22 またね
現在時刻は、午前十時半。
ついに、ひーちゃんがホテルへ戻る時間が来てしまった。
長いようで、でも振り返ってみればあっという間で──それでいて、濃密なひとときだった。
ひーちゃんはコートに袖を通し、玄関先で靴を履く。
帰りは、彼女のマネージャーさんが車で迎えに来てくれるらしい。
昨日、ひーちゃんがここへ来たのはすでに日も沈んだ後で、人目を気にする必要はほとんどなかったけれど、今はもう明るい時間帯だ。
彼女の立場を思えば、車での移動がいちばん安全だろう。
「それじゃあ……また、しばらくお別れだね」
「うん。ひーちゃんと久しぶりに一緒に過ごせて、本当に嬉しかったよ」
「私も。たけくんと一緒にいられて、すごく楽しかった。特に、あのだし巻き卵。久しぶりに食べたけど、感動ものだったよ。たけくんの手料理、またしばらくはお預けか〜」
「次会うときまでに、もっと腕を上げておくから。期待しててね」
「うん、楽しみにしてる! あっ、でもね……料理だけじゃなくて、ゲームの腕も上げといてね?」
「ハハ、それも精進しておきます……」
さっきまでふたりでやっていたゲーム――昨日に引き続き対戦形式のものだったけど、僕は一度も勝てなかった。
善戦はするのに、最後の最後でひーちゃんにうまく逃げ切られてしまうのだ。
次に会うときには、せめて五戦中二勝くらいはできるようになっていたいものである。
そう思っていたそのとき──
ピロン、と通知音が鳴った。
ひーちゃんがスマホを取り出して画面を確認する。
「……あ、マネージャーだ。もう着いてるみたい。マンションの前で待ってるって。すぐに出られる状態だってさ」
「そっか……」
このお別れを最後に、次にひーちゃんに会えるのは──、一年後。
恋人として、ようやく一歩を踏み出したばかりなのに、また長い時間を隔てることになる。
当然寂しい気持ちはある。
でも、それを表情や言葉にして伝えて、しめったい空気にはしたくなかった。
だから、僕は寂しさを飲み込んで笑って見送る。
ついでにいうなら、しめったい空気を出してお別れをしておきながら、後日、普通にビデオ電話で会話をするのは恥ずかしいという気持ちもあった。
「一年後にまた一緒に過ごせる日、楽しみにしているよ」
「うん、私も。──離れてる間に浮気したらダメだよ?」
「勿論しないよ。それをいうならひーちゃんこそ、向こうでスペックの高い俳優と演じてるうちに、本当に恋に落ちたとかやめてね?」
「そんなベタベタな展開はおきないよ。私の恋人はたけくんだけ。これは絶対」
「僕も。ひーちゃん以外を好きになることはないよ」
最後に冗談を交えながら、お互いの気持ちを再確認する。
ひーちゃんは僕の言葉に満足そうに頷き、そのまま玄関のドアへと歩く。
そして、玄関のドアに手をかける──が。
そこでぴたりと手が止まった。
そして、何かを思い出したようにくるりと僕の方へと戻ってきて──
「ん」
「……!」
不意に、僕の唇にそっとキスを落とす。
「ひーちゃん……今のは……?」
「ん、最後に、ね。……しばらく会えなくなるから」
ひーちゃんは少しだけ照れくさそうに微笑んでそう言って、くるりと背を向けた。
そして、
「それじゃあね。バイバイ。たけくん」
「う、うん。またね。ひーちゃん」
ひーちゃんは背を向けたまま、僕に手を振って次こそ玄関を出ていったのだった。
──静かになった。
ひーちゃんが帰っていった。
つまり、いつもの日常が戻ってきたということだ。
だけど、玄関のドアを閉めてリビングに戻った僕を迎えたのは、どこか空っぽになったような空気だった。
ほんの一日。
それだけの短い時間だったのに、ひーちゃんと過ごした時間は、あまりにも濃密で、あたたかくて。
その分だけ、いつもの日常が急に色あせて見えてしまう。
誰もいないリビング。
さっきまで並んで座っていたソファ。
洗い物のないキッチン。
テレビ前に置かれているゲームのコントローラー。
一人暮らしを始めて半年。
過ごし慣れた筈の空間に、これまで感じたことのなかった、ぽっかりとした孤独が広がっていた。
「ハァ。こうして一人になるとやっぱり寂しいなぁ。」
誰もいない部屋で僕はそうポツリと呟く。
僕は寂しさを埋めるためにすぐにでもひーちゃんにスマホで連絡を取りたい衝動に駆られたが、サヨナラをして、まだ5分となってもいないのに、もう連絡したとあっては、流石にドンびかれるだろう。
それに、
「こんな情けない感傷に浸ってるってひーちゃんに知られたくないしなー」
別れた途端、急に寂しくなったなんて、恥ずかしくてとてもひーちゃんに言えるものではない。
なのでここは連絡を取るのを我慢する。
「……ひーちゃんは今どんな気持ちを何だろう。」
現在、僕自身は虚無感と孤独感に苛まれてしまっている。
故に、ひーちゃんの方は現在どう思っているのかが、ふと気になった。
思い出すのはつい先ほどのひーちゃんの様子
玄関での別れ際、ひーちゃんは特段何か変わった様子はなくいつも通りの明るいひーちゃんであった。
僕はひーちゃんは毅然としていて、多少のことでは揺らがない凄く強い心を持っている反面、それでいて、どこか脆く弱い部分もあるのを知っている。
現在、ひーちゃんは、寂しさを抱えながらも、すでに気持ちを切り替えて、女優として前を向いているかもしれないし──あるいは、僕と同じように、今ごろ、ひとりになって寂しさに苛まれているかもしれない。
結局のところ、彼女の今の気持ちなんて、想像するしかできない。
……でも、もしもひーちゃんがすでに前を向いているのだとしたら、僕ばかりが沈んでいるわけにはいかない。
「……落ち込んでても仕方ないか。こんなときこそ、掃除でもして気分を切りかえよう」
寂しくはあるが、だからといっていつまでも気持ちを沈めていてもなにも好転はしないのだ。
だったら、今出来ることをして過ごし、この寂しはを紛らわせた方がいいに決まっている。
僕はそう思い、部屋の掃除に取り掛かるのであった。
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