はりぼて職人の造花
音楽の街グランヴェル。その一角にあるオディロン楽器店の重厚な扉を叩いた時、ニコラの胸は、かつてない期待と確信に跳ねていた。
「どうでしょう、オディロンさん。かなり父の作品に迫った、と俺は思っているんですが」
ニコラが艶やかな敷布の上に置いたのは、一本のヴァイオリンだった。
琥珀色のニスは一点の濁りもなく、完璧な曲線を描いている。
それは二年前、この世を去ったニコラの父——『神の手』と謳われた天才職人の最高傑作、通称『暁の聖母』の、寸分違わぬ完璧な模倣だった。
父の死後、ニコラは父の影に追われ続けてきた。名匠の二代目という看板は重く、どれだけ精巧な楽器を作っても、世間からは父親の足元にも及ばないと囁かれ続けた。
だからこそ、数ヶ月を費やし、寝食を忘れて父の遺した型紙を狂ったように追いかけ、ようやくこの一品を完成させたのだ。
だが、老楽器商オディロンは、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、冷徹にその楽器を見下ろした。
彼はニコラの父と二人三脚で数々の名器を世に送り出してきた男だ。その肥えた耳と眼識は、貴族たちからも絶対の信頼を得ている。
オディロンは楽器を手に取ることもせず、ただ一言、吐き捨てた。
「——ガラクタだな」
「……っ、何だと!?」
ニコラの体から血の気が引いた。
「そんな筈はないでしょう! 木目の選び方、ニスの調合、縁の削り出しに至るまで、親父の『暁の聖母』と完全に一致しているはずだ! どこがガラクタだ!」
「見てくれはな」
オディロンは冷酷に言い放ち、ようやくヴァイオリンのネックを乱暴に掴み上げた。
「形だけをなぞった、魂の抜け殻だ。ニコラ、お前が職人になってから、一体いくつの楽器を作ってきた? 二十か? 三十か? それだけ作って、自信満々に持ち込んできたのが、死んだ親父の尻尾を追いかけただけのはりぼてか」
「はり、ぼて……」
「そうだ。この国において、楽器は貴族の格を決める大きな要素のひとつだ。彼らが求めるのは、命の脈動する本物の音であって、死んだ名匠の模倣品じゃない。お前の音には、お前自身の渇望も、職人としての命も宿っていない。ただの技術の切り売りだ。お前、先代の仕事の何を見て来たんだ? 先代の心と魂のこもった楽器から何も学ばなかったのか!」
オディロンの言葉は、容赦なくニコラの心を抉っていく。ニコラの成功を誰よりも願い、亡父の義理から彼らの生活を支えてきた老商だからこそ、その怒りは烈火の如く激しかった。
「お前には才能がない。このまま出来損ないの偽物を作り続けるなら、先代の名声に泥を塗るだけだ。おい、そこの作業台にあるノミで、今すぐその職人の指を切り飛ばしてしまえ。そして二度と木を削るな。職人を辞めろ、ニコラ!」
「オディロン、さんっ……!」
激昂する老商の店を、ニコラがどのように飛び出したのか、記憶になかった。
気づけば、夕闇に沈む自身の工房にへたり込んでいた。
冷え切った空気の中、机の上にぽつんと置かれた、酷評されたヴァイオリンが目に入る。
(才能がない。先代の名声を汚すだけだ——)
オディロンの呪詛のような言葉が、頭の中で狂ったように繰り返される。
視界が怒りと絶望で真っ黒に染まった。
職人の命であるはずの自分の手が、ただの模倣しかできない呪いの道具に見えた。
「あああああああああ!!」
ニコラは咆哮をあげると、机の上のノミを掴み、自身の左手へと振り上げる。
(指なんて、いらない。職人を辞めてやる。いっそ、このまま死んでしまえば——!)
鋼の刃が、自身の皮膚に触れる。その刹那。脳裏に、すっと、一人の女性の顔が浮かんだ。
優しく、どこかやつれた、ニコラの母親の顔だった。
(……待て。俺が今、ここで指を失い、あるいは絶望して命を断ったら。お袋はどうなる?)
父が亡くなってから、家計は火の車だった。オディロンがニコラの作る楽器を、名匠の劣化模倣品と知りつつも買い取ってくれていたからこそ、今日食べるパンに困らずに済んでいたのだ。
母親はいつも、そんなオディロンに「夫の友人のおかげで生きていける」と、深く感謝していた。
自分がここで意地を張って死ねば、残された母は路頭に迷う。
オディロンへの恩義も、踏みにじることになる。
「くそっ……! ちくしょう、ちくしょうっ……!」
ニコラはノミを床に投げ捨て、激しく床を叩いて泣いた。自分が死ぬのは構わない。だが、母親を巻き込むわけにはいかない。
職人としての誇りを完全にへし折られ、死ぬことすら許されない。
泥の底に取り残されたような絶望の中で、ニコラはただ、荒い息を吐き続けるしかなかった。
死ねぬまま、ただ泥の底を這いずるような三日を過ごした。
自分を傷つけようという気持ちはもはや無くなっていたが、かと言って楽器を作る気力がわく訳でもない。
職人としての自尊心は粉々に砕け、これからどうやって母を養っていけばいいのか、答えは出ない。
薄暗い工房で、ニコラがただ虚ろに天井を見上げていたその時、乱暴に扉が押し開けられた。
現れたのは、あの老楽器商オディロンだった。
「まだ生きていたか、出来損ない」
「……今更、何の用です。あなたにガラクタと切り捨てられた男の顔を、わざわざ拝みに来たのですか」
自嘲気味に吐き捨てるニコラを、オディロンは冷徹な目で見下ろした。
その手には、見慣れた安物の羊皮紙ではなく、金糸の刺繍が施された重厚な書状が握られている。
「グランヴェル伯爵家からの発注だ」
「っ……!?」
ニコラの身体が跳ね上がった。グランヴェル伯爵。この街グランヴェルを治め、この国の音楽界の頂点に君臨する大貴族の名だ。
「伯爵がな、路地裏から薄汚れた孤児の娘を拾い上げたそうだ。驚くべきことに、その娘は屋敷に迎え入れられてからの数日、指先が擦り切れ、血を流しながらも夜通しヴァイオリンを弾き続けている。尋常ではない密度と執念だ。すでに何本もの弦が、彼女の凄絶な修練に耐えかねてぼろぼろに擦り切れるほどらしい」
オディロンは書状をニコラの胸元に叩きつけた。
「発注内容はこうだ。貴族の令嬢が優雅に奏でるような柔な楽器ではない。地獄から這い上がろうとする強烈な力を受け止め、血の滲むような修練に耐え、それでもなお、誰もがひれ伏す美しい音を響かせる、頑強にして至高のヴァイオリン。……それが、伯爵から俺に課された難題だ」
老商はニコラの襟首を掴み、その顔を至近距離まで引き寄せた。
「その孤児は死に物狂いだ。価値を示せなければ、また泥の底へ逆戻りだからな。いいかニコラ、死に物狂いの演奏を受け止められるのは、死に物狂いの覚悟で作られた楽器だけだ。お前にそれが出来るか? 職人としての命を懸けて、命を削って、あの娘の相棒を作れるか!?」
ニコラは、オディロンの狂気を孕んだ瞳を真っ向から見つめ返した。
……同じだ。
価値を示さなければ、泥の底に逆戻り。自分と、よく似た地獄を生きている少女がそこにいる。
胸の奥で、燻っていた灰が、一気に爆発的な業火へと変わるのを感じる。
「……やらせてください」
ニコラはオディロンの手を振り払い、床に転がっていたノミを拾い上げた。
その瞳には、かつてない昏い闘志が宿っていた。
「あなたに否定されたあの日から、職人としての俺はとっくに死んだも同然です。もう他の楽器店に何を持ち込んだって、売れやしない」
床に散らばる工具を拾い集めながら続ける。
「死んだも同然の俺が、死ぬ気でヴァイオリンを弾いているその孤児の、最高の相棒を作りたい……いや、作ってみせる!」
「言ったな。……一ヶ月だ。一ヶ月後、俺が検品にくる」
オディロンはそれだけ言い残し、満足げに、しかしひどく引き締まった顔で立ち去った。
それからのニコラは、文字通り取り憑かれたように作業台に向かった。
素材となる最高級のメイプルとスプルースの木材を前にし、最初は、亡父が遺した型紙を当てようとした。
父が得意とした、細身で、繊細で、天上の天使が歌うような美しい響きを持つ楽器。それをベースに補強すれば————。
「……違う」
ニコラは削りかけの表板を前に、頭を抱えて大きくかぶりを振る。
違う。そんな生易しいものではない。オディロンから聞いた、その孤児の演奏。
指を血に染め、首筋を赤く腫らし、泥の底から天を睨みつけるような凄絶な執念。
そんな剥き出しの飢餓感を受け止め、増幅させるための楽器が、父のような繊細で美しい造形であるはずがなかった。
父の楽器は貴族のサロンで優雅に撫でられるために作られた、薄く繊細な表板だ。そんなものであの娘の執念を受け止めれば、強すぎる弓の圧力でブリッジが沈み込み、楽器そのものが内側から破損して壊れてしまう。
「どうすればいい……親父ならどう削る……」
混乱する脳裏に、幼い頃からずっと特等席で見てきた、父の背中が浮かび上がる。
木を削る刃物の音。ニスの匂い。父の、神業のような手の動き。
だが、ニコラはその動きを真似ようとは、不思議と思わなかった。
あれほどまでに焦がれ、憧れ、追い求め続けたものを真似たいと、全く思いもしなかった。
ふと、自分の手元を見た。ノミを握る手のひらは、この数日で無数のマメが潰れ、血が滲んでいる。
それは、あの名も知らぬ孤児の指先と同じだった。その瞬間、そうか、とすべて繋がった気がした。
頭の中を電流が走ったかのように視界が、にわかに開けていく。
父の最高傑作の形をどれだけ寸分違わず模倣したところで、それは父の抜け殻に過ぎない。
真似るべきは、父の楽器の形じゃない。父の手の動かし方ですらなかった。本当に受け継ぐべきだったのは、楽器作成に向かう、あの狂気的なまでの姿勢、心構え。「何としても、この木の中に眠る最高の音を引っ張り出す」という、あの職人としての剥き出しの魂だったのではないか。
オディロンに言われた言葉も、思い出す。
先代の心のこもった、魂のこもった楽器の何を見て来たんだ。
「ならば俺は、俺のヴァイオリンを作る。俺の心と魂をこめて、あの孤児の、血と泥の音を、世界で一番美しい音楽に変える楽器を!」
ニコラの瞳から迷いが消えた。型紙を放り捨て、木材の肉厚をあえて厚めに残し、弓の強い圧力を強靭に撥ね退けるような、力強いアーチを彫り込んでいく。優雅な鳴りなどいらない。激しい弓使いをすべて吸い込み、限界を超えた高音を絞り出すための、頑強な器だ。
木材が形になるにつれ、ニコラの頭にある完成図が形になってゆく。
そうだ、父が作っていたものが命の脈打つ瑞々しい大輪の花だとするならば、俺が作るものは……。
それからというもの、ニコラの工房から音が途切れることはなかった。ザッ、ザッ、と力強く木を削る鉄の音。カン、カン、と板の厚みを確かめるために叩く硬質な音。
朝も、昼も、夜も。母親が心配そうに差し入れるスープが冷めきっても、ニコラはただ、汗と木屑にまみれながら、狂ったようにノミを振るい続けた。
ニコラの母はその背中を見つめていた。かつては生活のため、義務感で木を削っていた息子の背中。
だが今のニコラから立ち上る気迫は、生前の夫そのものだった。
母親は声をかけることもできず、ただ祈るように冷めたスープの皿を引いた。
それは父の影を追う地獄の作業ではなく、自分自身の職人の命を、木の中に叩き込むような歓喜に満ちていた。
約束の一ヶ月後。工房を訪れたオディロンの前に、ニコラは一本のヴァイオリンを差し出した。
それは、亡父の作品とは似ても似つかない代物だった。
全体的に肉厚で、アーチは力強く盛り上がり、ニスはどこか野性味を帯びた、燃えるような深い琥珀色をしている。
優美さや繊細さとは無縁の、しかし、圧倒的な存在感を放つまるで武器のような楽器だった。
オディロンはそのヴァイオリンを一目見るなり、文字通り石のように硬直した。眼鏡を外し、何度も目を擦り、まるで未知の怪物を目撃したかのように楽器を凝視する。
「……ニコラ。これを、お前が作ったのか? 本当に、お前が一人で削り出したのか?」
「はい。俺が作りました。間違いなく、俺のヴァイオリンです」
ニコラは怯むことなく、力強く肯定した。オディロンは震える手でネックを撫で、掠れた声で問う。
「どうやってだ……。どうやって、この楽器が生まれた?」
「父の背中を思い出しました」
ニコラは、窓の外の青空を見つめた。
「そして……伯爵家に迎え入れられたという、名も知らぬ平民の少女のことを考えた。指から血を流し、泥の底から必死に戦っている彼女の執念を、すべて受け止め、彼女を守ってやれるような、世界で一番強靭な相棒を作りたい。そう思って、ノミを振るいました」
でも、とニコラは続ける。
「オディロンさんに言われたことを、思い出しました。『父の心と魂のこもった楽器の何を見て来たんだ』、と言われました。結局、心と魂を込めて作った。ただそれだけのような気もします」
沈黙が工房を支配した。次の瞬間、オディロンの皺刻まれた目から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、作業台にシミを作った。
ニコラがこの老商の涙を見るのは、父の葬式以来、二度目のことだった。
「そうか……そうか! ニコラ、ついにやったな……!」
オディロンは子供のように声を上げて泣き、ニコラの肩を何度も強く叩いた。
「これはお前が作った、間違いなく至高の傑作だ! 先代の影などどこにもない、お前だけの音だ! 俺はな、これを今すぐグランヴェル伯爵家に持っていくぞ。そして、言ってやるんだ」
老商は涙を拭い、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
「『ご注文のヴァイオリンをお持ちしました。しかし、事前に言われておりましたお値段ではとてもお譲り出来ません。最低でも三倍のお値段を頂戴いたします』ってな! なあに心配するな。グランヴェル伯爵は音楽に関しては厳格だが、本物を見抜く確かな眼を持ち、値切るような無粋な男でもない。お前は、それだけの仕事をしたんだ。……本当に、いい仕事をしたな、ニコラ」
オディロンが宝物を抱えるように楽器を持ち去ったあと、ニコラは急いで自宅へと戻った。
そして、自分のヴァイオリンをオディロンが泣いて褒めてくれたこと、職人として認められたことを母に伝えた。
「ああ、ニコラ……。本当によかった……」
母はニコラの手を握りしめ、何度も涙を流して共に喜んでくれ、オディロンが言った三倍の値段はさすがにふっかけすぎだろうと笑いあった。
その夜、二人は小さな食卓で、いつもより少しだけ上等なワインを注ぎ合い、祝杯をあげた。
窓の外には、豊穣な音楽を奏でるグランヴェルの街並みが広がっている。
ニコラはグラスを傾けながら、遠い伯爵邸の夜空をそっと見つめた。
自分の作った『荒々しい造花』が、まだ見ぬ孤独な少女の手に渡り、彼女の戦う武器になることを、心から祈りながら。




