいチューニングの音が響く音楽室で、つぐみたちの会話を聞いているらしき者は誰もいなかった。
つぐみは声をひそめると
「それ、誰?」
と尋ねた。縫は聞き取れない程の小さな声で答えた。
「先輩と同じクラスの、根野先輩」
一時間目の授業も二時間目の授業も、つぐみは上の空だった。それは朝練の時の縫の告白が、心を占めていたからに他ならなかった。
いつものつぐみだったら
「あたしも、根野君が好き」
と言えたはずだった。
友人の中には
「わたしもあの人を好きだったけど、友達に先に言われちゃったから、協力するしかなくなっちゃって」
などと言う者もいたが、つぐみはそういった考えには賛同しかねた。
スーパーの安売りの大根じゃあるまいし、早い者勝ちということはあるまい。友達に宣言されてしまったら、すぐさま「あたしも」と言えば良いだけのことなのだ。
しかし先程、つぐみは縫に「あたしも」とは言わなかった。縫の恋を応援しようという前提で好きな相手を尋ねたため、縫の口から出た意外な名に、思わずだんまりを決め込んでしまったのだ。
そもそもつぐみは、縫の好きな相手というのは、同じ一年生だろうと勝手に決めてかかっていた節があった。今考えてみれば何の根拠も無い話なのだが、そう思い込んでいたために、まさか根野の名前が出るとは思わなかったのだ。
縫は一体いつ根野を見初めたのだろう。そう考えるつぐみの脳裏に、先日行なわれた野球部の対外試合が思い出された。あの試合に、吹奏楽部員たちは応援に駆り出されたのだった。授業扱いだったため縫もあの場にいた。
けれどあの試合で、北中の野球部はコールド負けをしたのだ。根野にしたって三振で終わってしまい、良い所を全く見せられなかったというのに、一体縫は何が良くてあんな男を気に入ったのだろうと、つぐみは自分のことを棚に上げて考えた。やはり自分たちは腹違いの姉妹なんだろうか。そんな思いがつぐみの頭をかすめる。姉妹だからこそ男の好みも似ているのだろうか。
だが縫が、根野をいかなる理由で気に入ったのかということは、今はたいした問題ではなかった。問題なのは、つぐみも根野を好きなのにそれを打ち明けなかったということなのだ。
先程言わなかったのだから、今更もう言い出せないとつぐみは思った。どうせ自分からアタックする気は無いのだし、言わなくても問題はあるまい。
しかし苗美を始め、複数の女友達が自分の気持ちを知っていることに、つぐみは思い当たった。よもや彼女たちがわざわざ縫に告げるとは考えにくいが、根野とつぐみが言葉を交わした後などに、冷やかされるということは起こり得る。彼女たちはつぐみの想いを、縫に対して伏せなければならないとは考えていないから、冷やかされる現場を縫に見られる可能性は、大いにある。
そんな現場を見たら、縫はどう思うだろうか。縫は自分の恋する相手は根野だとつぐみに告げたのだから隠し事をされたと腹を立てるに違いない。いやそれどころか、根野を巡るライバルとして、つぐみを敵視することも考えられる。
縫との関係を改善するためにと、縫から想う男の名を聞き出したというのに、一体なぜこんなことになってしまったのだろうかと、つぐみは頭を抱えた。これでは状況は悪化するだけではないか。
つぐみは頬杖をつくと、無心にノートをとる根野の姿を眺めた。幸いなことに根野の席はつぐみの隣だったから、縫は横目でたっぷりと根野を観察することができた。客観的には中の上くらいの顔立ちだということは分かっているけれど、あたしにとっては、世界一カッコイイと思う。根野と一緒にいられるのなら奴隷生活を強いられても良いと思う。
つぐみは目をつぶると、自分が根野と二人で歩いている姿を想像した。その時頭の中で根野の隣を歩く自分の姿がスッと縫の姿に入れ替わった。その時つぐみはあっと思った。すり替えだ。
もしできることなら根野と付き合いたいと思う。でもモーションをかける勇気が無い。けれど縫のためだったらできるかも知れない。縫はあたしではないから、縫が振られてもあたしは傷付かない。
そして縫が、もし根野と付き合うことができたら、あたしはそれをすり替えて喜ぶことができるかも知れない。姉妹のようにそっくりだと皆に言われる縫が、根野と付き合うことができたら、あたしはそれをすり替えて喜ぶことができるかも知れない。あの手の顔なら良いのだと、本当はあたしでも良かったのだと、自分を納得させることができるかも知れない。
やはり当初の計画通り、縫の恋を応援しようとつぐみは決意した。その決意の裏には、自分は強姦により誕生したのだという引け目が隠されていた。
縫はもう一度根野を眺めた。根野は教科書に視線を落としていた。先程より根野が自分に近づいたような気がした。本当は遠のいたのに、つぐみは根野が自分に近づいたような気がした。
翌日の昼休みに、縫はつぐみのクラスにやって来た。前日の内につぐみが縫に打ち明けた計画を、実行するためだった。
縫は教室の入り口で立ち止まると、手ぐしで素早く前髪を直し、入り口付近に着席していた生徒に、つぐみが命じた通り
「近山先輩は、いますか」
とはきはきと声をかけた。
その声を聞くと、つぐみは
「縫ちゃん。こっちこっち」
と手を振った。
教室ではちょうど、皆が給食を食べ終えた頃で、根野も食器と盆を下げに行ったところだったが、すぐに席に戻って来ることは分かっていた。つぐみと縫は部活の話をしながら根野の戻りを待った。
根野が席に向かって来た頃合に、つぐみは「根野君」と声をかけた。根野は「何だよ」と面倒臭そうに返事をしながら、自分の席に着いた。
「この子コンバスのあたしの後輩なんだけど、あたしにめちゃ似てるでしょ」
その声にクラスの何人かの者が振り向き、つぐみと縫の顔を見比べた。そして周囲からは「似てる、似てる」の声が上がった。
計画通りだと、つぐみはほくそ笑みながら
「ねー、びっくりでしょ。吹奏楽部では『コンバス姉妹』って呼ばれて有名なんだよ」
と根野に畳み掛けた。事実その呼び名でつぐみと縫は形容されていた。
根野は二人の顔を見比べると
「確かに似てるけど、この子の方が可愛いじゃん」
と縫を指してニヤリと笑った。つぐみは心臓が破れるような思いで
「『この子』じゃないの。西海縫ちゃん。ちゃんと名前覚えてあげて」
と少し威張った口調で説明した。
「へえ、ぬいっていうの」
根野が少し興味を示したような反応をした。つぐみは
「縫ちゃん。漢字説明してあげて」
と縫に、話を振った。
「あ、糸偏の……、縫い物の縫です」
縫が恥ずかしそうに説明すると、つぐみは
「ねえ? さすがあたしの妹だけあって家庭科の得意そうな女の子っぽい名前でしょ?」
と援護した。
「何だよ。近山、家庭科得意だったのかよ。初耳だな」
と根野がからかうように言った。つぐみは
「そりゃあもちろん、調理実習で食べるのは得意中の得意」
と更に威張った。本当は作る方も得意だったがそれは今言ってはならないことだった。
その時、縫が
「じゃあつぐみ先輩。また」
と声をかけた。つぐみは
「ああまた。部活でね」
と手を振った。
初回はこれくらいで良いと思った。とりあえずこれで根野は、縫の顔と名前は覚えた訳だ。あとは縫の頑張り次第だろう。
見ると根野は、もう二人のことなど忘れたように男子生徒と教師の噂話に興じていた。その姿を見るとつぐみの心はうずいた。ねえ根野君。さっき『この子の方が可愛い』って言ったのは本気でそう言ったの? それともそれは冗談だったの?
あれが本気だったのか冗談だったのか、そのどちらが自分にとって望ましいことなのか分からなくなりながら、つぐみは胸の内で、返ってくるはずの無い問いをもてあましていた。
これまでつぐみは、自分から根野に話しかけたことが一度も無かった。席が隣だったから話しかけようと思えばいくらでもチャンスはあったのだが、照れ臭くてできなかった。会話はいつも、根野からの発信で始まっていた。そして根野は毎日必ずつぐみに話しかけてくれていた。
だからこそつぐみは、話しかけようとさえ思えば、いつでも根野に話しかけられる状態にあった。それだからこそつぐみはこの計画を練った。縫を根野に紹介するための計画を。初めて根野に話しかけるという機会を、縫のために使った。
何だか自分が、取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。自分のためなら出ない勇気が、他人のためなら出ることが不思議だった。それは別に自分の優しさゆえではないのだ。つぐみは結局、自分のために出す勇気が失敗することが怖かった。縫のためだからこそ、失敗を恐れずにいられたのだ。
その時ふとつぐみは、縫の家で見せられたコンドームを思い起こした。びっくりするくらい薄いのに、まるで猥雑な秘密を隠し持ったかのようなゴム製品。今しがた自分がした行為によって、いつの日か強姦ではなくお互いの合意により、縫と根野があのコンドームを使う日が来るのかも知れないと、つぐみは思った。縫の「付けて」という声が脳内に響き渡った。
その声は縫の自宅で聞いた無機質さは無く、甘い恥じらいと積極性が込められていた。避妊や性病予防のために付けてくれというよりは、むしろ付けた後の行為をねだるかのような能動性が、淫靡に粘っていた。つぐみは想像の中の縫の自発性にたじろぎながら、もし縫と根野がセックスをして、縫からそれを打ち明けられたら、自分はその行為も自分にすり替えようとするんだろうかと考えた。
その仮定はつぐみの胸を苦しくさせた。けれどその苦しみが、セックスへの拒絶反応によるものか、それとも嫉妬によるものかつぐみには分からなかった。
つぐみの口の中は苦いもので満たされた。だが注意深く舌を転がすと、そこには確かに僅かな甘さが潜んでいた。その甘さが何によってもたらされているのか、つぐみには分からなかった。
学校からの帰り道、つぐみは苗美に
「やったじゃん。作戦成功したじゃん」
と声をかけられた。まさかもう縫サイドからの情報が流出しているのかと驚きながら、つぐみは
「何のこと?」
と尋ねた。
「昼間縫ちゃん使って根野君に話しかけたじゃん。話しかけるきっかけ作りに、縫ちゃんに協力してもらったんでしょ?やるじゃん」
のん気そうに笑う苗美を眺めながらつぐみは、ああ苗美は勘違いしていると思った。だがそれは無理も無いことだった。一昨日までつぐみは、一日も欠かさず本日の根野との会話を苗美に嬉しげに報告していたからだ。
つぐみはバツの悪い思いで
「違うよ。あれは縫ちゃんを根野君に紹介するためだったの」
と告白した。
「え、何で?」
「縫ちゃん、根野君のこと好きなんだって」
「だからって何で? ツグミンだって根野君のこと好きなんでしょ?」
苗美の疑問はもっともなことだった。だからつぐみは
「あたしは根野君のこと冷めちゃったの。そしたら縫ちゃんが根野君好きだって言うから、丁度いいと思って」
と嘘をついた。
「何で? だって一昨日までツグミンそんなこと言ってなかったじゃん」
「そうなんだけどねー。何か急に冷めちゃって」
「まさかツグミン、後輩に遠慮して自分の気持ち抑えてる訳じゃないよね?」
勘の良い苗美につぐみは一瞬冷や汗をかいたが、すぐに平静を装うと
「まさか、そんなことある訳ないじゃん」
と胸を張った。縫に根野をゆずったのは、先輩だとか後輩だとかそんな関係によるものではなかった。つぐみはただ縫の歓心を自分に戻したいだけだった。いずれもしかしたら、貞子と縫の父親は再婚するかも知れない。その時のためにも、縫と良好な関係を築くことは、つぐみにとって必要なことだった。
つぐみの心を知らない苗美は
「それにしたって切り替え早すぎない? 一昨日まであんなに、根野君のこときゃあきゃあ言ってたのに、その二日後には縫ちゃんと根野君をくっつけようとするなんて」
と呆れたようにつぶやいた。
「いやホントはさ、もっと早く冷めてたの。でも好きな人いないとつまんないじゃん? だからずっとあたしは、根野君を好きっていうことにしてたんだけど、縫ちゃんから根野君が好きって話聞いたら、何かそれが決定的になって冷めたっていうか」
「まあわたしも、ライバルが現れると途端にやる気が失せるタイプだから、気持ちは分かるけど」
「そうそう。そうなの。何か面倒臭くなるんだよね」
そう答えながらつぐみは、あたしはひょっとしたら、本当に面倒臭くなったのかも知れないと思った。
自分が強姦により誕生したと知った時から、多くの出来事がつぐみを襲った。それらの出来事によって、つぐみは疲れてしまった。
それでも昨日までは、根野への恋心がつぐみをリフレッシュさせてくれていた。別にこの恋を成就させようという積極的な想いは無かったけれど、根野と言葉を交わすだけで、つぐみは天国にいる心地だった。根野とのことだけは、つぐみにとっては別世界の出来事だったのだ。
けれど縫の想いを知り、根野は別世界の出来事ではなくなった。だからつぐみは面倒臭くなった。根野はもうつぐみに完全な天国を与えてくれない。だとしたらいっそ手放してしまった方が良いではないか。
つぐみは心の中でバイバイ根野君、とつぶやいた。
根野君のこと大好きだったよ。根野君のためなら死んでも良いと思ったよ。大人は笑うかも知れないけど人を愛するってこういうことかと思っていたよ。でもバイバイ根野君。縫ちゃんのことが無くたって、強姦によって生まれたあたしのことなんて、あなたは好きになってはくれないでしょう。黙っていれば分からないかも知れないけれど、黙っていても事実は事実として存在する。
万に一つ、根野君があたしに「好きだ」と言ってくれたとしても、あたしは自分の秘密が後ろめたくて、あなたと一緒にいるのが辛くなるでしょう。だったらいっそあたしは縫ちゃんのせいにして諦めたいの。あたしの出生が原因じゃない。縫ちゃんが原因であたしの恋は成就しないんだと思いたいの。だからお願い。もしあなたが誰かと付き合うのならあの子にして下さいな。あたしとかんばせの似たあの子にして下さいな。
心の中で根野に語りかけながら、ふとつぐみはこういうことなんだと思った。こういうことなんだ。強姦によって生まれるということは。伯母さんにそれを聞かされて三日間あたしは学校も休んでずっともがき苦しんでいたけれど、でもその事実が呼ぶ苦悩の全てを、理解していた訳ではなかった。
けれどこういうことなんだ。強姦によって生まれるということは。それを知った時の衝撃だけじゃない。その後の人生にこうして関わってくることなんだ。
不意に足元に竜巻が起きたような錯覚に陥って、つぐみは足を止めた。苗美が振り返って「どうしたの」と尋ねた。
「何でもない」と答えてつぐみは再び歩き始めた。何度地面を踏んでも、竜巻が足元に絡みついているような感覚が消えなかった。つぐみは逃れようと足を速めた。けれど自分が一体何から逃れようとしているのか、つぐみにはよく分からなかった。
その日以降、縫はちょくちょく昼休みにつぐみの教室を訪れるようになった。つぐみはもう根野に対して冷めたのだという話は、女友達の間で広まっていたから、好奇心旺盛な彼女たちは、頼まれてもいないのに、縫と根野をくっつけようと小細工まで弄するようになった。
皆まだ幼い女子中学生たちだった。自分の恋を仕掛けることには臆病になるくせに、他人の恋には積極的だった。彼女たちもまた、他人の恋を操ることによって来るべき日のための練習をしているのかも知れなかった。
縫が訪れることが日常になり、縫と根野が自然に言葉を交わすようになってからも、つぐみには根野が、縫のことをどう思っているのか計りかねた。縫が現れるようになってからも、根野のつぐみに対する態度は変わらなかったし、縫に対しても対応がはっきりしなかった。
そんな折、苗美が一つのニュースを運んで来た。根野が隣のクラスの灰原ひずるに告白して振られたというのだ。
朝練が終わり教室へと向かう道すがらだった。つぐみは声をひそめて小さく叫んだ。
「それってホントの話?」
「みたいだよ。さっきフッキーに聞いたの。フッキーひずるちゃんと仲いいじゃん? 何か昨日告られたらしいよ」
フッキーというのは、苗美と同じサックスの二年生だった。フッキーはひずると同じクラスのため、ひずると仲が良い。
「じゃあそれ、マジ情報だね」
「だよ。でも根野君てかなりな面食いだね。ひずるちゃんって学年で一番可愛いって評判じゃん」
「つーかちょっと、身の程知らずじゃん?」
つぐみは腹を立てながら根野を罵った。顔がせいぜい中の上クラスのくせに、コールド負けをしたくせに、縫を紹介してやったというのに、わざわざ難攻不落な高嶺の花に向かっていった根野に腹を立てた。
ちくしょうやっぱり顔なのかと、つぐみは思った。実際に根野がひずるのどこを気に入ったのかは分からないのだが、つぐみは顔だと決めつけイラついた。あたしの顔じゃ駄目なのか。あたしに似た縫の顔じゃ駄目なのか。
教室に入ると根野は、普段通り友人たちと談笑していた。その快活な笑顔からは女に振られた憂鬱さは微塵も感じられない。
つぐみが席に向かうと、根野はひょいとつぐみの方へ顔を向け
「近山、数学の宿題やって来た?」
と親しげに尋ねた。
「うん、一応」
「午後までに返すから、ノート見せて」
「いいけど」
つぐみはバッグからノートを取り出して、根野に渡した。渡し方は少々乱暴だったが根野は友人たちとの会話に夢中で、つぐみの態度に気付かずノートを机の中にしまった。
そりゃあ数学の授業は午後だけど、どうせ今、暇なんだから、くっちゃべってないでさっさと写せばいいじゃない。
つぐみはプリプリしながら、教科書や文房具をバッグから机に詰め替えた。恋に破れたというのに、変わらない根野が許せなかった。学年で一番可愛いという女に惚れるという単純なことをやらかし、振られても尚、平然としている根野が許せなかった。
ふと縫を根野に紹介した日に、根野に心の中でバイバイを言ったことを思い出した。あの日つぐみは悲哀と共にいた。根野を諦めることが切なかった。けれど現実はどうだ。縫のことなど無関係に、根野はひずるに想いを寄せていた。つぐみは自分の独り相撲が何やら情けなくなった。
その後、午前の授業の間中、つぐみは縫に何と言ったものかと考えていた。問題なのは今日の昼休みも、縫が来るかも知れないということだ。とりあえず縫が来たらただちに廊下に引っ張り出して、ひずるの件を告げるしかない。縫はショックを受けるだろうから、今日はそのまま帰ってもらった方が良いだろう。
だがその日の昼休み、縫は姿を現さなかった。大体が毎日来ていた訳ではないのだからそう珍しいことではない。つぐみはホッと胸を撫で下ろしたが、しかしそれは面倒が後回しになったというだけのことだ。
縫は今日も放課後の部活を休むだろうから、帰宅してから連絡するしかない。ケイタイは毎朝登校時に教師に回収されて、下校時に返されるシステムだ。そこで問題になるのは連絡手段だった。電話で伝えた方が良い気はするが、縫は父親の病院にいてケイタイの電源を切っている可能性が高い。だとしたらやはりメールで伝えるべきだろう。その場合どういった文章で伝えたら良いだろうか。
そんなことを考えていたら突然何かが割れる音がした。考え事に気を取られていて、片付けようと思っていた試験管を割ってしまったのだ。
片付けの済んだ班の生徒たちは、もう理科室を出ようとしていた頃合だった。もうすぐ次の数学が始まるというのについてない。
早く片付けなければと思いながら、つぐみは試験管の破片に近づいた。それは窓から差し込む夏の陽射しに反射して、眩しいばかりにきらめいていた。思わずつぐみはその光景に見蕩れた。
輝く試験管の破片。鋭利な形。もしこれを血管に宛がえばつぐみの体からは鮮血が噴出するだろう。血を流したいとつぐみは思った。いとわしい自分の血潮を全て絞り出して星のように風のように清浄になりたいと思った。
けれどつぐみはすぐ我に返ると、理科の教師に向かって
「すいません。試験管割りました」
と手を挙げ掃除ロッカーへと急いだ。こんな観衆の中、試験管の破片を取り上げ肌を裂いたりしたら、つぐみは奇人だと思われてしまう。
その時、根野が、
「数学のノートのお礼に、手伝うよ」
と声をかけてきた。つぐみが黙って根野の顔を見詰めると背後で理科教師が
「何だ根野、宿題、人のノート写してるのかあ」
と間延びした声を出した。
「違いますよ。先生。休んでた時のノートです」
根野の返事に、つぐみは嘘つきと思いながら頬が緩むのが止められなかった。自分の失敗の後始末を、根野が手伝ってくれる。先程まで根野に対して抱いていたつぐみの怒りは一気に凍解した。
「それじゃあ片付けはこの二人に任せて他の者はさあ行った、行った」
と汚れの目立つ白衣を揺らしながら、理科教師が他の生徒たちを急かした。いつの間にか理科室には、つぐみと根野と理科教師の三人だけになった。
つぐみがほうきとちり取りを持って現場に戻ると、大きな破片は、理科教師と根野の手によって、あらかた片付けられていた。
薄汚い白衣をまとった理科教師の存在を、つぐみは心から邪魔に思いながら、残ったガラスくずをちり取りに集めゴミ箱に捨てた。汚れが目立つからこそ清潔にしなければならない白衣を、頓着せずに汚れが目立つに任せている教師と一緒では、神秘的な理科室という舞台装置に、せっかく根野と二人でいるという事実が、全く台無しに思われた。
掃除ロッカーにほうきとちり取りを戻すと、理科教師は
「さあさあ、二人共行った、行った。次の授業始まるぞ」
とつぐみと根野を理科室から追い立てた。理科室のドアを閉めた瞬間、次の授業が始まったことを知らせるチャイムが鳴り響いた。どのみち理科教師がいてもいなくても、理科室にいつまでも二人きりでいる訳にはいかなかったのだなとつぐみは諦めた。
根野は走り出すのだろうと、つぐみは思っていた。先程の一瞬の幸福も時間に縛られる中学生には味わっている余裕も無い。けれど根野は、つぐみに「行こう」と声をかけのろのろと歩き始めた。もう授業が始まっているのに、この人はどうして走らないんだろうと思ったが、根野を置いて一人走り出す訳にもいかず、つぐみも根野の隣をのろのろと歩いた。
うんざりする程のんびりとした足取りで、根野は教室へと向かった。一体なぜこの人はゆっくりしているんだろうとつぐみは思った。もしかしたらあたしと、一緒にいたいんだろうか。そんな考えがふっと頭に去来したがすぐにつぐみは首を振った。この人はひずるが好きなのだ。だから断じてそんなことは無い。根野はおそらく数学の授業になるべく遅れて行きたいんだろう。
根野の心中を察してもつぐみは幸福だった。この人は少なくとも、数学の授業よりはあたしと共に歩くことを望んでくれている。それだけでつぐみは充分だった。
つぐみはふと、片付けを手伝ってくれた件について礼を言おうかと、根野の横顔を伺ったが、薄い唇を真一文字に結んでいる表情にぶつかり勇気を失った。自分が何か言葉を発することで、今のこの空気が壊れてしまうことも恐ろしかった。
つぐみは礼を言うことを諦めると根野と二人で歩き続けた。根野と二人で歩く。以前授業中に夢想していた出来事が現実になったのだ。つぐみはこの現実に酔っていた。このまま時間が止まってしまえば良いと思う。根野と二人でなら、どこまでも歩いて行けると思う。
階段の踊り場で根野は突然足を止めた。つぐみは何事かと思いながら振り返った。すると根野がつぐみの瞳をまっすぐ見詰めてこう言った。
「俺と、付き合ってくれないか」
つぐみの視線は根野に捕らえられ、しばらくつぐみは立ちすくんだ。瞳から根野がぱあっと入り込んできたような気がして、つぐみは羞恥で顔が燃え上がった。逃げ出したいと思った。とにかくこの場から逃げ出したいと思った。つぐみは咄嗟に
「数学のノート」
と口走った。根野が「え?」と尋ねた。
「数学のノート、返して。教室戻ったら。数学、始まってるでしょ」
「あ、ああ」
拍子抜けしたような根野の返事を聞くと、つぐみは階段を駆け上がった。今この場を逃れたところで、たどり着いた先の教室での席は隣だというのに、つぐみはなぜか走らずにいられなかった。
「はあ? 根野君に告られた?」
放課後の教室だった。窓からは黄ばんだカーテン越しに威勢の良い陽射しが降り注ぎ、室内を明るく照らしている。本来なら部活に出なければならないのだが、つぐみはとてもそんな気にならず、苗美を誘って教室に居残っていた。
つぐみの報告に驚きの表情を浮かべた苗美は
「だって根野君、ひずるちゃんに振られたばっかじゃん」
と続けた。ひずるに振られた翌日につぐみに告白するという根野の心境は、つぐみにも苗美にも理解しかねた。
「そうなの。根野君、一体何考えてるんだろう」
「それでツグミンは、何て答えたの」
「何か頭、真っ白になっちゃって、『数学のノート返して』って」
答えながらつぐみは、一体なぜ自分はそんな返事をしてしまったんだろうと考えた。なぜはっきりと断らず無関係なことを言い出したのか。断りたくなかったのか。前日に別の女に振られた男の告白を断りたくなかったのか。
苗美は何が何だかよく分からないという顔をしながら
「何、それ」
と尋ねた。今の苗美にとっては根野も謎だったが目の前にいるこの友も充分謎だった。
「今朝、数学のノート貸してって言われて貸しっぱなしだったから」
「それにしたって、何でそんな時に数学のノートなの」
「分かんない。頭が混乱してたとしか思えない。だって突然そんなこと言ってくるんだもん。昨日ひずるちゃんに振られた人がまさかそんなこと言ってくると思う?」
けれど原因はそれだけではなかったとつぐみは思った。つぐみは根野が好きだった。だから正直に言って、根野からの告白にときめいた。だがひずるの件もありそんなことでときめいている自分が嫌だった。また頭には縫のこともあった。縫の根野への想いを応援している最中に受けた根野からの告白は、嬉しい反面、つぐみにとっては厄介な出来事でもあった。
しかし根野への恋愛感情は、もう消えたと苗美に言ってしまった今となっては、その複雑な胸の内を明かすことはできなかった。
苗美はさっぱり分からないという態度で
「気持ちは分かるけど、でも何でハッキリ断らなかったの? 根野君のことは冷めたんでしょ?」
と尋ねた。冷めた上に昨日ひずる振られた相手に思わせぶりな言動をとったつぐみが、苗美には不可解だった。
「やっぱはっきり断った方がいいかなあ。あたしが別の話題にすり替えたことで、遠回しな断りって伝わらなかったかなあ」
「もしかしたら伝わってるかも知れないけど、伝わってなかったらどうするの。やっぱりここはちゃんと、断った方がいいんじゃない?」
「でもこっちからその件、言い出しにくいんだよね。向こうがまた言ってくればいいけど、自分からその件持ち出すのは何か言いにくい」
そう答えた時つぐみはようやく理解した。つぐみは根野と付き合う訳にはいかない。何より強姦によって誕生したという引け目があるし、昨日根野が、ひずるに振られたばかりだという点も気に入らない。また縫の恋を応援していた自分が、今更、根野と付き合う訳にはいかないという思いがある。
だがつぐみはまだ根野が好きだった。一年生の頃からずっと片想いしていたのだ。つぐみは根野の愛用の、シャープペンシルにまで嫉妬していた。シャーペンに成り代わりたかった。根野のお気に入りの文房具になってずっと根野の側にいたかった。人間であることを止めても構わないと思う程、つぐみは根野に焦がれていた。
だからつぐみは、あの時話をすり替えたのだ。付き合う訳にはいかないと重々承知の上で、根野に「付き合って」と言われた事実に、ほんのしばらくの間うっとりするために。根野に再度の告白をさせるために。
つぐみがようやく自分の心を悟っていると、苗美は
「まあ言い出しにくいのは分かるよ。だったら……、根野君がまた言ってくるのを待ってそれで断ったら?」
と提案した。苗美にとってはこれが妥協案だった。
「でももう何も言ってこなかったら、どうしよう」
「そしたら多分、ツグミンのこと諦めたってことだから、それはそれでいいんじゃないの」
苗美の言葉につぐみは傷付いた。根野の自分への思いは、そんなにもいい加減なものなのかと、いい加減な返答をした自分を棚に上げてつぐみは考えた。だが根野の気持ちがいい加減なものであることは、すでに分かっていた。昨日女に振られたばかりの男の告白が誠意あるものとは考えられない。つぐみは長いこと恋い慕っていた男の不誠実さに、更に傷付いた。
そんなつぐみの心境も知らず、苗美は
「それより縫ちゃんにはどうするの。このこと言うの?」
と尋ねた。確かに縫の存在はこの際無視できなかった。
「縫ちゃんに言わなきゃいけないかなあ? 言い辛いよ」
「まあ、確かにね」
「根野君がひずるちゃんに振られたことだけを言うんじゃ、駄目かなあ?」
できればつぐみはそうしたかった。根野への恋心をひた隠しにしてまで、縫の恋を応援していたというのに、あんないい加減な告白のせいで縫に逆恨みをされてはかなわない。
すると苗美は
「じゃあツグミンが告られたことは黙ってれば? ツグミンが根野君と付き合う気が無いんなら、黙っててもばれないでしょ。他の人にはこのこと言ってないんだし」
と提案した。つぐみはうなずいた。苗美は口が固いため信用できるだろう。
そうして二人は、ひずるの件だけをつぐみが縫に報告することを確認すると、遅ればせながら部活に出ることにした。顧問教諭は大会の結果や演奏の出来栄えには厳しいが、放課後の部活に、たまに遅れるくらいのことでは、機嫌を損ねるようなタイプではなかったから、その点は二人共気が楽だった。
苗美にトイレに寄るから先に行っていてくれと言われたつぐみは、一人音楽室へと向かった。一人になると先程の根野の言葉が浮かんでくる。俺と、付き合ってくれないか。俺と、付き合ってくれないか。
もしひずるの件を聞いていなければ、あたしはひょっとしたら、「はい」と答えたのかも知れないとつぐみは思った。そうしたら今頃あたしは、どんなに幸福だっただろうと思う。だが縫の存在がある。やはり縫に気兼ねしてあたしは幸福を満喫できなかっただろうと考える。
考えようによっては、ひずるの件を聞いていて、良かったのかも知れないとつぐみは思った。ひずるの件が無くても、縫の恋を応援していた立場上、根野の告白に応えることができなかった自分だ。どうせ根野が手に入らないのなら、根野がいい加減な男なのだということを知った方が気休めになる。根野など惚れるに値しない男だと思った方が、気が楽だ。
しかしつぐみは、自分の根野への恋情が全く冷めていないことを感じていた。あんないい加減な男の何が自分を揺り動かすのか、つぐみは不思議でならなかった。
その時渡り廊下の途中で、つぐみは根野と行き会った。根野は部活の途中で水飲み場に向かうところだった。
ぎくりとして立ち止まったつぐみに、根野は「よう」と声をかけると
「昼間言ったあれさ、取り消すわ。やっぱ今までのまんまでいいや」
と軽やかな笑顔で言い放ち、駆けて行った。
つぐみは呆然とした表情のまま、ユニフォーム姿の根野の後姿を見送った。根野の姿が校舎の陰に隠れた後も、つぐみは放心したまましばしその場に佇んだ。
結局その日、つぐみと苗美は放課後の部活に出なかった。トイレから出て来た苗美をつぐみが再び教室に連れ込んだからだ。
つぐみの報告を受けると、苗美は
「何それ。意味分かんないんだけど」
と叫んだ。根野のここ二日の言動は、一般的な女子中学生である苗美の理解を超えていた。
「でしょ? 数時間前に告ってきたくせにその日の内に取り消しってどういうこと? あたしからかわれた訳?」
「でもからかったってしょうがないじゃん。ツグミンいじられキャラじゃないし」
「そう? 先月学校を三日休んでから登校したら、根野君に『ズル休み』って言われたじゃん?」
そう尋ねながらもつぐみは、別に自分が、自他共に認めるいじられキャラだと考えていた訳ではなかった。他のクラスメイトには普段から特にからかわれるということはない。ただ根野だけは席が隣のせいか時折つぐみをからかった。つまり根野個人にとっては、自分はいじられキャラだったのではないかと、つぐみは思った。
けれど個人が、特定の誰かをからかう際は、相手がいじられキャラかどうかなどということはあまり関係が無い。だから苗美は
「それはただ単に、根野君がツグミンに話しかけたかったんでしょ」
と答えた。
「何で、話しかけたかったんだろ」
「それは告ってきたくらいだもん。ツグミンのこと好きだったんだよ。多分ひずるちゃんの次に」
「じゃあ何で、突然取り消してくるの」
つぐみは泣きそうな気分になった。普段から根野の一挙一動に、一喜一憂していたというのに、今日の根野の言動は振り幅が大きすぎる。これでは心がついていかなかった。
すると苗美は「うーん」と唸った後
「あれじゃない? ツグミンが数学のノートがどうとか言って、ちゃんと返事しなかったから、あ、こりゃ振られたなと思って、でも恥かくの嫌だから、だったら取り消しちゃえみたいなそんな感じじゃない?」
と 推測した。
「えーだとしたら、根野君てすごくヤな奴じゃん」
「とっくにヤな奴じゃん。ひずるちゃんに振られた次の日にツグミンに告るんだから」
「そりゃあ、そうだけど」
そんなヤな奴を自分は好きだったのかと、つぐみは愕然とした。いや告白を取り消され一番の友人である苗美にヤな奴だと断定されても尚、未だ根野を嫌いになれない自分が一体何なのか、訳が分からなかった。
つぐみがすっかり自分を見失っていると、苗美は
「てゆーかツグミン良かったじゃん。そんなヤな奴のこととっくに冷めてたんだから。もし冷めてなかったら、告られた時にOKしちゃったかも知れないでしょ?」
と元気づけるように言った。
「んー冷めてなくても、ひずるちゃんに振られたって聞いた時点でもうOKしないよ」
「そう?」
「だってヤじゃん。ひずるちゃんに振られたこと知ってる人は知ってると思うし、『根野君はひずるちゃんに振られたから、仕方なく近山さんと付き合ってるらしいよ』なんて噂されたら」
そうだ。全てはひずるのせいなのだとつぐみは思うことにした。ひずるなどちょっとぐらい美人だからといって、根野を振ったりして気に入らない。根野はひずるに振られた哀れな被害者なのだ。そう思えばまだ根野を好きでい続けても構わないような気がした。
告白を取り消されたショックからつぐみが自分勝手な考えに駆られていると、苗美は
「そうだよね。ひずるちゃんにも何となく馬鹿にされそうだしね」
と同意した後
「それでどうするの? 結局、根野君に告られたこと縫ちゃんに言うの?」
と尋ねた。
「告ってすぐ取り消すようないい加減な人だって、教えてあげた方がいいのかなあ?」
「んー、取り消されたんだから逆恨みされることは無い気がするから、教えてあげた方がいい気もするけど、取り消されたんだから言う必要も無い気もする」
「じゃあとりあえずひずるちゃんのことだけ言って、その反応で決めるよ」
つぐみは体の芯に染み渡るような疲労を感じた。今日は一体何という一日だろう。朝、前日根野がひずるに告白して振られたと聞かされ、午後の授業中に根野から告白され、放課後になった途端に、告白を取り消された。
こんなことが起きては、自分の動揺をなだめるだけで精一杯だというのに、縫に自分が告白されたことを言うべきか否かの問題まで浮上して、つぐみはうんざりした。仮に自分が告白されたことだけは伏せるにしても、ひずるの件を告げるだけでも気が重い。
縫の恋を応援しようなどと思わなければ良かったと、つぐみは後悔した。そもそも縫の歓心を買うために恋を応援しようとしたことが、姑息だったのだと思い当たった。そんなことをしてまで縫に好かれようとしていた自分が、みっともなく感じられた。
部活に出ることを諦め、バッグを持って苗美と共に正面玄関を抜けると、校門の脇で向日葵の花が黄色く揺れているのが見えた。誰が種を蒔いたのだろうとふと思う。
蒔いた種は刈らねばならない。そんな言葉を思い出しながらつぐみは校門を出た。向日葵の花が、黄色く揺らめきながらその姿を見送った。
散々文面を迷った挙句、ようやくメールを作成すると、つぐみは縫のケイタイに送信した。簡潔に根野がひずるに振られたことだけを取り急ぎという形で文章にまとめた。後は縫の出方次第だと思う。それを受けて縫が根野を諦めるなら慰めれば良いし、それでも頑張ると言うなら、自分が告白されたことを話さなくてはならない。
どうかもう根野を諦めて欲しい。そう願いながらつぐみはベランダに出た。昨夜貞子が干した洗濯物が、そろそろ夕方の湿気を帯びてくる頃だ。取り込んで畳んでおかなければならない。
テレビを点け取り込んだ洗濯物を畳んでいると、ケイタイが鳴り出した。発信者は縫だった。つぐみはテレビを消すと「もしもし」と電話に出た。
「先輩、さっきのメール、ホントですか」
予期していた通りの慌てた声が、耳元に流れてきた。つぐみは少しでもその話を後回しにしたくて
「あれ早いね。まだパパの病院かと思ってた」
と話をそらした。
「病院でもケイタイOKの場所があるんですよ。それよりさっきのメール、ホントなんですか」
「ナエミンがフッキーに聞いた話だから、間違い無いと思うんだけど」
「そんなあ。縫、今日根野先輩に告ってOKもらったばっかなんですよ」
思いもよらない縫の言葉につぐみはしばし絶句した。それは一体どういうことなのか。
「それ、ホント?」
「ホントです。今日の放課後、部活行く前の根野先輩をつかまえて告ったんです。そしたらすぐにOKしてくれたんですよ」
「放課後……」
つぐみはつぶやきそして悟った。根野は今日の午後つぐみに告白したが、色よい返事をもらえなかった。そこに縫が現れ告白をしてきた。そこで根野は縫を受け入れることにしてつぐみに取り消しを申し出てきたのだ。告白後、突然取り消しをされた背後にはそういった事実があったのだ。
そういうことかとつぐみが納得していると、縫が
「根野先輩はホントは灰原先輩が好きなのに、振られちゃったから、たまたま告ってきた縫と、付き合うことに決めたってことですか」
と悲鳴のような声を上げた。縫にとっては天国から地獄に突き落とされたような心地だった。
「たまたまかどうかは分かんない。根野君は縫ちゃんのことも、好きなのかも知れないし」
「でも昨日の今日ですよね? 根野先輩、軽いですよ。そう思いません?」
「まあ軽いと言えば、軽いかも知れないけど」
果たして自分が告白されたことも、伝えるべきなのかどうか迷いながら、つぐみは答えた。ひずるの件だけで縫がこれ程心を騒がせているなら、何もこれ以上の動揺を与える必要は無い気もするが、伝えるなら今がチャンスだという気もする。つぐみが迷っていると縫は
「とにかく縫、これから根野先輩に電話して聞いてみます」
と言い出した。
「聞いて認めたら、どうするの」
「根野先輩とは、別れます」
「じゃあ認めなかったら、どうするの」
そう尋ねながらつぐみは、ここが正念場だと思った。縫の答えいかんによっては自分の出方も変えねばならない。縫はこう答えた。
「縫は、自分の好きな人を信じます」
その言葉につぐみは衝撃を受けた。何を信じるべきかという判断を、自分の好悪の情で決めてしまう幼い縫。その幼さを愛しく感じたこともあった。だが今のつぐみにとっては縫のその幼さが煩わしいものに思えた。
自分が根野に告白され、そして取り消されたことは言うまいとつぐみは決意した。好きな人の言葉しか信じない縫にそのようなことを伝えても、親切が仇になるだけだ。良かれと思って伝えたことで、疑われ恨まれてはたまらない。
縫との電話を切ると、つぐみは再び洗濯物を畳み始めた。ふと電話がすぐに済んだから洗濯物がシワにならずに済んで良かったなと思った。こんな時に、冷静に現実的なことを考えている自分が不思議だった。
けれど畳んだ洗濯物の中から貞子の物をより分け、貞子の部屋に入った時、もしも貞子だったらどうしただろうという考えが、頭をよぎった。
貞子はいつもつぐみに対し、違うものは違うと言い、いけないものはいけないと言っていた。そのことによってつぐみの機嫌を損なうことなど全く恐れていなかった。
あたしは自分のことだけを、考えてしまったんだろうか。縫に嫌われることを覚悟してでも、根野に告白されたことを伝えるべきだっただろうか。
急に自己嫌悪に襲われ、つぐみは思わずその場にしゃがみ込んだ。その時、頭の中で根野の「付き合ってくれないか」という声がこだました。
あたしだって信じたかったと、つぐみは叫び出したいような気持ちに駆られた。あたしだって根野を信じたかった。根野の告白を信じたかった。
その時つぐみは悟った。自分は縫に嫉妬しているのだと。例え信用ならない相手であろうとも、好きな相手を信じられる縫に嫉妬しているのだと。
ふとうずくまる足元に、何か光る物を見た気がした。拾い上げるとそれは貞子のピアスだった。つぐみはまだピアスの穴を空けていないからこんなアクセサリーには縁が無い。羨望を覚えながら、つぐみはしばしピアスに見入ったが、ピアスはお前になど用は無いと言いたげに、つぐみの手の中でよそよそしく輝いていた。
その輝きに見蕩れている内に、ピアスを空けてみたいという願望が、つぐみの中に生まれた。無くした恋の代わりに何かを手に入れたかった。四六時中、肉体に差し込まれている装飾品を手に入れたなら、その輝きが自分の喪失を埋めてくれるような気がした。
つぐみは貞子のドレッサーの鏡の前で、ピアスを耳元に宛がった。あどけない顔立ちの横で冷たく光るダイヤのピアスは、つぐみに全く不似合いだった。まるで母親のアクセサリーでいたずらをしている幼子のようだった。
鏡の中に自分の幼さを見て取った瞬間、つぐみの唇から、「ママ」という言葉が零れ落ちた。母親に会いたいと思った。会って話したいことがあるの。なぜ生んだのかとかそういうことだけじゃなくて話したいことがあるの。聞いて欲しいことが沢山あるの。ママ、ママ、どこへ行ったの。
母親を恋い慕いながら、つぐみは部屋の中で目を泳がせた。ベッドの上にもカーテンの前にもクローゼットの辺りにも、母親の姿は見当たらなかった。
ふと部屋の中が何やら雑然としていることに気付いた。ゴミ箱からはゴミが溢れ、ドレッサーの足元には、空になった化粧水の瓶が転がり、読みかけの雑誌や小説が床に点々としている。このところ貞子は帰りも早かったというのにどうしたことだろうか。
だがその散らかった貞子の部屋が不思議に居心地が良く、つぐみはピアスを握り締めたまま、床にごろんと寝そべった。自分の心の中にも大人と子供が散らかっているのかも知れない。そんなことをふと考えた。
中学生くらいになると、世渡り上手で本心を隠す子が台頭してきますが、そういう子を文学に使うのはつまらんのです。私は。
成績良くても無邪気で、だからこそ出生の秘密に傷付く姿が愛しいです。若さならではの感受性の鋭さを上手く描けているといいのですが。