20 朝食の会話
チュン、チュン──。
窓の外から聞こえてくる雀の鳴き声と、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、そっと僕の眠りをほどいていく。
「ん……んー……」
まどろみの中で軽く伸びをして、ゆっくりとまぶたを開く。まだぼんやりとした頭で枕元の時計に目をやると、短針は朝の6時半を指していた。
昨日は遅くまで、ひーちゃんと一緒に過ごしたというのに──こんなにも早く目が覚めてしまうのは、朝早く起きる生活が体に染み付いてしまっている社会人の悲しき習性なのかもしれない。
眠気を振り払うように目を擦りながら、ふと隣に視線を向ける。
──するとそこには、ひーちゃんがすぅすぅと静かな寝息を立てながら、僕の手を握って眠っていた。
その表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも無防備で、そして、驚くほど可愛らしかった。
昨日、あんなに長い時間を共にしたというのに、今こうして目覚めてすぐ隣にひーちゃんがいるというのが未だに信じられない思い出ある。
確かひーちゃんは11時までにホテルに着けば大丈夫と言っていたので、今、無理して起こす必要はない。
ひーちゃんの寝顔に朝から癒されながら、僕はそっと身を潜め、静かにベッドから身を起こす。
──ただ
この時、僕の手を握るひーちゃんの指を外すのには、少しだけ手こずった。
僕が手を離そうとすると、ひーちゃんは名残惜しそうに、きゅっと力を込めて握り返してきたのだ。
まるで「もう少しだけ、一緒にいて」と言っているかのように。
その小さな仕草に、僕は思わず動きを止める。
もう少し、このままでも──。
そんな考えが一瞬、脳裏をかすめた。
けれど、それでも僕はなんとかその誘惑を断ち切り、彼女の眠りを妨げないよう細心の注意を払いながら、優しくその手を離した。
そして、着替えだけを持って、そっと寝室を出る。
部屋から出た僕はリビングに移動し、休日用のラフな服に着替える。
その後、洗面所で顔を洗って、しっかりと眠気を追い払う。
ふう、とひと息ついて、僕は静かにキッチンへと向かった。
もちろん、朝ごはんを作るためだ。
本来なら、休日の朝はもう少しゆっくりしてから動き出すのだが、今日は特別だ。なにせ──ひーちゃんがいる。
僕の予想が正しければ、ひーちゃんもおそらく7時くらいには目を覚ますはずだ。
なぜなら彼女も僕と同じで、体内時計がしっかりしていて、自然と決まった時間に目を覚ますタイプなのだ。
僕が6時半、ひーちゃんが7時。
──それだけの違いである。
だから今、この時間からご飯の準備を始めておけば、ちょうど彼女が起きてくる頃には、朝食が食べごろになっているというわけだ。
僕は、いつも以上に気合いを入れて、台所に立った。
ひーちゃんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、調理をしていく。
そして30分後、朝食が一通り完成した。
今日の朝の献立は、レタスとトマトにカマンベールチーズを加えた彩り豊かなサラダ、半熟の目玉焼き、ふわふわのフレンチトースト、そしてヨーグルト。
昨日の夕食が和食だったこともあり、今日は少し気分を変えて、洋食にしてみたのだ。
そんな折、ちょうど料理をテーブルに並べ終えたタイミングで──僕の予想通り、寝室の扉が静かに開き、ひーちゃんが眠たげな目をこすりながら、ひょこっと顔を出した。
「ふぁーあ……たけくん、おはよ……」
あくび混じりにゆるっとした声でそう言いながら、まだ寝ぼけ眼のまま僕の方へと歩いてくるひーちゃん。その姿が可愛くて、僕は思わず口元を緩めてしまう。
「おはよう、ひーちゃん。朝ごはん、もう出来てるけど、食べる?」
そう声をかけると、ひーちゃんはテーブルの上を見て、眠そうだった表情から一転。ぱっと目を見開いて驚きの表情を見せた。
「わっ、本当だ……もう出来てる! さすがたけくん、朝から段取り完璧だね!」
「ハハ、ありがと」
褒められて、僕は素直に嬉しく思う。
朝早くから張り切って作ったかいがあったというものだ。
「……あ、でもちょっとだけ待っててもらっていい? 先に顔洗ってくるから。洗面所、借りるね?」
「どうぞどうぞ。ゆっくりでいいよ」
ひーちゃんはそう言って軽やかに歩き出し、洗面所へと向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、僕はダイニングチェアに腰を下ろし、スマホを手に取りつつ、のんびりとひーちゃんが戻るのを待つ。
そして、10分ほど経った頃──
洗面所から戻ってきたひーちゃんは、髪も整え、すっきりとした表情になっていた。
「お待たせー。待たせてごめんね」
「ううん、大丈夫。じゃあ、食べよっか?」
「うんっ!」
にこにこと笑いながら、ひーちゃんは僕の向かいに腰を下ろす。
そして──
「「いただきます」」
ふたりで手を合わせて、朝食をいただく。
「ん~……美味しいっ!」
さっそくフレンチトーストをひと口食べたひーちゃんは、目を輝かせながら満面の笑みを浮かべた。
「ねぇ、これ本当にお店レベルだよ! 朝からこんなご馳走食べられるなんて……幸せすぎる……!」
両手でフォークを持ったまま、まるで幸せをかみしめるように言うひーちゃんの姿に、思わず照れ笑いがこぼれる。
「そんな大げさな……って、言おうと思ったけど、そういえばひーちゃんって、あっちじゃ朝ごはん、作ってなかったんだっけ」
「うん。毎朝、自分で作るのってどうしても面倒でさ。コンビニとかで栄養補助食品を買って、それにヨーグルトとかゆで卵を足すだけって感じ」
「それだけじゃ、ちょっと味気なくない?」
「うーん、まぁ……確かに味は単調だけど、必要な栄養はちゃんと摂れてるし。手間とか効率を考えると、それで十分かなって思っちゃうんだよね。ご飯作る時間があるなら、そのぶん寝てたいって思うタイプだから」
「……まあ、僕も社会人だから、その気持ちはわかるけど、」
ひーちゃんの言葉を聞いて、思わずうなずく。確かに、夜遅くまで撮影や仕事があるひーちゃんにとって、朝の数分も貴重な休息時間なのだろう。
でも、それでも──朝食をそんなふうに、ただ済ませるだけの時間にしてしまうのは、少しもったいない気がする。
「今みたいに、僕がひーちゃんの分も毎日ご飯を作ってあげられたらいいんだけどね。でも、ひーちゃん、今は海外だし……」
せっかく、恋人になったのだ。
本当は、朝も夜も、毎日ちゃんとしたご飯を作って、ひーちゃんに食べてもらいたい。
料理は僕の趣味だし、ひとり分がふたり分になったところで、まったく苦じゃない。
寧ろ、ひーちゃんの美味しそうに食べる所を考えたら、やる気が出てくるというものである。
でも、家が隣同士だったあの頃とは違って、今のひーちゃんは海外を拠点に活動している。
……どう頑張っても、今はそれが叶わない。
そう思うと、なんだか無念で、つい、ぼやきが漏れてしまった。
なのに──そんな僕の言葉に、ひーちゃんはなぜか嬉しそうな顔をした。
「ふふっ。確かに、それは残念だなぁ。たけくんの手料理が毎日食べられるなんて、夢みたいな生活だもんね」
「え、いや、そう言うわりには、全然残念そうに見えないんだけど? どうして?」
思わず問いかけると、ひーちゃんはいたずらっぽく微笑んで、まるでサプライズを仕掛けた子どもみたいに言った。
「だってね、たしかに“今は”無理だけど……その夢みたいな生活、1年後には叶うからね」
「──え?」
「まだたけくんには言ってなかったんだけど……私、1年後に、活動拠点を日本に移すつもりなんだ」
「ええ!本当に!?」
あまりにもサラッと告げられたその一言に、思わず声を上げてしまった。
驚く僕を見て、ひーちゃんは「やった」というように満足げな笑みを浮かべる。
「どう? びっくりした?」
「そりゃ驚くよ。まさか、ひーちゃんが日本に戻ってくるなんて……。しかも1年後って、そう遠い話じゃないじやん。事務所が許可を出してくれたの?」
「うん。実はね、私の所属してる事務所、アメリカ以外での活動は、けっこう本人の意思が尊重されるんだ。契約でも“全世界での活動OK”ってなってるし」
ひーちゃんは食事の手を続けながら説明をする。
「日本は私にとって、母国だからね。企業との提携も日本のほうがスムーズにいくことが多くて、実は利益面でも日本にいた方が事務所にとってもメリットが大きいんだよね。欧州だと、アジア圏の女優が企業と提携しようと思うと、いろいろと面倒な手続きが多くてさ……」
「……なるほど、あっちじゃ、そんな事情があるんだ」
「うん。だからね、事務所からも“むしろ日本にいてくれた方がありがたい”って感じで、わりとすんなりOKが出たの。……でもね、今は今回の映画をはじめ、いくつか大きなプロジェクトが続いてるから、それが全部落ち着いて、日本に完全に戻れるのが──1年後ってわけ」
「そうだったんだ……」
今は無理でも、1年後、ひーちゃんと一緒に昨日みたいな生活が出来る。
それが分かり、僕は嬉しくなる。
「まぁ、そう言う訳だから、1年後。高校生までの時みたいに、たけくんとまた一緒に過ごせる様になると思うから、その時は昨日や今みたいに、ご飯、お願いしても良いかな?勿論私も家事は手伝うから」
そうお願いをするひーちゃんに対する返答など一つしかないだろう。
「勿論だよ。朝まで晩も、なんならお昼のお弁当も僕が作るよ」
僕の返答を聞いたひーちゃんは満面の笑みを浮かべる。
「やった!たけくんの料理を毎日食べれる生活、楽しみにしてるね!」
「うん。僕もその時までにもっと料理の腕をあげておくよ」
「今でも十分、凄いと思うけどなー。」
ひーちゃんはそう嬉しい事を言ってくれるが、僕は軽く首を横に振る
「まだ作れる料理の種類が限られてるからね。もっとバリエーション増やして、ひーちゃんに、いろんな美味しいものを食べてもらえるようになりたいんだ」
そう言うと、ひーちゃんはふっと優しく目を細めて、僕のことをまっすぐ見つめた。
「……彼女思いの彼氏がいて、ほんと、私は幸せ者だね」
「それは、僕の方こそだよ。ひーちゃんみたいな、誰もが羨む恋人ができて……僕は、たぶん、世界一の幸せ者だと思う」
平凡な会社員の僕が、世界中の注目を集めるような超人気女優と恋人になるなんて──
まるでドラマかアニメみたいな、現実離れした話だ。
きっと、何十回生まれ変わっても、もう二度と巡り会えない奇跡。
この幸運を、「幸せ」と呼ばずして、なんと言えばいいのだろう。
「誰もが羨む、か……」
僕の言った言葉に、なぜかひーちゃんは反応をする。
「ん? どうしたの?」
僕が問い返すと、ひーちゃんは嬉しそうに、でもどこか感慨深そうに呟いた。
「ううん。たけくんがそう思ってくれたのなら……私、女優になって、よかったなって思ったの」
「え?」
「だって、たけくん昔テレビで有名人が一般人と結婚をしたって報道を見た時言ってたから。“こんな有名人と結婚できたら、その彼氏も鼻が高いだろうなぁ”って」
「……あっ」
ひーちゃんに言われて僕は思い出す。
確かに昔、ひーちゃんとテレビを見てる時にそんな事を言った記憶がある。
あの時はまさか自分がその鼻が高くなる立場になるとは夢にも思ってなかった。
ひーちゃんは続けて言う。
「私がたけくんと離れて、女優って道を選んだ理由はいくつかあるよ? でもね、その中のひとつには、“有名になってからたけくんと付き合って、たけくんの鼻をすっごく高くしてやろう”って、そういう理由もこっそり混ざってたんだ」
「え!? そうだったの?」
あまりに突飛な告白に、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
ひーちゃんは、そんな僕を見て、満足げな表情を浮かべる。
「だから今、ちょっとだけ達成感あるんだよ? ふふっ、どう? 鼻、ちゃんと高くなってる?」
そう言って、ひーちゃんはテーブル越しに身を乗り出し、僕の鼻先を指でちょん、とつついた。
「うわっ……急にやめてよ。恥ずかしいってば」
驚きと照れをごまかすように口を尖らせる僕に、ひーちゃんはますます楽しそうに笑いながら、
「ふふっ、恥ずかしがってるたけくん、可愛い」
と言って、さらにニコニコと笑みを浮かべる
一応、僕だって男だ。可愛いと言われて、嬉しいと思うタイプじゃないが、ひーちゃんが楽しそうなので、この場は取り敢えずよしとしておいた。
それよりも──。
まさか、ひーちゃんが女優という大きな夢を選んだ理由のひとつに、僕の過去の何気ない一言が関わっていたなんて。
世界的な女優として活躍するひーちゃんの、その原点のほんの一片に、自分がいたという事実。
そして、今こうして、誰もが羨む恋人として、彼女の隣にいられるという奇跡のような現実。
嬉しくて、誇らしくて、ちょっとくすぐったくて──胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
……うん。これはたしかに、ひーちゃんの言う通りだ。
今の僕の鼻は、きっと誰よりも高くなっている。
でも。
──その鼻が、いつか折れてしまわないように。
有頂天になるのではなく、彼女の隣に立ち続けるために。
“世界的な女優の恋人”として、“ひーちゃんの恋人”として、ちゃんと胸を張っていられるように。
僕はこれからも、自分なりにできることを一つずつ、努力していこうと、
そう思うのであった。
最後までお読み下さりありがとうございました!




