夢現
(ここはどこだろう)
瞳を開けている感覚もなければ、閉じている感覚もない。そこに映るのは暗闇というには少し灰色がかっていて、しかし、特段何も見えない暗い空間。これが自分の瞳を通して脳が得た情報なのか、脳が勝手に作り出している心象風景なのかはわからない。
深い海の中にいるような静けさと無重力感をその身に感じる。だが、水中のような息苦しさはない。それよりも安らかな、心地の良い気分である。例えるなら、そう、母体の中で母親からの確かな愛と温もりをその身に受ける胎児のような感覚。
(まあ、そんな感覚、覚えているわけないんだけど)
熊井は自分が置かれている状況がわからないながらも、そんなことを考える余裕すらある。熊井の感覚としては、やはり夢の中というものなのである。
数日の間、睡眠を取らずに作業を続けていたことによる疲労の蓄積は、熊井の身体の限界ラインをとっくに超えていたのだろう。どんな状況でのどんな体勢での睡眠だって、極楽にいるような心持ちである。レム睡眠とノンレム睡眠を周期的に繰り返しながら、体に溜まった疲労と脳への負担を和らげる。
熊井はその性格上、決まったことはやり遂げるまで一気にやるタイプである。そのため、今回のように数日間徹夜で執筆作業をするということは珍しくはない。とはいえ、このような感覚の極地に至るという経験はない。自身最長の連載を終えたという心の達成感がこのような極地を熊井に見せているのだろうか。
(夢の中か?とても不思議な感覚だ。)
無重力感ならではの体を自由に動かせるような感覚と、それなのに自分の身体ではないかのような不思議な感覚と、この不思議な空間の中でなら、なんでもできそうな充足感が熊井の心を満たす。
(夢見心地とはこういう状態を指すんだったか?にしては、この空間は暗すぎる。自分の体すら視認できない、、、)
朧げな夢の中にしては、はっきりとした意識と感覚がある。それは、時が経つにつれてよりはっきりしたものになっていく。長く同じ夢を見るときは、その夢にはストーリー性があることが多い。起きた時に覚えているような夢はほとんどがストーリー性のある強烈な夢だ。しかし、そういう夢は脳の負担が大きいという。休めているはずの脳が、過剰に働いている状態である。熊井の疲れ果てた脳にそんなことをする余裕があるとは考えにくく、それはこの状況に置かれている熊井自身も理解していた。
そう、理解できているのである。夢の中にしては、何もストーリーがなく、この広いのか狭いのかわからない謎の空間で、謎の感覚に襲われながらも、意識だけは妙に現実的で、自分の状況に対してなんとなくの理解ができてしまっている。理解するということは脳が正常な活動をしているということである。この異常を正常に処理しているということである。
(今回はコンを詰めすぎて、脳が過負荷状態になったことで限界を超えてしまったのか?それともこれも、夢の中における超現実的な感覚なのか?)
現実的な推論を立てながら、それでも現実的ではない自分の状況に少しの困惑も覚え始めてきた頃
「・・・様。・・ミナ様。」
誰かが呼ぶ声が聞こえ、ゆっくりと視線を声のする方向へと向ける。とはいえ、これも感覚的なことである。実際に声が聞こえているというよりも、あちらの方向から声が聞こえているような気がすると言ったような曖昧な感覚であった。
しかし、その曖昧な感覚は、確かな実感へと変化する。さっきまでは見えているのか見えていないのかよくわからなかった視覚に、小さな、それでも確かな一つの光が映る。そこへと手を伸ばす。これも先ほどまでとは違い、自分の腕を自分の意志でその光に向かって伸ばしている実感がある。だが、何かを掴むという感覚はない。当然といえば当然である、光に実体はなく、触れることはできない。それでも熊井が思わずそんな行動をしてしまったのは、先ほどまでの超現実な感覚から、突然、現実の感覚が蘇ってきたからだろう。
こんな空間であるから、その小さな光はとても遠くの光に感じる。しかし、その光は熊井の体を目指しているかのように近づいている、ような気がする。
(あれはなんだ。)
手を伸ばしながら、その光を追う熊井めがけて、その光は徐々に大きな光となり、熊井の体全体を包み込み始める。
熊井はその眩しさに思わず瞳を閉じてしまう。と、同時に熊井を支配していた無重力感と不思議な感覚から解放され脳が覚醒する。いわゆる目覚めの状態である。
先ほどまで熊井を包んでいた光は消え、その視界には真っ暗な闇が映る。ただし、先ほどまでの闇とは意味が違う。それは熊井も理解している。これは自分の瞼の裏。つまりは目を閉じている状態というわけだ。体には先ほどのような無重力感はなく、少し意識を傾けると、確かに腕は胸の上に置かれているし、足はまっすぐ伸びた状態であるということがわかる。
(ん?)
ここで熊井は、自分が横になっている状態であることに気がつく。体はベッドの上にいるような、少なくとも床の上のような固い場所ではない。
(あれ?俺、机に突っ伏して寝ちゃわなかったか?最後の気力でベッドの上にたどり着いていたのか?)
熊井の最後の記憶は、ベッドに向かおうとしたところで終わっている。その記憶が正しければ、熊井は自分の机に体を突っ伏しながら、寝たはずである。そう思いながらも、ゆっくりと瞳を開ける。
その視界には見慣れた自分の部屋の、毎日見ている天井。ということはなく、視界に入ったのは天井から吊るされた燭台の上でゆっくりと揺れる蝋燭の火。そして、自分を覗き込む美青年の顔だけであった。




