23 光の本音
──ブゥゥン。
一方その頃。
マネージャーが運転する車の助手席。
そこに光は座っていた。
武は、光が既に前を向いているかもしれないし、あるいは、自分と同じように寂しさを抱えているかもしれないと両方の可能性を考えていた。
その答えは、静かな車内に響いたひとつの音で、明らかになる。
「……ぐすん……」
小さな、でも確かなすすり泣き。
その声が、彼女の本音を物語っていた。
そう。
玄関先でのあの明るい笑顔は、武を安心させるための演技だったのだ。
本当は──寂しくて、悲しくて、たまらなかったのである。
「……離れたくないよぉ……。寂しいよぉ……。ヒック……たけくんのとこに戻りたいよぉ……」
押し込めていた感情が、堰を切ったようにこぼれ出す。
キスをして、背を向けたあの瞬間、すでに彼女の目には涙が溜まっていたのだ。
けれど、それに武に気付かれる訳にはいかなかった。
──別に、泣いたら武を困らせてしまうと思ったからとかではない。それだけなら、今までもしてきたことだし、それはある意味、光が武に心を許し、信頼している証でもある。
光はただ──武の前で、寂しいという理由で泣く資格がないと思ったのだ。
光が武の元を離れなければいけないのは、光自身がそういう道を選んだから。
女優という道を選んだからこそ離れなければならず、恋人になったのに、武にも寂しい思いをさせている。
故に、武が自分に「寂しい」と言う資格があっても、自分から武に「寂しい」と言う資格はない。光はそう判断した。
だから彼女は、最後まで笑顔で、いつも通りの光を演じ切ったのだ。
「……はぁ」
助手席から漏れるすすり泣きを横目に、ハンドルを握る女性がひとり。
あきれたようなため息をつきながら、口を開いた。
「……いつまで泣いてるのよ。ほら、しゃんとしなさい」
それは光の専属マネージャー、リリィ・スミス。
光が現在の芸能事務所に入ったときからずっと傍にいる、海外でただ一人、「素の光」を見せる事ができる人物である。
「だって……無理だよぉ……。たけくんのいない日常なんて、もう戻れないよぉ……」
気を張る必要のない相手だからこそ、光は今、弱音を隠さない。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、どうしようもない気持ちを吐き出す。
そんな光の様子に、リリィは肩をすくめて言った。
「後生の別れってわけじゃないでしょ。連絡くらい、スマホで取れるんだし」
「それじゃ足りないのっ! スマホじゃ、埋まらないの……っ! そういうの、いっぱいあるの!」
「たとえば?」
「……一緒にご飯食べたり……お出かけしたり……ゲームしたり……」
「一緒にお風呂入ったり、一緒に寝たり?」
「そういうのも……って、なに言ってるのよリリィ!」
顔を真っ赤にして、光はぷるぷる震えながら、運転席のリリィの肩を軽くぽかぽか叩いた。
「こらこら。運転の邪魔しないで。タダでさえ、日本の右ハンドル、慣れてないんだから」
「それはリリィが変なこと言うからでしょっ! 全くもうっ。」
むすっとした顔で頬を膨らませながら、光は助手席にあったお茶のペットボトルを手に取り、口に運ぶ。
だが、その直後──不意打ちのひと言が飛んできた。
「そういえば、告白はうまくいったのよね? で、昨日は早速もうそのたけくんと“シた”の?」
「ぶっ!! けほっ、こほっ!!」
光は勢いよくお茶を吹き出し、思わずむせた。肩を上下させながら何度も咳き込み、目を見開いてリリィを睨む。
「な、なに言ってるのよリリィ!? そういうのは、空気を読んで聞かないのがマナーでしょっ!」
「?アナタこそ何言ってるの?空気は読めないでしょ?」
「そういう意味じゃないのっ! それは、例えっていうか、比喩っていうか……ああもう!」
言語の違いに頭を抱えたくなる瞬間であった。
「一応言っておくけど、これは事務所的に必要な確認よ。恋人との関係がどこまで進んでるか、ちゃんと把握しておかないといけないから。アナタ、うちの看板女優なんだし。ウソはダメよ」
「……うぅ」
事務所が持ち出されたら、光も反抗できない。
光は視線を逸らし、悔しそうに小さく唇を噛んだむと──
「……ました……」
「え? 聞こえなかった」
「……しました……」
「もっと声を張ってくれない?」
「しましたって言ったのっ! もう! これで満足でしょ!?」
完全にヤケになって、光は顔を真っ赤にしながら叫んだ。
その頬は、羞恥の熱で今にも蒸気を噴き出しそうなほど火照っていた。
「へぇ~、ヒカル、したんだ。ねぇ、どっちから誘ったの?」
そんな光にさらに深掘りをするリリィ。
「それは──って、何でそんな事まで教えないといけないのよ!流石にそこまで事務所に言う必要はないでしょ!?」
一瞬、言いかけたが、ハッとなって慌てて踏みとどまり、抗議する光
そんな光に対してリリィは、更に、サラッと爆弾を落とす。
「事務所ってのはウソよ」
「……は?」
思わず固まる光。
何を言ってるのか分からないと言った様子だ。
しかし、当然だろう。
事務所的に恋人との関係の進捗の報告が必要というから羞恥の感情を堪えて答えたのに、それがウソだったというのだから。
「常識的に考えて、いくら事務所でもそんなセイシティブな所まで聞かないって分かるでしょ。そこに気づかないなんて、メンタル不調で頭が回ってない証拠ね」
しかし、リリィはそんな呆然とする光に平然とそう言ってのける。
数秒後、ようやく光は我に帰る
「え、ち、ちょっと待って。リ、リリィ!いくら何でもやっていい事と悪い事があるよ!?今のは完全に人としてやったらダメなやつだよ!」
光はリリィが運転中だという事を忘れて、ユサユサと体を強く揺さぶる。
だがリリィは、特に慌てた様子もなく、冷静に言い放つ。
「やめときなさい。これで事故にでもなったら、損するのは私より圧倒的にあなたの方よ。恋人ができた次の日に運転妨害で警察に連行されたいの?たけくんに手錠姿、見せる気?」
「何マトモなことを言ってるのよ!?倫理観のかけ離れた最低な事をしたクセに!!」
全く悪気を見せず、真顔で嗜めてくるリリィにさらに頭に血が上るが、確かに運転手の運転の妨害をするのは危ないので、光は仕方なくリリィから手を離す。
「まあ、ウソをついたのは謝るわ。でも、さっきのどんよりした空気は晴れたでしょ? 少しは元気、出てきたんじゃない?」
「……なに? 私の元気を出すためにしたって言いたいの?」
「そうよ。まあ、98%は私の好奇心だけど」
「私のための部分、2%しかないじゃん!? それって“私のため”って言えるの!?」
「動機がどうであれ、結果として涙が引っ込んでるんだから、アナタのためになってるのよ。それに、私がいなかったら、寂しさに耐えきれなくなって、即たけくんに電話して“重い”って引かれるルート一直線だったわよ。その未来を回避させてあげたんだから感謝しなさい」
「あんなウソついといて、よくそんな事言えるよね!?あと、さっきから気になってたんだけど、何ナチュラルに“たけくん”呼びしてるの?」
「ダメなの?」
「当たり前だよ! たけくんに“たけくん”って呼んでいいのは、私だけなのっ! リリィは言ったらダメ!」
「……はぁ。ほんと、めんどくさい子」
「なによーっ! もうリリィなんて知らないっ!」
光は頬を膨らませてぷいっと顔を背け、不貞腐れたように窓の外を見つめる。
リリィはそんな光を横目で見ながらも、特に気にする様子もなく、車をホテルへと走らせた。
──たわいもないやりとりであった。
けれど。
光の胸の奥にあった寂しさは、確かに、ほんの少しだけ、薄らいでいたのだった。
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