(34)
夜、佐藤は北川が指定した新宿のバーに向かった。店のドアを開けると、すでに北川がカウンターに座り、ウイスキーを傾けていた。北川は佐藤を見ると、手を挙げて合図し、にっこりと笑った。
「佐藤さん、さすがだね」と、佐藤が席に着くなり、北川が絶賛した。「今回の案件、本当にお見事だったよ。正直、うちも相当な準備をして臨んだんだけど、まさかこんな形で負けるとは思わなかった。やっぱり佐藤さんはすごいよ。」
佐藤は少し微笑んで答えた。「ありがとう。でも、うちのチーム全員の努力があってこその結果だよ。」
北川の賞賛は止まらず、佐藤は少し気味が悪いほどだった。だが、話は次第にシンクラ社の状況に移っていった。
「シンクラ社は、実力主義だから、結果を出せばすぐに評価されるんだ。俺も入社してからすぐに昇進したし、給料も大幅に上がった。まさにやりがいのある会社だよ」と、北川は自慢気に話した。
佐藤は相槌を打ちながらも、あまり興味を示さなかった。北川の話が長引くにつれて、佐藤は心の中で「ただの自慢話か」と考え始めていた。そんな時、北川がふと真顔になり、佐藤の方に身を乗り出した。
「ところで、佐藤さん、シンクラに来る気はない?君のような優秀な人材が欲しいんだ。今の会社でのポジションや待遇以上の条件を用意できると思うよ。」
佐藤は驚きとともに、わずかな警戒心を感じた。少し間を置いて、口を開いた。「北川さん、いろんな会社から引き抜きをして、次々に案件を奪うやり方は、確かにビジネスとしては成功するかもしれない。でも、働いている人間として、そういうやり方にはあまり賛成できないんだ。」
北川は少し眉をひそめたが、すぐに反論した。「でも、佐藤さん、企業がM&Aや人材獲得で大きくなるのは、正当なビジネスの手法だよ。能力のある人に声をかけるのは当たり前のことだし、本人にとってもチャンスになる。君だってもっといい条件で働けるなら、それを選ぶべきだろう?」
「確かに、そういう考え方も理解できるよ。でも、僕は仕事のやりがいや、同僚との関係も大切にしたいんだ。シンクラ社のやり方は、何か人間味が欠けているように感じるんだよね。」佐藤は穏やかに、しかしはっきりと答えた。
二人の間に少し緊張感が漂い始めた。そのとき、バーのドアが開き、リーが入ってきた。彼女はすぐに佐藤と北川に気づくと、微笑みを浮かべて二人のテーブルに向かって歩いてきた。
「こんばんは、佐藤さん、北川さん。ここでお二人に会えるとは思わなかったわ。」リーは軽やかな口調で挨拶し、二人に合流した。佐藤は内心の動揺を隠しながら、リーに返事をした。
「こんばんは、リーさん。偶然だね、こんなところで会うなんて。」しかし、佐藤の心中には違和感が広がっていた。バーの空間にリーが現れるのが偶然とは思えなかったからだ。
北川がにやりと笑いながら言った。「実はね、佐藤さん。今日は君を誘ってシンクラに来てもらう話をしようと思ってたんだ。リーさんにも来てもらって、正式に話を進めようと思ってね。君が快諾してくれる頃合いを見計らってたんだ。」
佐藤の胸に冷たい感覚が広がった。これは単なる友人との飲み会ではなく、北川とリーによる計画的な勧誘だったのだ。視線をリーに向けると、彼女は微笑を浮かべながらも、その目には揺るぎない決意が宿っているのが見えた。
「北川さん、リーさん、悪いけど僕はシンクラに行くつもりはないよ。僕は今の会社が好きだし、そこでの仕事にやりがいを感じているんだ。」佐藤は冷静な声で答えた。
一瞬の沈黙がバーに訪れた。リーの目が僅かに細まり、北川の笑顔が引きつったように見えた。だが、佐藤はそれ以上の言葉を発さず、ただグラスを静かに傾けた。




