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タイムスリップの午後

気がついたら、俺は見知らぬ電車に揺られていた。

 吊革の形や車内の広告は、どこか古臭い。いや、古臭いなんて言葉じゃ足りない。色あせた紙に墨で刷ったような文字、見たこともない商品名。窓ガラスは波打っていて外の景色が揺れて見えていた。


 駅に降りると、町全体が薄暗いフィルムで覆われているかのようだった。舗装も剥げ、看板には見覚えのない商店の名が並んでいる。その中に「古書 渡辺堂」と書かれた店を見つけた。俺は吸い寄せられるように中へ入った。



 本棚には埃をかぶった本ばかり。昭和だろうか…。背表紙に見覚えのない字体。探していた本があったのかどうかすら分からない。ただ、紙の匂いがやけに生々しく、胸がざわついた。


店内は中学生たちでひしめき合っていた。

とりあえず、俺は見知りなさぬ本をいろいろ探したが気になるのがなかったのでその店を後にした


 やがて夕暮れになり、俺は駅を出て近辺を探索した。歩けは歩くほど、知らない道に入り込んでいった。見覚えのある角を曲がったはずなのに、同じ路地に戻っているようだ。


 ――自宅に帰らなきゃ。


 そう思うのに、どれだけ歩いても見つからない。自分が住んでいたはずの家が、この世界には存在しなかった。


 街灯がともりはじめる。振り返ると、電車のレールがどこまでも続いているのが見えた。さっき降りたばかりの駅から、薄暗い列車がこちらに向かってくる。

 警笛が響き、俺は立ち止まった。

 自分がどこから来て、どこへ戻ればいいのか、すべてが分からなくなっていた。

ポケットから財布を出すと、紙幣が黄ばんでいた。つい先ほどまで使っていたはずの千円札が、肖像も違えば手触りもざらついている。


気がつけば、俺の呼吸の音さえも周囲に溶けていくように小さく感じられた。電車のレールが軋む音、古い踏切がカタンと揺れる音。どれも現代で聞き慣れたものとは違っていた。音そのものが深い井戸の底から響いてくるように重たく、耳に残った。


財布の中身をもう一度確かめた。小銭もまた、見たことのない硬貨に変わっていた。五十円玉に似ているが、真ん中に穴はなく、表面に刻まれているのは「五十」の数字ではなく、旧字体のような崩れた文字だった。


「……これ、使えるのか?」


駅前の小さな売店に入って、試しに新聞を買おうとした。店番の老人は、俺の差し出した硬貨を見てしばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。


「お客さん、どこから来たんだい?」


低くかすれた声。問いの答えに困り、曖昧に笑ってごまかすしかなかった。老人は俺の顔をしげしげと見つめ、それ以上は何も言わず新聞を渡してくれた。


表紙に大きく「昭和六十年」とあった。だが、俺の知っている昭和六十年とはまるで違う記事が載っている。戦争の終結がどうとか、開国百年祭の開催準備とか。現実の年表には存在しない出来事ばかりだ。


「なんなんだ、ここは……」


手の中の新聞がじっとりと湿っている。指先の震えが止まらなかった。


外へ出ると、もう夜の気配が濃くなっていた。街灯の光は白熱灯のようにぼんやりと滲み、商店街のシャッターが一斉に下りていく。さっきまであれほど賑やかに群れていた中学生たちの姿も、跡形もなく消えていた。


気配だけが残っている。背後に立っているはずの誰かを振り返っても、誰もいない。それでも確かに、誰かの視線が首筋に突き刺さっている。


俺は無我夢中で歩いた。


住宅街に入ると、家々はどれも古びた木造で、障子越しにかすかな明かりが漏れている。耳を澄ませば、ラジオのようなざらついた音声が聞こえてくる。懐かしい日本語のイントネーションだが、意味は理解できなかった。


玄関の前に子供が立っていた。小さな女の子。白いワンピースに麦わら帽子をかぶり、こちらを見上げている。


「……おにいちゃん、帰れないの?」


突然の問いかけに心臓が跳ねた。


「え?」


「ふぅ〜ん」


彼女はそう言って、ふっと笑った。子供らしい笑顔のはずなのに、そこには異様な冷たさがあった。


「ちょっと待て。君は……」


一歩踏み出した瞬間、女の子の姿は闇に溶けて消えていた。代わりに、地面に小さな切符が落ちているのに気づく。拾い上げると、それは電車の硬券だった。


「片道……?」


印字された文字は、見覚えのある駅名ではなかった。「阿上喜」とある。どこかで聞いたことがある気がするが、今の俺には思い出せない。


――再び、電車に乗れということか。


レールの音が遠くから近づいてくる。ガタンゴトンと不規則に揺れながら、例の薄暗い列車が姿を現した。


俺は立ちすくんだ。乗るべきか、逃げるべきか。


だが、他に道はなかった。自宅は見つからない。現金もこの世界のものに変わってしまった。ここにとどまれば、いずれ俺の存在自体が薄れていくのではないかという恐怖があった。


意を決して、切符を握りしめたまま列車に乗り込む。


車内はがらんとしていた。先ほどの中学生たちもいない。客席には新聞を広げた老人が一人いるだけ。その老人の新聞には「昭和九十八年」と記されていた。


……時間が進んでいる?


俺は座席に腰を下ろし、窓の外を見た。闇が流れていく。街灯の並ぶ通りも、見知った景色も、すべて遠ざかっていく。


「阿上喜、阿上喜……」


車内アナウンスが流れた。機械的な声ではなく、女の人の肉声だった。抑揚がなく、まるで誰かの読経のように響いた。


やがて電車はトンネルに入った。暗闇の中、窓ガラスに映る自分の顔を見た瞬間、息が詰まった。


――そこに映っていたのは、俺ではなかった。


頬が痩せこけ、目が落ちくぼみ、知らない服を着た男の姿。だが、それが確かに「俺」であると直感した。


「もう戻れないのよ」


耳元で、あの少女の声がした。


俺は叫ぼうとしたが、声は出なかった。電車の軋みがすべてを呑み込み、身体がシートに沈んでいく感覚に支配されていった。


次の瞬間、列車はトンネルを抜けた。


そこに広がっていたのは、俺の知っている世界ではなかったのだった。


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