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出生の秘密

 第53回群像新人賞落選分を加筆訂正しました。

 自分が強姦によって誕生したと近山つぐみが知らされたのは、つい先程のことだった。つぐみを養育する近山貞子(ちかやまさだこ)が、真夜中過ぎに酒にしたたかに酔っ払って帰宅した後に、口をすべらせたのだった。

 帰宅時のスーツ姿のまま化粧も落とさずに寝入ってしまった貞子を、つぐみは眺めた。のろのろとした動作で布団をかけてやると、つぐみはぼんやりと家の中を見渡した。

 貞子の両親である祖父母が残してくれたこの家は、部屋数が五つあり、貞子と二人で暮らすには充分な広さだった。貞子の妹であるつぐみの母親は、つぐみを産み落とした後に亡くなってしまったし、三十五になった貞子は未だ結婚していない。

 貞操の貞の字を取って名づけられてしまった伯母は、三十五になっても、貞操を捨て去ることができないのだろうか。そんなことを考えたこともあるつぐみだが、しかしつぐみは貞子が美しい女であることを知っていた。言い寄る男などいくらでもいるだろうに、貞子が結婚をしないのは、自分の存在があるからだろうかと、つぐみは日頃から勘繰っている。

 貞子はつぐみにとって良い保護者だった。つぐみは貞子に感謝しつつも、恨んだことなど一度も無かった。だが今夜の失言はあんまりだ。つぐみは二階の自室へ向かいベッドに置いてあった目覚まし時計を手に再び一階に戻り、ルージュの剥げかけた貞子の口元を眺めた。

 素のままでも、まるで紅を差したかのように赤い、貞子の少し開かれた唇からのぞく粒ぞろいの歯列は真珠のように輝いた。その赤と白のコントラストは、ぞっとする程美しい。

 この寒気がする程、美的な唇から漏れた忌まわしい秘密。つぐみは震える指でアラームをセットすると貞子の枕元にそれを置いた。

 貞子の立てる健やかな寝息の中で、つぐみは

「体調が悪いので学校を休みます。連絡お願いします」

 と広告の裏に走り書きした。紙の上で黒光りするインクの文字は、ぶるぶると震えていた。つぐみはそこに自分の動揺を見た。

 書き直すべきだろうかと、一瞬つぐみは考えた。が、すぐにそんなことをしている場合ではないと悟り、広告をテーブルに置いて階段を駆け上がった。早く嗚咽を自分に許さなくてはどうかなってしまいそうだった。

 自室に入りベッドに潜り込むと、つぐみは声を殺しながら泣きじゃくった。拭っても拭っても、留まるところを知らない涙を枕に吸わせる。人体の七割は水分でできているという話を、つぐみは思い起こしていた。人にそれだけの水分が必要なのは、ひょっとしたら不意の悲しみに待機するためなのかも知れない。そんな気がした。

 瞳が海になりそうな程、塩辛い涙を流しつくした挙句、明け方近くになってようやく眠りがつぐみの元を訪れた。けれどつぐみは夢の中でも苦悩と戦っていた。自分の体内に流れる忌まわしい血が、つぐみを捕らえていた。人体の七割を占める水分の中に潜むその血が、流した涙によって濃度を高めてしまったであろうことも。

「あたしの体内を駆け巡るこの汚らわしい血潮。お願い。いっそ猿の血と取り替えてしまって」

 舌をもつれさせながら叫びつつ、つぐみはまだ見ぬ父親を夢想した。写真でしか知らない母親の顔は、貞子によく似た美しい顔立ちだ。けれどつぐみは貞子にも母親にも似ていない。

 父親の種は、自分の外見にだけ作用したのだろうか。そう思いながらつぐみは夢の中で姿身を眺めた。左右逆転の世界の中につぐみは父親の顔を見た気がした。けれどその映像を捉えようともがく内に、つぐみの浅い眠りは破られるのだった。

 腫れ上がったまぶたを開くと、閉ざされた雨戸とカーテンによって作られた漆黒の闇があった。つぐみはベッドスタンドのスイッチを手探りで押したが、枕元に生まれたその灯にすぐさま身を固くした。明るさというものが、つぐみには酷く恐ろしく感じられた。慌ててスイッチを切った。再び暗黒がつぐみの視野を満たしたが、今度はその暗がりがつぐみをおびえさせた。

 光におののき闇に震える、ナチスドイツ支配下のユダヤ人のような気分になりながら、つぐみは意を決して、再度ベッドスタンドを点けた。照明が壁掛け時計をほのかに照らした。時計の針は九時を少し回っていた。

 四時間は眠ったということだろうか。つぐみはゆっくりと上体を起こした。雨戸とカーテンを開け、部屋に陽光を取り込むことも、再び部屋中を暗闇で満たすことも選択できない。仕方なくつぐみは、チェストの前に立った。チェストの上には鏡が置かれドレッサー代わりになっている。鏡の中のつぐみは、赤く腫れぼったいまぶたをしていて、せっかくのくっきりとした二重まぶたが台無しになっていることが、薄明かりの中でも確認できた。

 泣き明かした時間が、自分のかんばせに与えた無残な結果に気落ちしつつ、つぐみはベッドスタンドを点けたまま、部屋のドアを開けた。廊下に差し込む陽の光がつぐみをたじろがせたが、つぐみは歯を食いしばるとスリッパにぐいと足を入れて床に踏み出した。

 階段にも台所にも初夏の陽射しが満ちていて、まるで自分の出生の秘密が、光の下に露にされたような落ち着かない心地になった。しかし家の中に人の気配が無いことが、幾分つぐみの心を救った。家人の不在の証明のように、食卓の上には

「オハヨー。元気印のツッタンが、具合悪いなんて珍しいねえ。何かあったらメールして」

 のメモが残されていた。

 自分が昨夜残したメモ書きの下に書き加えられた、貞子の踊るような文字を眺めていたつぐみは、思わず

「何が『元気印のツッタン』だよ。両親に死なれて、伯母さんに引き取られてる女子中学生が、元気な訳ないだろ」

 と苦々しくつぶやいた。この屈託の無い文章から察するに、貞子は昨夜の失言をすっかり忘れているのだ。全く酒というものは何て便利な代物なのだろう。そして酒による失言は、こうして酒を禁じられている未成年者へ降りかかった。

 つぐみは虚ろな目で食卓の上を眺めた。空になったコーヒーカップの隣に、シリアルのかけらと牛乳がこびり付いた器と、スプーンが置かれている。今朝は貞子が朝食当番だったはずだが、自分一人だったためコーヒーとシリアルで済ませたのだろう。

 自分も何か食べた方が良いのだろうかと、つぐみは考えた。何しろこんな体験は初めてだから、学校を休んだものの何をしたら良いのか分からない。

 だがじっと使用済みの食器を眺めている内に、つぐみは胸がむかついてきた。一体何のために栄養をとるのか、つぐみにはよく分からなくなってきた。強姦により望まれずに生まれてきた自分。母親はあたしを堕ろせば良かったのだ。そうすれば今あたしはこんな気分に侵されることもなかったのに。

 そう思うとまた涙が突き上げてきて、つぐみはひとしきり慟哭した。それは苦い涙ではあったが、貞子の不在のおかげで、声を上げて泣きじゃくることができることが少しありがたかった。

 けれどそのありがたさは、高所恐怖症の人間が、ジェットコースターで叫ぶことを許された程度のありがたさでしかなかった。しかも自分の嗚咽が、自分のやりきれなさを改めて自分に教えているようで、泣けば泣く程、自分が窮地に陥るかのような心地さえした。

 つぐみは泣くのを止めると、ティッシュで顔を拭った。泣き腫らした顔が擦れて痛かった。目が腫れていることを思い出したつぐみは、電気ポットでお湯を沸かすと紅茶のティーパックを二つ使って、紅茶を煎れた。

 流した涙によって、体内の水分濃度が高まり血が濃くなってしまっていることを憎悪したつぐみは、紅茶を飲むことによる水分補給を考えたのだった。冷ました紅茶のティーパックをまぶたに乗せておくと、腫れがひくのだとつぐみに教えてくれたのは、他ならぬ貞子だった。

 貞子の言葉によってまぶたを腫らし、貞子の言葉によってそれを解決しようとしている自分を奇妙に思いながら、つぐみは砂糖もミルクもジャムも入れずに、濃い紅茶を飲んだ。二つもティーパックを使ったせいか、その味には酷くえぐみがあった。

 紅茶をすすりながら、なぜ母親は自分を生んだのだろうとつぐみは考えた。生きていれば問い詰めることもできたが、死んでしまった者には何も言えない。望まれず強制された性行為の結果でも、女は生みたいと思うものなのだろうか。けれどそれは勝手な感慨だとつぐみは考えた。母親はあたしのフォローをせずに死んでしまった。無責任だ。

 でも一番いけないのは、母親を犯した父親なんだろうと思った。彼は今頃どこでどうしているのだろう。あたしという娘がいることを知りもせず、もしかしたらどこかで幸せな家庭を築いているのかも知れない。そう思うと憎悪が体中を貫いて、いてもたってもいられなくなった。

 ごくごくと紅茶を飲み干すと、つぐみはティーパックが冷めていることを確かめ、それを皿に乗せて二階へと運んだ。自室に足を踏み入れると、ベッドスタンドが自分の枕を照らしているのが見えた。昨夜散々あたしの涙を吸い取り、すっかり塩辛くなってしまった枕。

 つぐみは枕が、自分の嘆きの結晶であるような気分になった。ベッドに入り枕に頭を乗せると、つぐみは目を閉じてティーパックを左右のまぶたに乗せ、手探りでベッドスタンドを消した。常闇がつぐみを襲ったがつぐみは闇の中に先程の夢の残骸を探した。姿見の向こうにほんの刹那現れた父親の姿を、必死に追い求めた。

 つぐみのどす黒い脳裏の中で父親は捕らえられた。こんな奴はとつぐみは思った。こんな奴は猛烈に苦しんで死ななければならないのだ。

 父親の体を鉄のベッドに寝かせると、つぐみはその手足に鎖を絡ませた。突然の出来事に恐怖に目を見開く父親を眺めながら、毎日時間をかけて、ゆっくりと殺してやったらどうだろうとつぐみは考えた。

 一日目は右手の親指の爪を剥ぐ。二日目には人差し指の爪を剥ぐ。そうして手足の爪を全部剥いでしまったら今度は手足の指先を、一日一日ゆっくり時間をかけて第一関節から切り落とす。途中で死んでしまわないように栄養剤を点滴で打ち輸血を続けながら。血まみれの人間に、苦痛の軽減以外の最良の治療を施しながら、じっくりと確実に殺してやるのだ。

 そんな想像をしていたら何だか甘美な気持ちになって、つぐみは再びの眠りについた。父親を虐殺することがこんなにも心の慰めになるなんて、自分は最低の人間だと感じながら。

 目覚めた時、つぐみは頬に当たるティーパックの感触にひやりとした。ベッドスタンドを点けると、いつの間にか落下していた二つのティーパックが、枕に茶色いシミを作っていた。つぐみは無感動にそれを眺めると、ベッドから降りてドレッサー代わりのチェストの前に立った。まぶたの腫れは見事にひいていた。

 まぶたが腫れた場合の処置を、事前に教えてくれていた貞子に、ふと感謝の念が芽生えた。枕カバーを汚してしまったことについても貞子は小言一つ言わないに違いない。貞子は根の善良な親切な女だ。こんな生い立ちの自分を、何食わぬ顔で育ててくれている貞子に、つぐみは頭が下がる思いがした。自分だったらいくら妹の子とはいえ強姦で生まれた子など世話したくない。それなのに貞子はよくも今日まで自分を育ててくれたものだ。

 自分は立ち直らなければならないのだろうと、つぐみは考えた。こんな忌まわしい出生の秘密を知った以上、もう生きていたくはないけれど、自殺などしてしまってはこれまで育ててくれた貞子の顔に泥を塗ることになる。そしてつぐみは、貞子にもこの件を持ち出してはならないのだ。自分の失言を知った以上、貞子が罪悪感に駆られてしまうだろうことは疑いようが無いから。

 誰かに全てを打ち明けて、泣いてみたいとつぐみは思った。けれど適当な人物は誰も思い当たらなかった。この問題はヘビー過ぎる。つぐみはこの件を一生抱えながら口を閉ざしていなければならない。

 彼女の名はつぐみ。口をつぐんでいるようにと与えられた名前。




「何か、食べた?」

 パジャマ姿のまま玄関に出迎えたつぐみに、シャツとパンツ姿に、レジバッグをぶら下げた貞子が尋ねた。貞子はこの春、課長代理に昇格し銀行内でも私服着用になったため、通勤時の格好が、以前よりもオフィス向きになった。

 ほんの数時間前までは、貞子に感謝していた。しかし一日家で無為の時間を過ごしていたつぐみには、貞子のいかにも外でばりばり働いてきましたといった雰囲気が煩わしく感じられた。そこで「食べてない」と不機嫌そうに答えた。栄養を取ったりしてどうするのだという気がした。強姦によって生まれてきた自分、父親の顔を知らず母親に死なれてしまった自分が。

「何にも食べてないの? どんなに具合悪くしても食欲だけはあるツッタンが」

 貞子が切れ長の目を丸くした。

 それは自分の生い立ちを知らなかったからです。強姦によって生まれた命だと知っていたら、どうして食べ物が喉を通りましょう。

 つぐみが頭の中でつぶやいていると、貞子が

「うどんなら食べれる? ツッタンの好きな鶏ガラスープ」

 と問いかけながら鶏のガラをレジバッグから取り出した。五十円の表示が見える。安くて旨い鳥ガラスープ。

「いただきます」

「お、食欲出たか?」

 いえ、伯母さんの好意を無にしたくないだけです。こんな卑しい生い立ちのあたしのために食事を作って下さるんですもの。ごめんなさい。伯母さん。こんなあたしのことを汚らわしいとお思いでしょうね。でも人情で、あたしのことを育てて下さっているのですよね。あたしなんて施設にやられてしまっても仕方ない身の上だというのに。

 ぼんやりとして返事をしないつぐみに、貞子は

「熱、計りなさい」

 と体温計を渡した。つぐみは体温計をわきの下に挟みながら

「夏風邪なんてひくのは、馬鹿だけでございます」

 と答えた。

「なあに、夏風邪ひいたから自分は馬鹿だと思って落ち込んでる訳?」

「いえ、あたしは元々馬鹿でございます」

「熱計りながら喋るんじゃないの。正確に計れないよ」

 伯母さんが話しかけてきたくせにとつぐみはふくれたが、すぐに自分は、ふくれる資格など無いのだと思った。こんな卑しいあたしに体温計を貸して下さるなんて、それだけでもったいない話でございます。

 貞子が自室に行って、バッグを置き腕時計やアクセサリー類を外して戻って来た時、ピピッと体温計が鳴った。取り出すと液晶は37度5分を示していた。貞子が覗き込みながら

「少しあるね。やっぱ風邪じゃないの」

 と弓なりの眉をひそめた。

「風邪ではなく、血液が逆流したんだと思います」

「何でツッタン今日、ですます調なの」

「あたしにふさわしい言葉遣いはこれだと、気付いたのでございます」

「変な子ねえ。まあふざけてる余裕があるんならいいけどね」

 貞子はそう言いながらエプロンを着け、朝食に使った食器を洗い、うどん作りに取りかかった。つぐみは食卓の椅子にもたれながら、そういえばこんな風にして伯母の姿を眺めることは、久しく無かったなと考えた。

 近山家では家事を分担している。基本的に食事作りは当番制だが、掃除洗濯は手が空いた者が行なう。とはいえ圧倒的に休日が多いのはつぐみの方だから、学校が休みの日は主につぐみが行なう。

 役割分担があるとはいえ、片方が家事をしている間、もう片方がぼんやりしているなどということは無い。ぼんやりしている時間があれば二人で家事を行なうし、時間が無ければ、それぞれ自分の用事を済ます。

 だからこんな風に、食事を作る貞子の姿をつぐみがぼんやりと眺めるのは、滅多に無いことだった。つぐみは新鮮さを感じつつもこれが母親だったら良かったのにと思った。

 母親だったなら問い詰めることができる。なぜ生んだのだと問い詰めることができる。だが相手は伯母だ。つぐみは伯母に対しただひたすら申し訳ない思いを抱くしかない。

 強姦というものを考えてみた。つぐみが強姦という行為を知ったのは小6六の頃、セックスという行為を知ったのは小五の頃だった。

 セックスという行為を初めて知った時は、ひたすら気色悪かった。自分もそんな行為を経て生まれてきたとは驚愕だった。しかも母親の股を通って生まれてきたとは。

 けれどセックスを知った後も、世の中は相変わらずいつも通り進んでいた。こんな驚愕の事実を前にしても、当然のように世の中が進んでいるのを見るにつけて、つぐみは自分が間違っているのだろうかと考えた。

 小学生の頃、プールを気持ち悪いと思ったこと。皆のお尻が浮かぶプールに顔を浸けるのが嫌だと思ったこと。けれど周囲に誰もそんなことを言う者がいなかったため、自分がおかしいのだろうと思い、我慢してプールに入ったこと。その内気持ち悪いと感じていたことを忘れ慣れてしまったこと。

 だからセックスも我慢していれば、その内慣れるものなのだろうと思ったこと。そして今現在自分は、処女でありながら慣れてしまったこと。

 だが強姦という行為を知った時の、打撃は忘れられなかった。好きな相手とさえ抵抗のあるあんな行為を、力ずくで強引にやろうとしてくる男がいるなんて。全く何ていう世の中だろう。

 もし神様が本当にいるのなら、どうして女の力を弱く造ったのだろうと、つぐみは素朴な疑問を持った。性的な欲望が強いのは男の方なのに、腕力まで与えられているからこういうことが起きるのだ。もし神様がいるのならあまりに酷いと思う。神様はあたしの、そして女の味方じゃないのだと思う。

 不意につぐみが、引きつけを起こしたような声で泣き始めると、貞子がぎょっとした顔で、「どうしたの」と振り向いた。

「伯母さんは何であたしを育ててるの。実の子でもないのに」

 泣きじゃくるつぐみにうろたえながら、貞子は

「いや途中までは、おじいちゃんおばあちゃんが育ててたじゃん? その後おじいちゃんたちが死んじゃったから、そのままこのうちで育ててるんだけど」

 と答えた。本当はつぐみがそんな返答を求めている訳ではないことは分かっていたが、しかしでは何と答えれば良いのか、貞子にはよく分からなかった。

「おじいちゃんたちが死んだ時点で、あたしのことなんか、施設に入れれば良かったじゃない」

 今や涙を流し慣れてしまった頬に、大粒の涙をこぼすつぐみに、貞子はティッシュを箱ごと渡すと

「なあにもしかして、第二次反抗期?」

 と尋ねた。

「何それ」

「だから第二次反抗期よ。ああ良かったあ。ツッタン良い子だからさあ。ほら伯母さんもホントの母親じゃないし、ツッタン第二次反抗期を迎えられないんじゃないかって思ってたんだけど迎えてんじゃん。いいよいいよその感じ。何でも言いたいこと言っちゃいなよ」

「だから何で、おじいちゃんたちが死んだ時点であたしを施設に入れなかったのよ」

 話が変な方向へ向いていることは分かっていたが、つぐみはそれで良いと思っていた。これを貞子が、第二次反抗期だと誤解するならそれで良い。反抗期を歓迎される程、自分は貞子に愛されているのだから。昨夜の貞子の失言を口にできない以上、昨夜の貞子の失言で自分が参っている以上、何らかの形でつぐみは爆発することが必要だった。

 貞子は涙でぐしゃぐしゃになったつぐみの顔を覗き込むと

「ツッタンは、施設に入りたかった?」

 と尋ねた。「入りたくない」とつぐみは答えた。

「でしょ。施設って何かと行き届かないもんね。だからツッタンはそのままうちで育てることにしたの。ツッタンのパパの方のおじいちゃんたちはとっくに亡くなってたしね。あちらは一人っ子だったから、あちらにはツッタンのおじさんもおばさんもいないし」

「でもあたしがいるせいで、伯母さん結婚できないんじゃないの」

「どうして? 連れ子がいても再婚する人なんていっぱいいるじゃない。その上こちとら初婚なのよ」

 貞子はおどけて見せたが、しかしつぐみの言葉にぎくりとしていた。確かに貞子が結婚をしないのは、つぐみの存在も理由の一つだった。

 妹の正子(まさこ)が強姦により妊娠し、その上子供を生むと言い出した時、貞子は言葉にならない程の衝撃を受けた。正子には

「強姦だってことはお父さんとお母さんには黙ってて頂戴。好きな人の子供を妊娠して一人で生むんだってことにして頂戴」

 と頼まれていたから、そのことは貞子しか知らない。

 ひと悶着あった後、両親は出産を許したけれど、出産に耐え切れず正子が死んでしまってからは、やはり生ませたことを後悔していた。そしてあの時中絶に反対しなかった貞子がつぐみの世話をすることは、両親からの無言の圧迫があったからに他ならない。

 例え妹の子とはいえ、強姦により生まれてきた子供を可愛がることができるだろうか。当初はそんな不安が胸をかすめたものの、実際子供が生まれてしまえば、そんなことを考えている余裕は無くなった。銀行員として働く貞子は、昼間は両親につぐみの世話を任せていたが、帰宅してからは戦場だった。

 何せ生まれたての赤ん坊は、四時間ごとに乳を欲しがる。その他にもオムツが濡れたといっては泣き、ベビー服のゴムが食い込んだといっては泣く。

 目の前に何も知らず泣き続ける赤ん坊を見ては、貞子はあれこれ考える前に、赤ん坊の世話をしなければならなかった。哺乳瓶を宛がいミルクをやると、つぐみは黒々と濡れた瞳で貞子の目をじっと見詰めた。ついテレビなどに気を取られていると、つぐみはこっちを見ろと哺乳瓶から口を離して泣き出した。

 こんなにもストレートに、自分を愛してくれとアピールする生き物に出会ったのは、貞子は初めての経験だった。そうよね。お前はママを亡くして寂しいのよね。本当なら今頃ママの乳房を吸っていたはずなのよね。

 貞子は次第につぐみが愛しくなりだした。正子の代わりにこの世にやってきた、小さくて湿っぽくて良い匂いのするフワフワした生き物。出生がどうであれ、この子を憎むなんてできない。

 正子に外見が似ていたせいだろうか。つぐみは貞子によく懐いた。つぐみは顔立ちは正子に似ていなかったけれど、ふとした時に見せる表情やしぐさが正子によく似ていた。死んだ正子の分まで貞子はつぐみを可愛がった。つぐみの出生の不幸すら、むしろ貞子にとってはつぐみを愛する要素になっていた。こんな不幸な生い立ちのつぐみを、少しでも幸せにしてやらなければと思った。

 結婚を申し込む男は何人もいたが、貞子はその気になれなかった。自分が人並みの家庭をつくることによって、つぐみの不幸が浮き彫りになってしまうことが怖かった。幸せな結婚をしなくても、強姦によってでも子供は誕生してしまうのだ。そして母親が子供を産んだ直後に、死亡してしまうケースも。

 そんなケースを真近で見ておきながら、その対象であるつぐみに、自分の幸せな結婚生活や、それによって授かるであろう子供を見せることが酷に思えた。だから貞子は結婚をしなかった。

 けれどそれをつぐみに言っては負担になるだろう。だから貞子は、傍目には独身主義者を気取っていた。だがつぐみも年頃だ。三十も半ばだというのに結婚をしない貞子に対し、自分の存在が重荷なのではないかと考え始めたようだ。

 それが証拠につぐみは

「連れ子がいる人なんて珍しくないけど、あたしは伯母さんの姪じゃん。相手が姪っ子連れなんて特殊でしょ。そのせいで伯母さん結婚できないんじゃないの? だったらあたしなんて施設に入れてくれていいんだよ」

 と言い出した。

「でもツッタン、施設嫌なんでしょ」

「嫌だけど、伯母さんがあたしのせいで結婚できないならそっちの方がもっとやだ」

「嫌だ。ツッタンのせいじゃないわよ。伯母さんの男運が良くないの。伯母さんあんまりモテないのよ」

 答えながら貞子は、そうだわたしはモテないと考えていた。プロポーズしてくる男が何人かいたからといって何だろう。結局結婚したいとまで思い詰めた相手からは、何の約束ももらえなかったではないか。たいして好きではない男から、何度かプロポーズされたからといって何だろう。つぐみの存在が無くても、ひょっとしたら自分は結婚をしなかったのではないだろうか。

 そんなことをうっすらと考えていると、つぐみが

「嘘。伯母さん美人なのに」

 と疑わしい目をした。若いということは何て単純なんだろうと、貞子は微笑ましく思った。

「あのね美人っていうのは案外モテないんだよ。近寄りがたいの。ツッタンみたいな可愛い系の方がモテるの」

「そうなの?」

「そうだよ。ツッタンにも今に分かる。これからいっぱい色んな恋をしてそして分かる。美人っていうのは傍から見る程、幸福じゃないんだってことがね」

 それはあたしの母親のことを言っているんだろうかと、つぐみは考えた。もし母親が美人じゃなかったら、誰も強姦なんてしなかったかも知れない。美人が受けるべき幸福を何一つ受け取らない内に、二十歳の若さで死んでしまった哀れな母親。

 つぐみは母親を悼みながら、ふと

「ねえあたしって、パパに似てる?」

 と尋ねた。貞子は一瞬ぎくりとしたが

「そうね。ツッタンは顔は正子似じゃないし外見はパパに似たかな」

 と答えた。

 つぐみには両親は結婚していたと、つぐみが生まれる前に、父親が事故で他界してしまったと伝えてあるために、そう答えるのが無難だと貞子には思われた。

 母親を強姦した男が、あたしに伝えたかんばせが、伯母さんの言う通り今後、男を引き付けるとしたら、それは何て皮肉なことだろう。つぐみが物思いにふけっていると不意にキッチンタイマーが鳴り出した。どうやらうどんが茹で上がったらしい。

 鶏のガラで出汁を取り、ワカメとネギを乗せたうどんをすすりながら、しばし二人は無言だった。つぐみはもっと貞子に聞かねばならないことがある気がした。けれどこれ以上何を聞いたら良いのか、よく分からなかった。

 その内固定電話が鳴り出した。ケイタイが主流になった昨今、固定電話が音を立てるのは珍しい。

 貞子は久しく持ち上げていなかった子機を取ると

「あら、久し振りねえ」

 と意外そうな声を出した。誰なのだろうとつぐみは思ったが、すぐに好奇心の扉は閉ざされた。どこの誰が久方ぶりに受話器の向こう側に現れようと、自分が強姦によって生まれたという事実の前には、どうでも良いことに思えた。

 そんなつぐみの思いも知らず、貞子は子機を握りながら

「自宅に電話してくるなんて、誰かと思ったわ」

 とか

「そうよね。あの頃はまだケイタイなんて無かったものね」

 などと華やいだ声で会話を交わした後、子機を置いて、せかせかとつぐみの元へやって来た。その頬は先程の通話によってバラ色に輝いていた。

「伯母さんちょっと出かけて来るけど、いいかな」

 その問いかけに、つぐみは不審を覚えた。貞子は友人や知人と会う際は事前に約束をしておくタイプだ。もしかしたら本当は突然の誘いに乗りたい日もあるのかも知れないが、中学生の自分を残して、夜間に再び外出をすることが引け目であるらしい。だから貞子は平日の予定は前もってつぐみに告げ、帰宅前にこなしている。

 そんな貞子が、昨日メール一通で帰宅が遅くなることを告げ、挙句の果てに真夜中過ぎに帰って来たこと事態が珍しいのに、その翌日に更に出かけようとするのは、一体どういう訳だろうか。

 だがつぐみは

「ご飯も食べたし、平気」

 と興味無さそうに答えた。自分が強姦によって生まれたという事実を知った今、貞子が珍しい行動を取ろうとどうしようと、そんなことはどうでも良いことに思えた。

「熱そんなに無いんだし、気力あるならお風呂入っときなさいよ。食器はそのままでいいから」

「気力無いから、お風呂は入らない」

 断じて入ってなどやるものかと決意しながら、つぐみは答えた。微熱の際は入浴して発汗を促した方が体に良いことは知っていたが、今のつぐみにとっては、そんなことはどうでも良いことだった。昨夜の貞子の衝撃発言によってショックを受けたのだから、今日はありとあらゆることをサボってやるのだ。

 つぐみが積極的に怠惰になっていると、貞子は

「じゃあ、おとなしくしてなさい。明日も学校休むの?」

 と優しく尋ねた。病気の姪を一人置いて夜になってから外出することが、貞子は心苦しかった。

「起きた時の、調子で決める」

「じゃあなるべく、早く寝なさい」

 そう言い残すと、貞子は洗面所で歯を磨いた。外出先で何かをつまむことになるだろうことは分かっていたが、今夜はどうしても口腔を清潔にしてから出かけたかった。

 歯のブラッシング音が口をすすぐ音に変わると、つぐみはようやく立ち上がり、貞子と入れ替わりに洗面台に立って、歯を磨いた。今日はありとあらゆることをサボってやるつもりだったが、このまま自室に引っ込んだりしては、貞子に歯を磨けとどやされることは必至だった。貞子は優しい女ではあるがしつけは厳しい。

 しかしただ歯を磨くというただそれだけの行為に、勇気を持つことが必要な程、つぐみは疲れていた。つぐみはいい加減に歯ブラシを使うと、そそくさと自室に向かった。

 隣の貞子の部屋から、がさごそ音がしていた。おそらく食事で落ちたルージュでも塗り直しているのだろう。つぐみは照明を消すと、フローリングの床にぺたんと座り、ベッドに上半身をもたれさせた。化粧直しの時間がいつもより幾分長いような気がしたが、しかしそんなことはどうでも良いことに思われた。

 ようやく

「じゃあツッタン、伯母さん行くからね」

 の声がかかり、つぐみが

「はあい。おやすみなさい」

 と返事をすると、パタパタと階段を駆け下りる音の後に、バタンと玄関のドアを閉める音と施錠音が響いた。同時に学習机の上からメールの着信音が流れてきた。

 つぐみが半身を起こしてそちらを見やると、闇の中で、ケイタイがちかちかと点滅していた。つぐみは照明も付けずにケイタイを手に取りそれを開いた。学校を休んだことを心配した級友たちからのメールが入っていた。部屋を出ていた間にも、すでに二件着信していた。そういえばいつものあたしなら、部屋を出る時にもケイタイを離さないのにと考えながら、つぐみはメールを読んだが、すぐにパタンとケイタイを閉じた。

 画面に散りばめられた顔文字や絵文字に、果てしない距離を覚えた。自分が知ってしまった事柄を、どうしてそんな浮かれた文字で伝えることができるだろうか。

 彼女たちはこのような文字を使う浮かれた世界にいるのだなと、つぐみはぼんやりと思った。大丈夫? とか、心配だとか、ツグミンがいないとつまんないだとかの、言葉の後に添えられた泣き顔やら涙マークやらが、何だか空々しく感じられた。涙も枯れ果てた後はこんなものを使う気にも見る気にもなれないのだと初めて知った。けれどつぐみも、ついこの間までは彼女たちの世界にいたのだ。メールに若々しい文字を散りばめていたのだ。

 昨日の今頃はまだ、向こう側の世界にいたのにとつぐみは懐かしく回想した。向こう側の世界に戻りたかった。そして無邪気に、風邪でダウンしたとギャル文字を打ち込み泣き顔を添えてみたかった。けれどそんな簡単な嘘を送信する作業すら億劫で、つぐみはごろりとベッドに寝転がり頬を枕に付けた。干からびた紅茶の匂いが鼻を刺した。

 ティーパックを使う程に、まぶたが腫れる程に、自分は涙を流したのだなとつぐみは思い起こした。昨日の今頃はこんなことになるなんて夢にも思わなかったのに。

 強姦だとか何とか、全て嘘だったら良いのにと思う。いっそあたしの中では嘘だったということにしてしまおうか。伯母さんはきっと酔っ払って、ありもしないことを口にしたのだ。

 自分を騙しながらつぐみは眠りについた。無かったことだと思えば良い。そうすれば昨日までの日常が、返ってくるはずだと信じながら。




 つぐみが眠りに落ちる頃、貞子は一件のバーの前にいた。このバーに来るのは十四年振りだ。以前と比べて外装がすすけているように見えるけれど、暗がりだからよく分からない。

 この扉の向こうで貞子を待つ男の姿も、十四年の垢をかぶり、すすけてしまっているのだろうか。それとも暗い照明が男の垢を隠すだろうか。

 思い切ってドアを開けると、薄闇の奥に目当ての男の姿が見えた。シェーカーを振りながら「いらっしゃいませ」とつぶやくバーテンに、軽く会釈をし、男の待つ奥のボックス席へと進む。バーテンは若い男だ。以前の初老の男はどこへ行ったのか。息子かも知れない。

 ボックス席で煙草をくゆらせていた男が

「ここ、すぐ分かった?」

 と微笑みながら尋ねた。貞子は腰を下ろしながら

「周りが随分変わっちゃったから、戸惑っちゃった」

 と答え店内を見渡した。

 客は他に二組。内装は変わっていないように見えるがメニューは新しくなっている。貞子は少し迷った後ジントニックを注文した。

「相変わらず、ジントニックが好きなんだね」

 と男はつぶやいた。声は以前と変わらず染み入るようなバスだ。年相応には老けたけれど、かえって苦みばしった魅力がかもし出されている。

「相変わらず、ミックスナッツも好きよ」

 と貞子は答えながら、卓上のミックスナッツをつまんだ。わたしは老けたと思われているだろうか。当時は二十一だった。美の絶頂期にいたあの頃と同じカクテルとつまみを愛する自分。

 何だか滑稽な気分になって貞子が頬を緩ませると、男は突然

「俺は相変わらず、貞子が好きだよ」

 と言った。その瞬間貞子は、自分が十四年もの時をタイムスリップしたような気分になった。あああの頃に帰れたら。自分は若く美しく隣にはこの男がいた。正子はまだ強姦などされていなかった。あの頃に帰れたら。

 けれど貞子はくすりと笑うと

「そんな言葉は、結婚指輪をしたまま言ってはいけないのよ」

 とたしなめた。席に着いた時から気付いていた。男の左手の薬指に光るリング。男は結婚している。驚くには当たらない。彼はもう四十なのだから。

 ところが男は指輪には目もくれずに

「妻は、亡くなったんだ」

 と淡々と答えた。

「いつ?」

「半年前かな。病気でね」

「奥さんが亡くなっても、結婚指輪って外さないものなのね」

 少しガッカリしながら貞子は答えた。男が北海道に転勤になったことをきっかけに、貞子は男と別れた。男は転勤先で妻を娶りそしてやもめになった。それでも相変わらず男の薬指にはまる指輪に、貞子は軽く嫉妬した。

「娘の目があるからね。指輪はおいそれと外せない」

「お子さんは、お嬢さんだけ?」

「ああ中学一年だ。北中に転入することになった」

 つぐみと同じ中学校だと貞子は思い当たり、ふと男の娘の姿を見てみたいと思った。娘は父親似だろうか。それとも母親似だろうか。

 そんなことを考えていると男が

「貞子は指輪は?」

 と尋ねてきた。

「見ての通りピンキーリングだけよ。この指には一度も何もはめたことありません」

 そう言って貞子が自分の左手の薬指を指すと、男は

「その割には、夫がいるかのような指先だ」

 と貞子の手元を見詰めた。

「そう?」

「マニキュアはしてあるけど短くて平たい。ネイルアートもしていない」

 気付くと男は貞子の白い手を握り、一本一本の指を愛撫し始めた。指先からぱあっと男が流れ込んできたような気がして、貞子は胸をドギマギさせた。こんな気分を味わうのはどれくらい振りだろうか。確かなのは、それがいつのことだったのかもう思い出せない程の時間が流れたということだけだ。

 貞子は手を引っ込めたものかどうか迷いながら

「実家は出ていないけれど、母が亡くなったの。姪と二人で暮らしてるから家事をしなきゃなんないのよ」

 と上ずった声で答えた。

「お母さんが?」

「ついでに父と妹も。妹が残した子が今十三歳。出産もしてないのに未婚の母になった気分よ」

「妹さんのご主人は?」

 男の質問に貞子は一瞬沈黙した。そうだこれなのだ。貞子が男に心を開けない理由は。つぐみが強姦によって生まれた子供であることを、貞子は誰にも言ったことがない。今まで付き合った男にも誰にも。

 言うべきではないのだろう。それを言うことによって、つぐみが汚されてしまう気がする。けれど作り話を披露する度に小さな罪悪感を貞子は覚える。わたしは男に嘘をついていると貞子は思う。本当は何もかも洗いざらいぶちまけて、わたしの心を救って欲しいのに、わたしは心を閉ざさざるを得ない。

 そう思うと、男との間に流れている時間も何もかも疑わしくなってしまって、貞子は自分が男を愛しているのかどうかさえ分からなくなる。だから貞子は男たちと別れてきた。

 そうだ、そうなのだ。わたしはつぐみのことが無ければやはり結婚していたかも知れないのだ。目の前にいるこの男にだけ心を開けたのは、正子が強姦される前に付き合っていたからであって、この男が特別な訳じゃない。

 ふと幻想から解き放たれた気分になった貞子は、男からそっと手を離すと

「姪の父親は姪が生まれる前に死んだの。父親の両親は最初から行方知れずで。わたしのとこ以外に行くとこ無いのよ、あの子」

 と静かな口調で答えた。深刻な話になったせいか、貞子が手を引っ込めたことを男はたいして気にしていないようだった。

「俺がいない間に、随分苦労してたんだな」

「たいした苦労じゃないわ。姪が小学生の内は両親は健在だったし、わたしはその間は片手間に世話してただけだもの。わたし一人で姪を育て始めたのは、ここ一年くらいのことだし」

「それじゃ貞子が結婚しなかったのは、姪っ子の存在があったからっていう訳じゃないんだ」

 どう答えれば良いのだろうと貞子は再び沈黙した。

 貞子が結婚をしなかったのは、つぐみの存在にも理由がある。男女が愛し合わなくても強姦という手段でも誕生してしまう生命。そんなものを真近で見ていたら、結婚をして子供を生むという普通の行為が、何だか分からなくなってしまったというのも事実だ。悲しいことに愛が無くても、子供というものは誕生し育ってしまう。

 もっとも祖父母や自分の愛情が、つぐみを育てたことに他ならないのだが、何というか貞子は、いわゆる普通の出産が特別なことに思えるのだ。何か自分からは遠い特別な出来事のような。

 その時男が、貞子のグラスが空になりかけていることに気付いた。男はバーテンに、ジントニックのおかわりと自分のために水割りをオーダーすると、再び貞子の切れ長の瞳を見詰めた。

 貞子は何やら甘い気分になって

「二十一の頃に付き合ってた人が忘れられなかったから、結婚しなかったと言ったら信じる?」

 と媚びを含んだ口調で尋ねた。お互いを嫌いになった訳ではない。ただ距離によって引き離された男との別離は、甘い思い出になって貞子の心に根付いていた。

「信じたいけど信じられないな。君みたいな美人が」

「やめてよ。わたしの外見だけに注目する他の男たちみたいなことを言うのはやめて。大抵の男にとっては、わたしの外見だけに意味があるのよ。皆わたしの内面を知ろうとしてくれない。わたしはずっと人形みたいに見られてきたのよ。そして失望を繰り返している内に三十五よ。散々人形扱いされた人間が年を取るって惨めなものよ」

「そうか俺だけだったのか。君の顔だけじゃなく中身も求めた人間は」

 そうよと貞子は思った。この人と別れた後、何人かと付き合って、美人だと褒め称えられて有頂天になっていたけれど、彼らはわたしの外見を絶賛するだけで、決してわたしの内面に入り込んではくれなかった。

 すると男は

「でも無理無いと思うぜ。お前は美人すぎる」

 と突然親しげな口調になった。貞子は再び十四年前を思い出した。友達の紹介で知り合って何度か逢瀬を重ねる内に、少しずつ変化していった男の口調を思い出した。

 そんな些細なことですら、あの頃どれだけ嬉しかっただろう。付き合ってもいつまでも自分をさん付けで呼ぶ男もあった中、時には下卑た言葉遣いをするこの男に、どれだけ自分の心は開かれただろう。今、男は時間を短縮してあの頃を再現している。何のために? またわたしの心を開くために? まさか。あれから十四年もの年月が流れているというのに。

「『美人すぎる』なんて……」

 と貞子は言いかけた。無意識が貞子を、謙遜を美徳とする日本人であることを伝え、否定するべきだと思った。しかし過去にも何度も、人に同じことを言われたことはあった。男もそれを承知の上で言っているのかも知れなかった。それにも関わらずおざなりに否定しては、心を閉ざしていると思われてしまいそうだった。男はこうして砕けた口調を使い始めているというのに。

 その時、男が

「いやホントに、お前は美人過ぎるんだよ」

 と責めるような声色で、貞子の惑う瞳を見詰めた。何やら欠点を指摘されているような気分になって貞子は男を見詰め返した。わたしを救って欲しいと思った。欠陥を持つわたしをどうか助けて欲しいと思った。

 男は再び貞子の手を握ると

「目が覚めるような美人なんて言い回しがあるけどさ、現実は目が覚めるような美人なんて滅多にいねえんだよ。目が覚めるようなブスなら案外いるけどな」

 とにやりと笑い再び貞子の手を愛撫し始めた。貞子は手を男に委ねたまま、そうかも知れないと考えた。

「その現実の中で、お前は例外的な目が覚めるような美人なんだよ。そんじょそこらの美人とは訳が違う。普通の男の目の前に例外的なお前が現れたら、そいつらがぶったまげて、お前の外見ばっかに気イ取られたって無理ねえよ」

 男の指が貞子の手の上を這い回る。言葉遣いは下品なのに、どうしてこの男の指使いはこんなにもソフトで優しいのだろうと思う。固く握り締められていた白い手が少しずつ解きほぐされていく。さっき男が「夫がいるかのような指先だ」と指摘した、マニキュアを施しただけの短い爪と爪の間が、じょじょに開いていく。

 だったらあなたは、自分が普通の男じゃないって言うの。自分は特別な男なんだって言いたいの。そんな思いが貞子の頭をかすめた。その時バーテンがテーブルの上にジントニックを置いた。貞子は左手を男の自由にさせたまま、右手でグラスを持ってジントニックをあおった。アルコールにしびれた脳が心地好い方の答えに貞子を押し流した。目の前にいるのは普通じゃない特別な男。例外的な美人のわたしには他に選択肢が無いと。

 男は言った。

「これからも連絡していいか」

「いいわ」と貞子は答えた。北海道転勤の間、妻を娶っていた男。それが何だというのだ。わたしにも恋人は何人もいた。この人だけなのだ。正子の事件が起こる前とはいえわたしの内面に踏み込むことができた男は。

 シャカシャカとバーテンがシェーカーを振る音がした。あの頃と変わらないと貞子は思った。例えそれが昨日のカクテルを振っているような音でも。




 自分は立ち直らなければならないのだろう。そう頭では分かっていても、体と心を納得させるのに、つぐみは更に二日を要した。

 その二日間の大半をつぐみは眠って過ごした。必然的にレム睡眠の占める割合が増え、悪夢を立て続けに見た。顔の無いのっぺらぼうの男が母親に襲い掛かる様を見ながら、体が金縛りに遭ったように動かず、もがき苦しんでみたり、自分がいつの間にか妊娠していて、膨張していく腹を抱えながら途方に暮れたり、または強姦とは無関係に思える災害や戦争の夢を見た。

 強姦の事実を知った時は、朝まで眠れなかったことを考えれば、例え悪夢を見ていたとしても、眠れている事実は体と心にとって良いことなのだろうか。そんなことを考え答えが出ないまま、つぐみは二日目の夜に級友たちにメールを返信した。

「レス遅れてごめんね。風邪でダウンしてたの。明日は学校行くね」

 ギャル文字も顔文字も絵文字も使わなかった。皆は多分、それだけ自分が参っているのだと察してくれるだろうと期待した。そして例え察してくれなくても、そんなことはどうでも良いことのように思えた。そんなことよりも、浮かれた文字は使えないまでも、メールを打てるようになっただけ自分が回復したことが重要だった。

 翌朝、三日ぶりに吸い込んだ外気も辺りを照らす太陽もつぐみは恐れなかった。けれど通学路を歩く制服姿の生徒たちの群れがつぐみを圧倒した。生徒たちの群れ。群れ。群れ。この中に強姦によって生まれた者は多分誰もいないのだろうとつぐみは思う。自分だけ。自分だけなのだ。

 これまでも自分のことを、異質な存在だとは思っていた。大抵の家には両親が揃っているのにつぐみにはいないからだ。離婚の多いご時勢だから、片親に育てられている子も珍しくはない。けれどつぐみのように、伯母に育てられている生徒はつぐみの知る限りいない。

 しかしそんなことは、今となってはたいした問題ではなかった。自分が強姦によって生まれてしまったことを知った以上、今の環境になどたいした意味は無い。自分は呪われた出生により存在するのだと思う。何やら自分一人が周囲から浮いている気がする。

「おはよう」と戸井苗美(といなえみ)が声をかけてきた。つぐみのクラスメイトであり、同じ吹奏楽部員でもある苗美は、つぐみと仲が良い。

「おはよう」と挨拶を返しながら、つぐみは思わず苗美の顔を見詰めた。屈託の無い顔だ。両親の揃っている苗美。父親はサラリーマン。母親は司法書士。感じの良い両親。優等生の苗美。両親のいないつぐみとも偏見を持たずに付き合ってくれる女友達。

 苗美が自分の出生の秘密を知ったなら、どうするのだろうとつぐみは思った。つい三日前までつぐみは苗美に何一つ隠し事をせずに付き合ってきた。けれどこれからは違う。これからつぐみは、一番の友人にすら出生の秘密を打ち明けずに付き合っていくのだ。あたしの秘密を知ったなら、あなたはひょっとして、あたしから離れていくのでしょうとおびえながら。

 どうしてこんなことになってしまったんだろうと、つぐみは思う。自分は今まで充分異質だったではないか。それなのになぜこれ以上異質でなければならないのか。なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのか。

 苗美になり代わりたいと願いつつ、けれどつぐみの視線は苗美の顔元で止まっていた。愛嬌はあるが美しくはない友人。目と目が離れたカエルのようなかんばせ。まるで骨が入っていないかのような低い鼻。放っておけばつながってしまう眉毛。

 苗美になり代わったなら、自分の容姿も苗美と交換することになる。そのことにつぐみは抵抗があった。貞子はつぐみを可愛い系だと言う。クラスメイトも時折つぐみの外見を褒める。

 外見が比較的良いということが、どれだけの恩恵にあずかれるものなのか、まだ中学生のつぐみには分からない。だが持って生まれた本能で、つぐみは苗美の顔と自分の顔を取り替えることを拒んだ。

 結局自分は、自分の出生をこれだけ呪っていながら、顔の皮一枚の話で、幸せな家庭生活を送る友人に、なり代わりたいという願いすら持てないのだという事実に、つぐみは戦慄した。自分を出生させた父親をこんなにも恨みながら、つぐみは父親に与えられたかんばせを捨てられずにいる。

 自分のことが何だか分からなくなり虚ろな足取りで歩くつぐみに、苗美が

「どうしたの。まだ具合悪いの」

 と心配そうに尋ねた。

「うん。ちょっとね。もうほとんど治ったんだけど」

「ツグミンが休んでる間に、部活に一人、新入生が入ったよ」

「え、こんな時期に?」

 うちの中学の部活は全員参加が基本なのに、六月になった今になって、ようやく入って来る子がいるとは意外だとつぐみは思った。しかしそんなことなど、どうでも良いことに思えた。どうせその新入生だって和姦によって生まれたのだ。そうやって運命は強姦によって生まれたあたしに、和姦によって生まれた人間との逢瀬を次々に与える。

 つぐみが顔には出さずにふて腐れていることには気付かず、苗美は

「その子、転入生なんだって」

 と告げた。

 なるほど転入生ならば、今から部活に入ってもおかしくない。つぐみが一人納得していると苗美は

「しかも、コンバス希望」

と続けた。

 コントラバス、通称コンバスはつぐみの担当だったから、どうでも良いとは言っていられなくなった。コンバスは元々人員が少ないパートのため、現在はつぐみ一人が担当している。そこにコンバス希望の新入生が現れたということは後釜ができたということだ。

「その子、コンバス経験あるの?」

「前の学校ではパーカッションだったんだって。でも今うち、パーカッション足りてるでしょ? それに本人が前々からコンバスに憧れてたらしくて」

「何ていう名前の子?」

 つぐみの問いに、苗美は一瞬顔をしかめると

「えーとねえ、何か変わった名前の子だったよ。西海(にしうみ)……、そうだ(ぬい)だ。西海縫。糸を縫うって書いて縫」

 と答えた。最近は変わった名前の子が増えたものだ。

「ふうん。手芸部にでも行った方が良さそうな名前だけどねえ」

「何ツグミン、後輩入るの嫌なの」

「そういう訳じゃないけど、コンバスに憧れるなんて珍しい子だなと思って」

 吹奏楽部では事前にやりたいパートの希望を募るが、コンバスに憧れる者は珍しい。女子生徒が全体の九割を占めるこの部では、数少ない男子生徒は、肺活量の求められるチューバやトランペットに取られてしまうし、残りの女子生徒は、ピッコロだのフルートだのといった女の子らしい楽器に憧れる者が大半だからだ。けれどつぐみが余ったコンバスに無理矢理入れられたのかといえば、それは違う。

 部活に入った当初、つぐみも例外無く希望の楽器を聞かれた。つぐみは自分に何の楽器が合っているか分からなかったため、運命に任せようと思って、希望を出さなかった。そこで背の高さを買われてコンバスを宛がわれた。当時コンバス担当者は三年生一人だったため、何としても後継者をつくりたかったという部活側の思惑もあった。

 それだけ人気の無いコンバスをやりたがるとは、随分奇特な子が入ったものだと、つぐみは感心した。

すると苗美は

「確かに珍しいよねえ。つーかその子マジで珍しいよ。会ったら多分ツグミンびっくりすると思う」

 とニヤニヤした。

「びっくりするって、どういうこと?」

「それは、会ってからのお楽しみ」

 期待に満ちたような顔で笑う苗美を眺めながら、今のあたしにとって、これ以上びっくりすることなんてあるんだろうかと訝りつつ、つぐみは正面玄関を抜け、下駄箱に向かった。

 下駄箱では、クラスメイトの根野望(ねののぞむ)がユニフォーム姿で靴を履き替えていた。今から野球部の朝練なのだろう。根野はつぐみの姿を見つけると

「おー近山じゃん。お前は三日もズル休みしやがって」

 といたずらっぽい笑みを浮かべた。

 彫刻刀で彫られたかのような、鋭利な表情の根野がそんな冗談を言うと、つぐみの心はひどく安心しまた高鳴った。何か気の利いたことを言わなければならないと思う。でも頭が真っ白になってしまって、ふさわしい言葉が見つからない。

 つぐみはやっと

「ズル休みじゃないもん。風邪だもん」

 とありきたりな返答をすると、急いで靴を履き替え、苗美と共に音楽室へと足早に歩いて行った。

「ツグミン、ラッキーじゃん。朝っぱらから根野君とお喋りできて」

「三日の禁断生活の直後にいきなりあれじゃ、心臓が持たないよう」

 まだバクバクと波打つ心臓をさすりながら、全くこの三日間というもの、よくも根野に会わずに暮らせたものだとつぐみは自分に感心した。片想いの身では、何気ない言葉のやり取り一つが、貴重な宝石のようなものなのだ。

 けれどその根野にしたって、もしあたしの出生を知れば、もうあんな風に気軽に声はかけてくれないのかも知れないと、つぐみは寂しい思いをした。誰にも知られたくないのはもちろんだけれど、特に根野には決して知られたくない。付き合いたいなんて大それた期待を持ったりはしないから、どうか根野にだけは絶対に知られたくないと願いながら、つぐみは苗美と共に音楽室へと向かった。

 音楽室周辺には、すでに半数程の部員がやって来ていた。つぐみが「久し振りだねえ」とか「具合もういいの」などの通りいっぺんの声をかけられていると、背後で

「ああ西海さん。こっちこっち」

 という声がした。コンバス希望の転入生か。つぐみが振り向くと楽器倉庫から背の高い女子生徒が出て来るのが見えた。髪をつぐみと同じボブに切りそろえ、つぐみ同様ぱっつん前髪にしている。

「会ったらびっくりすると思う」

 と苗美が言ったのは、髪形のことだろうかとつぐみは考えた。こんな平凡な髪型がかぶったからといって何も驚くことはない。つぐみが黙って縫を見詰めていると、突然周囲に人だかりができ、皆が口々に

「似てるよねー」

「ホント、こうして改めて並べて見ると姉妹みたい」

「一卵性とまでは言わないけど、二卵性の双子くらいには似てるよ」

 と騒ぎ出した。

 つぐみは驚き縫の顔をまじまじと観察した。卵形の輪郭。白目が青みがかった張りのある目元。短いまつげ。薄い眉。この子はあたしに似ているんだろうか。皆が言うのだから似ているんだろうか。

 つぐみがぼんやりしていると、顧問教師が

「近山さん。この子はコンバス希望の西海縫さん。一年A組の転入生なの。指導よろしくね」

 と歌うような声で紹介した。すかさず縫が

「西海縫です。よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

 縫が口を開いた時、歯並びの悪さが見て取れた。あたしの歯並びはこんなに悪くない。つぐみは反発しつつも、縫の顔立ちが愛らしいことに気を良くして

「近山つぐみです。よろしく」

と微笑んだ。

 その周囲ではまだ外野が、「似ている」「似ている」と騒ぎ立てていた。縫はそれを聞きながら、曖昧な笑みを浮かべていた。おそらく縫も自分たちが似ているとは自覚していないのだろうとつぐみは思った。顔立ちが似ているということは、本人同士はあまり気付かないものなのかも知れない。

 つぐみは何やらむず痒い思いで、縫を伴って楽器倉庫に入ると

「ホントはチューニング教えたいけど、もうすぐ朝の合同チューニングが始まっちゃうから、今はあたしのすること見ててね」

 と言ってチューナーとコンバスを取り出した。縫は「はい」と素直に答えた。三日も放置していた弦はだいぶ緩んでいる。チューニングに時間がかかりそうだ。新人とはいえ人が見ていると緊張する。

 つぐみは順番にソ、レ、ラ、ミの音を出しながら、縫ももしあたしの出生を知ったら、こんな風に素直に、あたしの言うことを聞かないのかも知れないとぼんやり考えた。そして今朝登校してからというもの、人と会う度に、そのようなことばかり考えている自分を悲しく思った。

 このままではつぐみは、卑屈な人間になってしまう。卑屈な人間は人に嫌われるからそれは避けなければならないのだが、まだ十三歳のつぐみにはそれが分からないのだった。

 合同チューニングのために音楽室に向かうと、まだ部員は三分の一程度しか集まっていなかった。こんなことなら、チューニングのやり方を教えてあげれば良かったかなとつぐみが後悔していると、縫が

「コントラバスって、ホントに綺麗ですよね」

 と感極まった様子でつぶやいた。

「そう?」

「縫はバイオリンとかチェロとかコントラバスとかの、形がすごく好きなんです」

「形が気に入って、コンバス希望したの?」

 吹奏楽部には普通、弦楽器はコンバスしか無い。たまにハープを使う学校もあるがそれは珍しい例だ。従って弦楽器の形に惹かれているのなら、コンバスを希望するしか無い。それで縫はコンバスを希望したのだろうかと、つぐみは考えた。

 すると縫は

「それに縫、歯並び悪いし」

 と恥ずかしそうに口元を押さえた。つぐみは「ああ」と納得した。歯並びが悪ければ、金管楽器にも木管楽器にも向いているとは言いがたい。

「だから前の学校では、パーカッションだったんです。前の学校はコントラバス無くって。でも転校してコントラバスのある学校に来れて良かったです」

「前は、どこの学校にいたの」

「北海道です。パパの転勤でこっちに来て。パパは昔こっちに住んでて実家も近所にあるんです」

 北海道という地名にふとつぐみは憧れを覚えた。日本の最北の地、北海道。そこまで逃げて行きたいと思った。そこまで逃げれば、自分の出生の秘密も自分を追って来られないような錯覚に一瞬陥った。けれどすぐにつぐみは覚醒した。自分は自分から逃れられない。自分は自分の出生の秘密を、一生背負って生きるのだと。

 顧問教諭の女性教師が音楽室に入って来た。柔らかい素材のロングスカートに巻き髪を欠かさない彼女は、見た目はおっとりとしたお嬢さん風だがその指導は厳しい。

 指揮棒が上がった。つぐみは弓をきりりと握り締めた。




 縫とつぐみは一週間もしない内に親しくなり、十日もしない内に、お互いの家を行き来するようになった。縫が半年前に、母親を病気で亡くしたばかりだというのが決め手になった。伯母と二人で暮らすつぐみにとっては両親の欠けた相手に親しみを感じるのだ。そしてそれは縫にとっても同様だった。父親と二人暮らしの縫にとっては、伯母と二人暮らしのつぐみが、親近感の対象になった。

 縫を自宅に連れて行くと、貞子は縫を喜んで歓迎した。

「この子って一人っ子で、年下の子と仲良くなった経験が無いのよ。せいぜい甘えてお姉さん気分を味わわせてあげてね」

 などと縫に吹き込んでいた。

 麦茶とデラウェアを出し貞子が立ち去ると、縫は

「先輩の伯母さんって、美人ですねえ」

 と目を輝かした。身内を褒められるのは悪い気はしないが何やらくすぐったい。つぐみはわざと

「でももう、三十五だよ」

 と伯母の年齢をばらした。

「見えないー。せいぜい三十そこそこって感じですよ。でも先輩に似てないですね」

「悪かったわね。あたしは父親似なのよ」

 こんなじゃれ合いもできるようになって、つぐみは幸福だった。出生の秘密は今でもつぐみの胸に重くのしかかっている。けれど現実はそんなことにおかまいなく、がんがらがんがら進んでいく。だったらその中から、幸福だと思える出来事を味わって自分を誤魔化しながら生きた方が良いと、つぐみは思い始めていた。自分が強姦によって生まれたということは別に自分のせいではないのだ。

 ならばその事実は意識の外に追いやり、こうして楽しんだ方が良いと、つぐみは思い始めていた。実際、後輩という関係の女子生徒とここまで仲良くなったのは、これが初めての経験だった。これまで対等の友達関係しか持ったことの無かったつぐみにとって、これは新鮮な出来事だった。

 もし妹というものがいたら、こんな感覚だったんだろうかと、自分と似たかんばせを持つ縫をつぐみは眺めた。一年しか歳が違わないのに、どこか幼さの残る縫が可愛くてたまらなかった。

 その日はつぐみが縫の家を訪問した。縫の家は新興の高級住宅地にある。パパが随分稼いでいるのだなと思いながら、水色のノースリーブの上に菫色のチュニックを重ね、デニムパンツをはいたつぐみは、門を抜けて玄関へと歩いて行った。庭先の紫陽花の花が先程からポツポツと降り始めた雨の中で、青く浮かび上がっている。

 もう入梅だな。傘を持って来て良かったと思いながらつぐみはインターホンを押した。

「開いてます。どうぞ入って」

 縫の応答によりドアを開けると、玄関から広がる廊下はチリ一つ無く、ひんやりと光っていた。母親の手が無いというのに随分綺麗にしているんだなと感心しながら、つぐみが靴を脱いでいると、サロペット姿で二階から降りて来た縫が

「先輩、縫の部屋こっち」

 と二階を指した。

 縫の部屋はつぐみの部屋の倍程の広さでつぐみは思わず目を見張った。その部屋に、いわゆる普通の学習机とは違う、カントリー調の蓋で開くタイプの机や、天蓋付きのベッドや縫専門のパソコンなどが、豊かさを誇るかのように設置されている。母親がいないとはいえ、縫は父親に可愛がられているのだなと思った。縫の幸せを喜ぶ気持ちと相反する微かな嫉妬が、つぐみの中に湧き上がった

 そんなつぐみの気持ちには気付かず、縫は

「先輩、これ見たことありますか」

 と突然ポーチから何かを取り出した。セロファンに包まれた平べったいそれは、つぐみが初めて目にする物だった。

「知らない。何これ」

「コンドーム」

「えっ、何でそんなの持ってんの」

 縫の手につままれるそれをまじまじと見詰めながらつぐみが叫ぶと、縫はなぜか、勝ち誇ったような顔をしながら

「パパにもらったんです」

 と答えた。

「パパが? 何で?」

「『レイプされそうになったら、相手に渡しなさい』って」

「……レイプ?」

 つぐみは一瞬、縫が自分の出生の秘密を知っているのではないかと青ざめた。しかしそんな事があるはずは無い。貞子が縫にそのようなことを言うはずが無いのだ。

 つぐみがこっそり息を整えていると、縫は

「何かパパが言うには、アメリカの女の人って大概持ち歩いてるらしいんですよ。それでレイプされそうになったら、『付けて』って相手に渡すんですって。『だからお前もこれを肌身離さず持ち歩いて、襲われそうになったら、相手に渡しなさい』ってくれたんです」

 と苦笑した。

「でもここ日本じゃん。レイプなんてそんなしょっちゅうある訳……」

「ですよねー。まあでもしょっちゅう無くても、万に一つレイプされて、それで妊娠したら困りますからね」

「まあ、それはそうだけど」

 あたしの母親も、コンドームを持ち歩いていれば良かったのだなあと考えながら、つぐみは答えた。日々コンドームを携帯しそして父親に強姦された時にそれを渡していれば、自分は誕生しないで済んだのだ。しかし相手に「付けて」と渡した時点で、それは強姦を了承したことにならないだろうか。

 つぐみが割り切れない思いを抱いていると、縫がそれを見透かしたかのように

「でもアメリカの女の人って、ある意味割り切ってますよね。レイプするんならじゃあせめて避妊してって、コンドーム渡す訳ですから。もちろん男の人には力じゃかなわないから逃げるのは難しいと思うけど、でもそれにしたって、アメリカの合理主義ってそこまでいってんのかって感じですよね」

 と何やら難しいことを言い出した。

「つーか、縫ちゃんのパパって変わってるね」

「心配性なんですよ。ていうかレイプを心配してるのは、建前かなって気がするんですけど」

「つまり本当は、縫ちゃんが彼氏とエッチして妊娠するのを心配してるってこと?」

 そう尋ねた瞬間つぐみは顔が熱くなるのを感じた。彼氏とエッチ。彼氏。つぐみは思わず根野望を連想した。付き合いたいなどと大それた希望は持っていないが、しかしもし根野と付き合ったら、いずれエッチをすることになるのだろうかと考えると、走り出してしまいそうなくらい恥ずかしく恐ろしい。つぐみはまだキスもしたことが無いのだから。

 つぐみが胸を高鳴らせていると、縫は

「彼氏ができることもそうですけど何ていうのかな。全般的に心配してる訳です。ほらうち、ママが病気で死んじゃったり引越ししたり色々あったから、縫が悪い子になっちゃうのを心配してるっていうか。だから縫が悪い子になった場合の最悪の結果が、パパにとっては妊娠なのかなみたいな」

 と淡々と語った。

 縫は母親を失った後、自分と二人きりで暮らす異性を、客観的に見ることを始めていたのだった。

「ああ何となく分かる。つーか縫ちゃん悪い子になっちゃ駄目だよ」

「なりませんよ。そりゃあママが死んだのは辛いけど、でもそれで縫が悪い子になっちゃったら、パパ再婚しちゃうかも知れないから」

「パパが再婚するの、嫌なの?」

 あたしは伯母さんに結婚して欲しいけどなあと思いながら、つぐみは尋ねた。貞子は結婚しない理由をつぐみのせいではないと言うが、しかしつぐみは、自分の存在に負い目を感じているからだ。

 けれど一方の縫は、そのような発想を持たなかったため

「再婚なんて嫌ですよ。だから縫、元気だった頃ママがやってたみたいに家事もきちんとやってるんです。家の中が荒れちゃったらパパも奥さん欲しくなるでしょ。だからパパが再婚しないために、縫、頑張ってるんです」

 と胸をそらせた。つぐみは複雑な思いで縫を見詰めた。

 つぐみには父親の再婚を嫌がる縫の気持ちは、あまり分からなかった。それは親の自由であり、再婚したい人がいればすれば良いのだと思えた。しかも再婚を阻止するために家事を頑張るという発想は、つぐみにとってはしんどいものだった。つぐみだったら新しい母親に家事を任せられるなら、それに越したことは無かった。

 事実つぐみが貞子の結婚を望むのは、家事の問題もあった。もし貞子がそれなりの稼ぎの男と結婚すれば、貞子は仕事を辞めるなり減らすなりするはずだった。そうすればつぐみの家事の負担も減り、つぐみは楽になるのだ。

 しかし一方で、このような考え方をする自分に罪悪感も持っていた。貞子の幸せを望む振りをして、本当は自分が楽になることを、望んでいるだけなのではないかという気もした。そう考えると、家事を頑張っていると主張する縫が何やら立派にも思えてくるのだった。現に先程の廊下もこの部屋もきちんと掃除されているではないか。

 その時玄関の方から、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。

「あ、パパ帰って来たみたい」

 と縫は立ち上がると部屋を出て行った。パタパタと階段を下りる縫の足音が響いた後、一階の方から、父娘が言葉を交わしているらしい声が聞こえてきたが、やがて複数の足音と共にその声は階段を上がり、扉がガチャリと開けられた。

「パパ、こちらがつぐみ先輩。コンバスを教わってるの」

「初めまして。どうもお邪魔してます」

 突然現れた縫の父親につぐみは慌てて頭を下げた。スーツ姿の父親は

「縫の父です。ごゆっくり」

 と微笑むと、すぐさま扉を閉じて部屋を出て行った。

 つぐみは深呼吸をすると縫に言った。

「縫ちゃんって、パパにそっくりだね」

「あーよく言われるんですう。縫ママに全然似てないの」

「そうなんだ」

 つぐみは目を閉じると、縫の父親の姿をまぶたの裏に焼き付けた。縫同様ひょろりと高い背。薄い眉。さすがに歳のせいか白目は青みがかってはいなかったが張りのある目元。短いまつげ。

 つぐみは目を開くと

「そういえば縫ちゃんのパパって、北海道行く前こっちに住んでたんだよね」

 と尋ねた。

「そうです。ママと出会う前。十四年くらい前かなあ」

「実家があるんだから、子供の頃からずっと住んでたんだよね」

「そうですね」

 一体何の話が始まるのだろうと縫がいぶかっていると、突然つぐみは、北海道時代のアルバムが見たいと言い出した。縫は一年前のアルバムを取り出した。小学校の修学旅行や遠足の写真に混じって、親子三人の家族旅行のスナップがアルバムに貼られていた。

「これママと最後に出かけた時の写真なんですけどお、霧の摩周湖のはずなのに、全然霧が無かったんですよ。摩周湖に行った時、霧が出てないと晩婚になっちゃうらしくて、縫、結構へこんだんですよね」

 縫が示した写真には、霧が無かったおかげで親子三人の顔がくっきりと写っていた。縫の母親はお雛様のようなちんまりした顔立ちで、背も低く縫にはあまり似ていなかった。そしてその隣に佇む父親は、明らかにそのかんばせを娘に伝えていた。

 つぐみはそれを確認すると

「ごめん。用を思い出した。もう帰らなきゃ」

 とトートバッグ手に取った。縫は一瞬、失望を露にした。母親の話をしたかったのだろう。けれど今のつぐみにはそれを聞いている余裕は無かった。

「今、雨がすごく強くなってますよお。気を付けて下さいね」

 縫に玄関まで送られた時

「おや、もうお帰りですか」

 と縫の父親がまた顔を出した。先程二階に現れた時とは打って変わって、ラフなTシャツ姿になっている。だがつぐみは縫の父親の服装など見ていなかった。つぐみはただ彼のかんばせに目を奪われていた。似ている、似ている、鼻の尖り具合も輪郭の線もこの父娘は似ている。

 つぐみは縫の父親の顔をじっと見詰めながら

「またお邪魔しても、よろしいでしょうか」

 と尋ねた。縫の父親は

「遠慮せずに、いつでも来て下さい」

 と微笑んだ。その口の中で乱れた歯並びが光っていた。

 玄関を出た後、つぐみは傘越しに西海邸を振り返った。庭先の青い紫陽花が雨の中で溺れているのが見えた。




 ひょっとして縫の父親は自分の父親ではないのか。その思いはつぐみの中で、日増しに大きな疑惑へと変わっていった。人は皆あたしと縫を姉妹のように似ていると感嘆する。そしてその縫は、父親によく似ている。

 それにあのコンドームの件も、今にして考えればおかしな話だ。中一の娘に父親が強姦を恐れて避妊具を渡すとは。それはあの父親に強姦の経験があったからではないのか。あるいは父親はあたしの母親の妊娠を知っていたのかも知れない。その可能性は高いのではないか。縫の父親はあたしの母親を強姦した後、母親の妊娠を知り、逃げるために北海道へ行ったのではないのか。

 憎しみがふつふつと、つぐみの中に湧き上がった。妊娠した母親を捨て北海道で結婚をし、ぬくぬくと幸せな家庭を築いていた父親が許せない。けれどこれはあくまでも想像に過ぎないのだ。

 つぐみは本当は確かめたかった。

「あなたは十四年前に母を犯し、その後、北海道に逃げたのではないですか」

 と縫の父親に問いただしたかった。

 しかしそれはできない相談だった。もし間違っていた場合、つぐみはみすみす自分の出生の秘密を縫の父親に明かすことになる。人の口に戸は立てられないから、その話はすぐに縫の耳に入るだろう。そんなことになればこれまでの縫との友好関係は台無しだ。いやそもそも、縫の父親が母親を犯した相手だったとしても、それを認めるとは限らない。

 にっちもさっちもいかない思いのまま、つぐみは次第に縫の父親を憎悪し始めた。縫の父親が、本当に自分の父親であろうと無かろうと、そんなことは最早たいした問題ではなくなった。つぐみは自分の父親を恨んでいた。そのはけ口としてのリアルな存在として縫の父親は利用され始めた。

 とはいえつぐみは理性的な性質だったから、直接、縫の父親に嫌がらせをすることは無かった。つぐみの復讐はいつも頭の中で行なわれた。

 空想の中でつぐみは空間移動をこなす透明人間だった。つぐみは度々、西海邸を訪れる自分を想像した。ある時は玄関から入って来たばかりの縫の父親を突き飛ばし、倒れた父親に足で何度も蹴りを入れた。またある時は居間でくつろぐ縫の父親に、ゴミ箱で殴りつけ倒れるまで殴り倒した。

 次はどんなやり方で傷つけてやろうか。次第につぐみはワクワクし始めた。透明人間に突然襲われる恐怖は並大抵のものではないだろう。一体何の力が、何のために作用するのかと、人は恐怖に震えるに違いない。けれど訳が分からないのはつぐみも同じだった。つぐみは父親を知らないのだ。自分の母親を強姦しその後消えてしまった父親のことを。

 もしかしたら縫の父親は無関係なのかも知れない。そう思いながらもつぐみは、空想の世界で縫の父親をいたぶることをやめられなかった。だってあたしは何もしていないとつぐみは思った。心の中で何を想像しようとそれは自分の自由だとつぐみには思われた。

 心の自由を謳歌するべく、つぐみは縫の父親を連日痛めつけた。そしてボロボロになった父親の前で、初めて姿を現しこう言った。

「あたしが誰か、分かる?」

 愛情の反対語は憎しみではなく無関心だと、マザーテレサは言った。つぐみは少なくとも自分の父親に対し、無関心ではいられなかった。

 そんな日々を送っている最中、つぐみは貞子に

「ツッタン最近、怖い顔してるね」

 と指摘された。日曜日、共に買物に出かけたドラッグストアで、貞子はふと買物の手を止めそう言い出した。

「そう?」とつぐみは気付かない振りをして、買物メモを眺めていた。今日は全品5%オフの日だから、買い忘れが無いようにしなければならない。5%オフの表示につられて店内は賑わっていた。この不況の折、庶民はいかに安く買えるかという情報に目ざとい。

「何か最近ツッタン変だよ。時々怖い顔してボーッとしてる。何か嫌なことでもあったの」

「別に」

「伯母さんが相談にのれることならのるよ。何か悩んでるなら話してみて」

 伯母さんに言える訳無いじゃないのと、つぐみは鼻白んだ。それでなくても貞子は近頃帰りが遅い。男でもできたのか何やら生き生きと若返ってきた。自分はモテないと言ったくせに、その舌の根も乾かぬ内に貞子は恋愛にうつつを抜かしているのだ。

 しかしそれ自体は別に悪いことではない。ただ色ボケしている貞子に、こんなことを打ち明けてどうするのだとつぐみは思った。貞子はつぐみが強姦によって生まれたのだと、口をすべらせたことを覚えていない。そんな貞子に今更何を言えば良いというのか。

 だがせっかく貞子が、相談にのると言っているのなら、これは一つのチャンスだとつぐみは思った。そこでつぐみは

「あたし中学出たら、どうしたらいいのかなあと思って」

 と前々からの心の懸念を打ち明けた。

「どうするって、進学するんでしょ?」

「高校、行かせてくれるの?」

「当たり前じゃない。大学まで出してあげるわよ。ツッタン割と頭いいしおじいちゃんたちの遺産もあるし」

 何だそんなことだったのかと、貞子が安心している様を見やりながら、大人をだますのって案外簡単だなとつぐみは思った。彼らは中学生の悩みといえば、せいぜい学校問題と恋愛問題ぐらいのものだと思っている。いや大抵の中学生ならそうなのかも知れない。自分の母親を強姦した男が、後輩の父親かも知れないなどという疑念を抱いているケースなど、早々あるはずが無い。

 だがふとつぐみは、自分は幸せなのかも知れないと考えた。施設に入れられても仕方の無い身の上だというのに、こうして貞子に育てられ進学まで約束されている。この不況の折、例え両親がそろっていても進学もままならない者もいる中で、少なくとも自分は将来を保障されているのだ。

 すると何やら、大学に行かせてもらうことが大変申し訳ないような気になって、つぐみは

「だっておじいちゃんたちの遺産は、伯母さんのものでしょ。それをあたしの進学になんか使っていいの」

 と殊勝なことを言い出した。

「だってお金は、使わなきゃ意味が無いじゃない。どうせ使うんなら意味のある使い方しなきゃ。成績のいいツッタンに投資するのは賢い使い方だと思うよ」

「投資?」

「ツッタンは金の卵ってこと。ちゃんとした学歴持って就職してくれた方が、わたしも何かと都合がいいしね」

 何だ、伯母さんも結構したたかなんだなあと思うとつぐみは気が楽になり、貞子と共に買物カゴに商品を入れ始めた。確かに姪に恩を売っておいた方が、貞子としては何かと都合がいいだろう。そして恩を売られた以上は、つぐみにしたって恩返しをすることはやぶさかではない。

 けれど今の口約束は、貞子が結婚をしない前提のものなのではないかと、つぐみはにわかに不安を覚えた。もし貞子が結婚をしたら、貞子の財産に夫が口を挟んでくる可能性が生まれる。そうするとつぐみの大学進学は絵に描いた餅になってしまうのだ。

 ふとパパに再婚して欲しくないと言っていた縫の言葉が思い出され、つぐみは何やら、分かるような気がしてきた。保護者の結婚というものは、子供の人生に予想外の展開を生む懸念がある。それにも関わらず、貞子に結婚して欲しいなどとのん気に願っていたあたしは、何て浅はかだったんだろう。

 つぐみは貞子に、今の彼氏と結婚する気があるのかどうか聞こうと思い立ったが、その時、レジの順番が回ってきて会話は中断された。つぐみが発しようと思っていた言葉はそのまま空に浮き、「お待たせ致しました」という店員の声にかき消された。




 縫が入部してから一ヶ月が経った。コンバスを構える姿も様になり、ドレミファソラシドの位置もどうにか覚えた。あとはシャープやフラットの位置を、把握してくれれば安心だ。もっとも弦の弾き方や弓使いなど、まだまだ覚えてもらわなければならない事柄は沢山あるが。

 今日の練習は体育館で行なわれた。地区コンクールに向け、そろそろステージ練習をする必要があるのだ。縫は二人分のコンバスをふうふう言いながら二往復して運ぶと

「コンバスって、案外しんどいですねえ」

 と溜め息を吐いた。

「先輩の楽器を運ぶのは、気の毒だけど後輩の役目だからねえ。ピッコロとかフルートなら軽いからいいけど、コンバスは重いからねえ」

 とつぐみがねぎらうと、縫は

「楽器を運ぶのは、毎日じゃないからいいんですけど、コンバスって立ちっぱなしじゃないですか。しかもパーカッションと違ってずっと楽器を支えてなきゃなんないし、コンバスに人気が無い理由が、やっと分かりましたよ」

 と弱音を吐いた。

 自分が通って来た苦しい道を辿っている者には、親しみが湧く。つぐみは縫を可愛く思いながら、ふとこの感情は、縫が腹違いの妹だからこそ芽生えたものなのだろうかと考えた。

 周囲にまるで姉妹のようだと言われている自分たちが、ひょっとしたら本物の姉妹かも知れないというのは、何やら皮肉な気持ちだった。しかも姉である自分は父親に捨てられ、妹である縫は、父親の庇護の元、幸福に暮らしているのだ。

 だが不思議とつぐみは、縫に憎しみを覚えなかった。父親のしたことは縫には無関係なことだし、もし縫の父親が本当に強姦魔なら縫は強姦魔の娘ということになる。例え縫の母親とは和姦だったにしろ、父親が過去に強姦をしていたなどと知ったら、縫は辛いだろう。

 そんなことを考えながらつぐみが楽譜に目を通していると、縫が不意に

「ねえ先輩」

 と深刻そうな目をした。

「何?」

「縫、最近パパが心配なんですよ」

「どうかしたの」

 縫が不安がっていた再婚話でも浮上したのだろうかと考えながらつぐみが尋ねると、縫は

「最近パパついてなくって、階段からは転がり落ちるし、買ったばっかの車は十円ビームで傷だらけにされるし、この間なんて街でチンピラに絡まれて怪我しちゃって、病院通いしてるんですよ」

と薄い眉をひそめた。

「それはまた、災難続きだね」

「何でこういうことばっか、続くんですかねえ」

 困り果てる縫の姿を眺めながら、つぐみは背筋が寒くなるのを感じた。階段からの転落やら十円ビームやらといった空想は、つぐみはしていない。していないが、自分が毎夜呪いをかけている相手が、現実に不幸に陥っている事実に、つぐみは落ち着かない思いを抱いた。

 その時、話を聞いていたらしい苗美が

「もしかして誰かに、恨まれてるとか」

 と横から入ってきた。つぐみはぎくりとしながら苗美を見たが、苗美はつぐみの心中になど気付いていない様子だった。

「やっぱり、そうなんですかねえ」

「かもよ。ママの知り合いに霊視ができる人がいるんだけど、人の恨みのパワーってすごいんだって。相手をものすごく恨むと、恨まれた相手に災いが起きるんだって。だからもしかして誰かが縫ちゃんのパパのこと、恨んでるのかも知れない」

 突然話がオカルトめいてきてつぐみは驚いた。馬鹿馬鹿しい。そんなことがある訳が無い。そう思いながらつぐみは

「え、恨んでる相手が、実際に十円ビームしたり絡んだりしたんじゃないの?」

 と言ったが、縫は

「でも苗美先輩の言う通りかも知れないです。だって誰に突き落とされた訳じゃないのに、階段からも落ちたんですよ。絡んできた相手もパパ『見覚え無い』って言ってるし、もしかしたら誰かが、パパを恨んでるのかも知れません」

 と青い顔をした。

 これが先日、アメリカの合理主義がどうとか言っていた子のセリフだろうかと、つぐみは呆れた。しかし恨みのパワーうんぬんの話を持ち出したのは、優等生の苗美であることを考えると、何やら信憑性があるようにも思えてきた。そうなんだろうかとつぐみは思った。あたしの恨みのパワーが縫の父親に災いをもたらしているんだろうか。

 だが次の瞬間、つぐみはまさかと思った。それは霊視などの特別な力を持っている人の話だろう。超常現象を頭から否定するつもりは無いけれど、あたしにそんな力があるはずが無い。

 そう思いながら、つぐみは

「考え過ぎだよ。たまたまついてないだけだって。誰でもそういう時期あるじゃん?」

 と縫を励ました。縫の父親の不幸を願い、日々彼を罰しているつぐみがこんなことを言うのは妙なことだったが、しかしつぐみは縫の悲しい顔は見たくなかった。

 夜になりベッドに入った時、つぐみは昼間の会話を思い出した。頭の中で

「恨みのパワーってすごいんだって。相手をものすごく恨むと、恨まれた相手に災いが起きるんだって」

 という苗美の声が不吉に響いた。

 つぐみはぶるぶると頭を振った。そんなことがある訳が無い。たかだか人を心の中で恨んだくらいで、そんなことが起こる訳が無い。そんなことが起き得るとしたらあたしはもう自由に縫の父親を恨めないではないか。あたしの心は自由だ。あたしは今夜も父親を恨む。

 つぐみはいつもよりも強い意志で、縫の父親を思った。おそらくもう寝床に入っている頃合だろう。見たことも無い縫の父親の寝室とその寝姿がつぐみの脳裏に広がった。つぐみはその傍らに立つと、その両の目に針を付き立て、髪を燃やし布団を燃やしパジャマを燃やした。二つの眼から鮮血をほとばしらせながら、縫の父親が火だるまになって飛び上がる様が見えた。苦しめ。苦しむのよ。ママとあたしの分まであなたは苦しむのよ。

 空想の中、縫が父親に向かってバケツの水を浴びせるのが見えた。その真剣な眼差しにつぐみの心は痛んだ。




 面会時間を迎えた日曜日の総合病院はざわめいていた。病院という場所を訪れると、つぐみは毎度のことながら、世の中にこれだけ多くの人々が病を持ち、怪我をしているのだという事実に驚かされる。つぐみは何やら健康な自分を恥ずかしく思いながら、目当ての病室へと進んで行った。片手には先程、花屋でアレンジしてもらった見舞い用の花束を携えている。

 縫の父親がICUに運び込まれたのは三日前のことだった。車を運転していた際、自損事故を起こし内臓を破裂させたのだ。幸い術後の経過も良く、命には別状が無いとのことで一般病室に移されたが、数ヶ月の入院が必要とのことだった。

 受付で教わった病室はドアが開いていた。こじんまりとした一人部屋だ。開け放たれたカーテンの間から、外に出られない患者をあざけるかのように、夏の太陽がきらめきながら降り注いでいた。

 つぐみが顔を覗かせると、横たわった父親の隣で座っていた縫と目が合った。半そでのGジャンの下に、スパンコールの付いたキャミソールを着込み、ショートパンツを履いた縫のいでたちは、患者の付き添いとしてはいささか不釣合いな装いに見えた。

「あ、先輩」

「こんにちは」

 つぐみは挨拶をしながら病室に入ると

「あの、つまらない物ですがお見舞いの花束です」

 と父親に見せ、そのまま縫に渡した。

「どうも、わざわざすいません」

 と父親はかすれた声を出した。疲労のせいか声質まで変わっているような気がした。初めて会った時、縫の父親の声は染み入るようなバスではなかっただろうか。

「先輩、あたしこのお花、花瓶に入れて来ます。一緒に行きます?」

 と縫が立ち上がった。つぐみはうなずきながら縫の父親を見た。点滴を打たれている筋張った腕。病院の寝巻きにくるまれた痩せた肩。その上にある青白い顔。

 あたしのせいだろうかとつぐみは思った。あたしがこの人を恨んだから、この人は事故に遭ってしまったのだろうか。

 つぐみは縫と共に薬品の匂いが立ち込める病院の廊下を歩いた。歩きながら縫は

「先輩、来てくれてありがとうございます」

 と礼を言った。

「ううん、別に」

「縫、ホントに怖かったの。病院から電話が来た時は」

「うん」

「縫一人でどうしていいか分かんなくて、おばあちゃんに来てもらって、入院の手続きとかして、ああこんな時ママがいればなあって思って。ママがいなくてもママの代わりに家のことちゃんとするって決めたのに、縫、全然役に立たなくて」

 縫の声を聞きながら、つぐみは胸がざわめくのを感じた。この子のこの苦しみもあたしが与えたものなんだろうか。本当にあたしの恨みのパワーが、今回の事故を引き起こしたんだろうか。

 鼻をすすりながら花瓶に水を入れる縫に、つぐみは

「しょうがないよ。あたしたちまだ中学生だもん。こういう時に大人みたいに上手くやれなくても仕方ないよ。縫ちゃんは自分のやれること充分やったよ」

 とねぎらった。

「そうですかねえ」

「それにもうこんなこと、これで最後だよ」

 断言するつぐみの声が、かすかに震えた。縫は「え?」とつぐみに問いかけるような視線を投げた。

「縫ちゃんのパパに起こるトラブル。きっともうこれで終わるよ」

 もう縫の父親を恨むのはやめようと決意しながら、つぐみは言った。縫の父親に起こったトラブルが、自分の恨みのパワーのせいかどうかは分からない。また縫の父親が自分の父親かどうかも分からない。だがあんな痛々しい姿を見てしまったら、もうつぐみは縫の父親を恨むことはできなかった。自分の父親を許した訳ではなかったけれど、ただこれ以上、縫の父親を憎むことはできなかった。

「ホントですかねえ。ホントに終わりますかねえ」

 いつの間にか縫は、涙をぼろぼろと流していた。つぐみはデニムスカートのポケットから小花模様のハンカチを取り出すと、それを縫に手渡し

「大丈夫、大丈夫」

 と言いながら縫の頭をポンポンと撫でた。

 何だか本当に縫が、実の妹のような気がしてきた。縫の父親が自分の父親だったら困るけれど、縫が妹だったならそれはそれで幸せなことのような気がした。

 縫は子供のような不器用な所作で涙を拭くと

「ありがとうございます。これ洗って返しますね」

 と、つぐみのハンカチをポケットにしまいながら笑った。まだ涙の残る瞳がキラリと光り、つぐみの心を刺した。

 いずれにしろこれだけ仲良くしている後輩の父親のことを、自分は密かに呪っていたのだと、つぐみは思った。それは充分罪深いことだったのではないだろうか。

 重い心を引きずりながら病室へ戻ると、どういう訳かドアが閉まっていた。先程ドアは開け放ったまま出たはずなのに。けげんに思いドアを開けた瞬間、後ろで縫がはっと息を飲む音が聞こえた。縫はそのまま花瓶を両の手から落とし、病院内にガチャンという異音が響いた。

 花瓶は割れ水はこぼれ花は散った。床を彩る瑞々しい花びらを眺め、死ぬ時まで花は綺麗だと感心しながら、つぐみはこの清掃はどうしたら良いのだろうと思った。縫の父親の元を訪れた面会者の存在が、縫の手をすべらせたことは分かっていたが、つぐみは今それを認めたくなかった。

 私の中の異色作ですが、気に入っています。

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