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薄暗いバーのカウンターに並んで座る佐藤とリー。暖かいオレンジ色の照明が二人の顔を柔らかく照らし、周囲の音はかすかに耳に届く程度だ。静かなジャズが流れ、カウンターの向こう側ではバーテンダーが手際よくグラスを磨いている。
佐藤はグラスの中で揺れる琥珀色の液体を見つめながら、リーと話していた。話題は自然と彼らの職場に移り、リーはシンクラ社の魅力について語り始めた。確かにリーの言葉には説得力があり、シンクラ社の成長やビジョンを力強く描写していた。しかし、佐藤はどことなく彼女の語り口に形式的な雰囲気を感じ取った。まるで会社のパンフレットをそのまま読んでいるような、熱意はあるが心からではないような口調だった。
佐藤はふと、リーが心のどこかで不満や不安を抱えているのではないかと感じ始めた。そして、会話の流れが変わり、リーがふいに会社に対する愚痴をこぼしたとき、その直感が確信に変わった。
「シンクラは確かに成長しているけれど、プレッシャーも大きいのよ」とリーはグラスを軽く振りながら言った。「結果を出さなければならないし、上層部の期待も高い。時には、自分が何のために頑張っているのかわからなくなることもあるわ。」
佐藤は興味深く耳を傾けた。リーのいつも冷静で自信に満ちた表情の裏には、やはり人間らしい悩みがあるのだと感じた。リーの声はどこか疲れたようで、少し落ち着きを失っていた。
「そういうとき、何かリラックスできることをしてる?」佐藤は尋ねた。
「うーん、最近は仕事が忙しくてね、あまり自分の時間が取れないわ」とリーは苦笑いを浮かべた。「運が良くないのかもしれない。ろくな男とも付き合っていないし、プライベートはうまくいかないことばかり。」
その言葉に、佐藤は酔った勢いも手伝って、以前から気になっていたことを口にした。「そういえば、前にリーさんに似た女性を繁華街で見かけたことがあるんだ。」
リーは一瞬、驚いたように目を見開き、それから微妙に視線をそらした。「そう…かもしれないわね。昔はよく行っていた店があったけど、今はあまり行かなくなったわ。」彼女は淡々と答えたが、どこかぎこちない感じがした。
「どんな店?」佐藤が興味本位で尋ねると、リーは少し戸惑ったように肩をすくめた。「別に特別な店じゃないわ。仕事の合間に立ち寄るくらい。でも、最近は忙しくてね…」彼女はそれ以上詳しく話そうとはせず、あっさりと話題を変えた。
リーの言葉の端々からは、彼女が何かを隠しているような、何か言えないことがあるような雰囲気が漂っていた。それでも佐藤は、それ以上深く突っ込もうとはしなかった。彼はただ、目の前のグラスを持ち上げ、静かにリーの話を聞き続けた。リーの内面の複雑さと、彼女の隠された一面に対して、佐藤の心には一抹の興味と同情が芽生えていた。




