5話
例の作戦会議が開かれたのは、結局予告から二週間も後。忘れた頃に週末の予定を聞かれ、どういうわけか海人が航の家に来ることになった。
駅に迎えに行くと、海人は黒のハイネックニットにスリムなパンツを合わせた、これまたファッションモデル顔負けの着こなしで現れた。
「あ、わったるー!」
「ホント、腹立つ」
「えっ、なんで会って秒で怒られてるの⁈ なんで?」
わからない、とショックを受ける海人に背を向けて歩き出す。「つぎは迎えに来ないから、道覚えろよ」と言うと、もうつぎの約束してくれるの? と意気揚々と返されて言葉に詰まる。休日にまたこうして海人に会えたのが嬉しくて、つい気が緩んでしまった。
「この前も思ったけど、航ってなに着ても似合うのすごい。今日のもめちゃくちゃいい」
無地のカラーシャツに緩めのパンツを履いただけの、飾りっけのない姿をまじまじと見つめられて恥ずかしい。もっと気合をいれて選べばよかったと後悔する。
「別に普通だろ」ぶっきらぼうに返すも、褒められて悪い気はしなかった。
「その普通をかっこよく着こなしちゃう航がすごいんだよ。スタイルがいいとかそんな次元じゃなくてさ、こう、」
「褒めたってなにも出ないぞ」
なんだか長くなりそうな気配に釘をさせば、そんなんじゃないのにと口をすぼめた。海人の掛け値なしの誉め言葉は、今の航にはくすぐったい。まるで海人が自分のことを好きなのかもしれない、と勘違いしそうになるから質が悪い。
航の家は駅から15分ほど歩いた住宅街にあるマンション。海人のマンションみたいに高層階建てじゃないし、至って普通の造りをしている。
「あら、こんにちは」
玄関に入ると、母親が奥から現れた。友達が来るなんて、高校になって初めてのことに目をキラキラさせている。
「こんにちは! 同じクラスの瀬下海人です。今日は突然お邪魔してすみません」
「海人くん、航と仲良くしてくれてどうもありがとう。……って、やだ、めちゃくちゃイケメンねぇ!」
「俺なんか、航の足元にも及ばないです。いやぁ、それにしても美しいですね! さすが航のお母さん! 航はお母さん似なんですねぇ」
「まぁ! ねぇ、航聞いた? 美しいなんて言われちゃったお母さん」
勝手にやってろ。
くだらない褒め合い合戦に内心でそう吐き捨てて、航は一人中へと進む。
「さ、上がって上がって」
「はい、お邪魔します。あとこれ、うちの駅前にあるケーキ屋の焼き菓子です」
「やだ、そんな気使わなくていいのに! でもありがとう、後でおやつにみんなで頂くわね」
航に遅れて、母親と海人が和やかな雰囲気で話しながらリビングにたどり着く。一体玄関からここまでの短い距離をどうやったらそんなに時間が掛けられるんだ、と本気で疑問に思った。
「海人くん、こっちの学校にはもう慣れた?」
「はい、航のおかげで毎日楽しいです」
「えぇ……こんな不愛想なのに? 親の私にだってめったに笑ってくれないのよ?」
心底不思議そうに返す母親に、海人はいつもの明るい調子で笑う。
「ははっ、確かにあんまり笑わないけど、一緒にいて楽しいですよ、すごく」
「そうなの? 海人くんみたいないい子が友達になってくれて、本当にありがたいわぁ。これからも仲良くしてあげてね」
「もちろんです」
「ほら、行くぞ」
二人が盛り上がってる間に用意した麦茶を両手に持ち、ついてこいと顎を反らしてドアの方を指す。
「あ、手伝うよ」
「ドア開けて」
開いていたリビングドアを先にくぐり抜け、廊下の右側にある自室のドアを開けてもらい中へと入った。あらかじめ出しておいた円卓に麦茶を置いて、座布団にドスンと腰を下ろす。
「お邪魔しまーす」
海人は、部屋に一歩入るなり鼻をふがふがし始めた。
「ふはぁー、航の匂いがする。ベッドにダイブしてもいい?」
「今すぐ帰れ」
「嘘です嘘ですごめんなさい。……にしても、なんもないね」
へこへこしながら部屋を見渡して「俺の部屋とは大違い」とつぶやいた。物欲もそれほどなく、部屋には好きなバンドを聞くためのスピーカーと雑誌や小説が入った本棚があるだけで、自分でも殺伐としていると思うくらいなにもない。
「座れよ」
「うん……え、え、え、ええぇっ」
突然キョドりだした海人に、今度はなんだよとその視線をたどる。勉強机の上の写真を凝視していた。
「嘘! 俺の写真! ネップリ出した時の! これってもう1年以上前のやつじゃない?」
実はそこに飾ってあるの以外の写真も全部持ってることは黙っておく。
「うわぁ、感激だなぁ」
あぁ、くそ。恥ずかしい。
キラキラと喜びに満ちたまなざしを向けられて、顔を背ける。
KAIの写真がおすすめに流れてきたとき、感動と同時に自分と同い年のやつがこんなすごい写真を撮ってるのかとショックも受けた。そこに羨望もあった。打ち込めるものがある楽しさを、自分は知っているから。
それでも、KAIの撮る写真には惹かれるものがあって、見ないという選択肢はなかった。
「そうだ、これ持ってきたんだけど」
海人はニコニコ顔で真向いに座り、鞄から封筒を取り出した。そして中身を円卓の上に一枚ずつ並べていった。
「あ」
それらは、この前海人の部屋で見た写真のいくつかで。
「航が好きって言ってくれたやつ、プリントしてきたんだ」
覚えてたのか。その場の勢いでまくし立てたあれを、ちゃんと。
そのことに、じわりと温かなものが胸にしみこんでいく。
「よかったら、もらってくれると嬉しい」
「い、いいのか⁉」
「もちろん」
前に一度リンスタの写真をダウンロードして印刷してみたことがあったのだが、画質が荒すぎて話しにならなかった。数枚ある中から、一つを手に取る。ぎゅっと凝縮されたきめ細やかな画質の美しいそれは、航が一番好きな海の写真。静かに波立つ海面が、光を抱え込んで煌めいていて眩しい。水色からピンク色にグラデーションしている空も、ひと際目を惹いた。
ずっとスマホの中だけで見ていたものを、こうして手にすると言うのはなんとも感慨深さがこみあげてくる。
「ありがとう、すっげー嬉しい!」
写真から顔を起こすと、相変わらずニコニコと嬉しそうな海人の顔があった。子どもっぽいと言われているようで、恥ずかしさが沸き起こりパッと視線を外す。
テンション上がってはしゃぎすぎた。
「これ、リンスタに上げてた?」
照れ隠しに円卓に広げられたほかの写真の中から、見たことのない景色に手を伸ばした。
まっすぐに海沿いに伸びる街道を映していた。奥行のある道路と海の構図がかっこいい。
「あ、それは上げてない。ついこの間撮ったんだけど、完成してないから」
「完成してないって……、これもめちゃくちゃいいと思うけど」
意味がわからず、そう褒めた自分に海人はありがとうと笑う。笑うと目尻が下がって柔らかさが増す。
「でもね、足りてないんだ」
足りていない。なにがだろう。
もう一度視線を落とすも、その景色は文句の付けようがないくらいかっちりと枠にハマっている気がした。いくら考えてもわからず、「なにが?」と問う。
海人は円卓に肘をついて両手を組むと、その上にシャープな顎を乗せてこちらを見て言った。
「――航が、足りてない」
その目は、さっきまでのニコニコした穏やかな微笑みではなく、どこか蠱惑な光を秘めていて。なんだかすべてを見透かされているような、心もとない感覚に身体が震えた。
「お、俺?」
「そーだよー。言ったでしょ、今日は作戦会議だって。もうさ、この辺土地勘皆無だから苦労したんだよ」
この二週間、放課後にどこにも寄ることなく直帰していたのは、ロケ場所を探していたからだと海人は言った。
「で、やっと、いくつかいいとこ見つけて写真撮ってきたんだ」
そのうちの一つが、この街道。航たちが住むこの町は海に面してはいるが、海まで行くにはそこそこ遠い。自分の写真を撮るために二週間近くも探し回った上に、そんな所にまで行っていたのかと驚いた。
海人は鞄から別のファイルを取り出すと、「こことか、こことか……」と広げて見せてくれた。そのどれもが雰囲気のあるロケーションで、この中に自分を入れてもらえるのだと思うと俄然テンションが上がる。モデル時代にも、ロケ撮影は何度もあったが空の下で撮られるのはなんとも言えない解放感があった。
「あ、そうだ、撮った写真はコンテストに出したいと思ってるんだけど、どうかな」
もちろん航さえよければの話しなんだけど、と控えめに言う海人に航は「いいよ」と即答する。同意して撮る以上、海人の好きにさせようと思っていた。
「本当? じゃ、じゃぁ、直近のこれとか狙えそうだなって思ってて……」
スマホの画面を操作し出した海人に「俺そっちはわからないから、お前に任せる」と告げる。海人は、これまでにも何度もコンテストで賞を取っているのを知っているから、そこは疑っていない。
「おっけー、任せて。ロケ場所だけど、どこか気に入った場所ある?」
「いや……この中ならどこで撮っても文句ないわ。それも任せる」
悔しいけど、腹が立つくらい、どの写真もいい。
「じゃぁ、天気と時間帯がマッチしそうな日を狙って今度行ってみようか」
航は頷いて見せる。正直、今すぐ撮りに行きたいくらいだった。
「――ねぇ、航のこと、今ここで撮りたい」
真剣に乞われて、ドクンと心臓が跳ねた。身体が、頭が、撮られたいと叫んでいる。
「今自分がどんな顔してるかわからないでしょ。めちゃくちゃいい顔してる」
そういう海人も、煽情的な顔をしていた。撮りたくてたまらないと目が訴えている。真っ黒い、底なしに透き通る瞳に見つめられて、肌が粟立った。
「ここでか」
どうにか発した声は、掠れていて情けなく落ちていく。
「うん、俺も航を撮る練習したい。ずっと風景ばっかりだったし。あ、航は普通にしててくれればいいから」
普通に、と言われても困る。
ファッションモデルは、服をよく見せるためだったから、ポーズを指示されたり自分で考えたりして動いていたわけで。そうじゃない被写体というのは、そもそもどうすればいいのかなんて知らない。
こんなことならググっておくんだった。
海人は、カメラのレンズを付け替えて準備を終え、それをこちらに向ける。ぐん、と一気に緊張が増した。
「あ、ベッドに座って」
言われるまま座ると、足元の円卓や座布団を海人がどかしていく。少し離れてカメラを覗き込んで、場所を変えて角度を変えてを繰り返しポジションを選んでいた。
「緊張してる」
「そりゃするだろ」
キレ気味に返せば、ふふと笑われる。余裕綽々な態度が癇に障る。
「怒らないで、俺だって緊張してるんだよ。ポートレートなんて撮ったことないんだから」
じゃぁ、なんで俺を……。
「あ、ここにしよう。じゃぁ撮るよー。視線は窓の方に流して」
開きかけた口は、海人に遮られる。深呼吸を一つして、心を落ち着かせてから窓へと目を向けた瞬間シャッターが切られた。スマホやデジカメじゃない、重めのシャッター音が肌に響き、航は打ち震えた。
そうだ、これだ。
自分はずっとこの感覚を欲していたんだ、と心が喜ぶ。
まさかまたこうしてこの喜びを味わえるなんて……。
たとえこれが、仕事でなくても、人の目に触れなくても構わない。ただ、自分を撮りたいと、必要だと求められるそれだけでよかった。自分という存在を確かめるのには、十分だった。
そこからは、ただただ無心で撮影に臨んだ。視線を変えたり、体勢を変えたり、余計なことはなに一つ考えずに。いや、考える余地もないほどに没頭した。
海人がシャッターを切るタイミングもすごかった。
無駄打ちしない、的確な瞬間を捉えてシャッターを押す。プロと変わらないそれに、無我夢中になった。
たった十分程度の時間が、心地よかった。心地よい緊張感というのか、お互いに集中していたんだと思う。海人の終了を知らせる声で、航の意識はこっち側に引き戻された。
カメラの液晶で撮った写真を確認している海人が、「――だ、大丈夫かなこれ……」とつぶやく。
大丈夫とは、どういう意味だ。
一瞬にして、不安が押し寄せてきた。
やっぱり、自分なんかじゃ、海人のようなカメラマンを満足させられなかったんじゃないか。がっかりさせてしまったかもしれない。
焦ってなにも言えないでいると、海人が顔を上げてこちらを見る。その顔は情けなく歪んでいた。
「どうしよう……こんなかっこいい航、ほかの人に見せたくない……」
「は?」
「航を狙う輩が増えちゃうよぉ」
あほらしい。
涙目に訴える視線から逃れるように航はベッドに仰向けに倒れた。
「んだよ、ビビらせんなっつーの」
海人のリアクションはいちいち理解できなくて心臓に悪い。悪態をつきながらも、がっかりされたんじゃなくてホッとしている自分がいる。基本周りの目を気にせず生きてきたのに、海人の目に自分がどう映るのかはものすごく気になった。
海人の撮る写真は、いつだってかっこよくて綺麗で、心を揺さぶる。その世界を、自分のせいで壊すなんてことはあってはいけないから。
そんなことを考えていると、ふと視界が暗くなった。顔の横でベッドが沈む感覚に焦点を合わせた時には、もう目の前に海人の整った顔があった。心臓がひっくり返って、息が止まった。
「またキスしちゃうよ?」
海人の親指が唇をなぞる。滑るように触れた指の感触と熱が、一瞬で全身に広がり、思わず生唾を飲み込んでごくりと喉が鳴る。目を少し細めて見下ろす海人は、すごく色っぽくて見惚れてしまった。顔が近づいて、前髪が頬に触れて……
キスされる――!
とっさに目を閉じた。
「――なぁんて、ね」
するりと、遠ざかっていく気配。沈んだベッドは重みを失ってゆっくりと反発して元に戻った。目を開けたそこにはもう海人はいなくて。ベッドの縁に腰かけていた。
「航はちょっと無防備すぎる。隙だらけ」
「お前みたいに、好きでもないやつにほいほいキスしようとする方がどうかと思う」
「心外だなぁ。俺、そんな節操なしじゃないよ。好きだからキスしたいんだよ?」
「お前の好きは、薄っぺらいんだよ」
そうだ、毎日顔を合わせれば好きだのなんだの。もはやただの挨拶じゃないか。そうだ、外国では挨拶でキスするのと一緒で、こいつの場合それが好き好きコールなだけ。そこに特別な意味なんてない。
自分に言い聞かせるように航は納得する。
「薄利多売を狙ってるんだけど」
「戦略失敗だな」
言葉とは裏腹に、それにまんまとハマっている自分にいたたまれない。
「そんなぁー」
航はベッドから起き上がり、しょんぼりとする海人を置き去りにして部屋を出た。リビングへ行くと、ちょうど母親がお盆にお菓子を乗せている所で、変なところを見られずに済んでよかったと胸をなでおろす。
「あっ、ちょうどいいとこに来た。これ持っていって。……なんだか顔赤くない? 熱でもあるの?」
「ない。部屋がちょっと暑かっただけ」
「この時期にぃ?」
「代謝がいいんだよ」
訝しげな目を向ける母親からお盆をひったくって、航はリビングから引き返す。一瞬なにしに来たんだったかと頭がエラーを起こした。あ、そうだ、ただ単に海人から逃げてきただけだった。
キスされるかと思って……。
でもされなくて。
気配が離れていった時に感じた寂しさに、胸がじくじくと痛んだ。
「珍しいじゃん。喧嘩でもした?」
体育の授業中、ストレッチをしながら全が言う。いつもなら問答無用で海人に申し込まれるのだが、それよりも先に自分から動いて全に声をかけた。真尋には悪いが、今日は海人の相手をしてもらった。
恨めしい顔でこちらを凝視してくる海人を気づかないふりをして、航は全とストレッチを進める。座って開脚している全の背中を航が押していた。
「そういうわけじゃないんだけど……。あのさ、全が好きな相手って、仁美だろ。告白しないのか」
「うわ、お前どストレートにくるね」
だってずっと聞きたかったのだ。ストレッチの時間は限られている。
「今は告る気ないかな。だって、あいつ俺のことなんか男として見てねーじゃん?」
「いや、俺に聞かれても……」
「だよな、航はそっち方面壊滅的だもんな。俺がお前なら、その見た目をもっと有効活用するけどな」「うるせーよ、ほっとけ」
航の悪態は「はいはい」と軽く隅っこに追いやられる。
「だから、バスケでレギュラー入りして、俺に惚れさせてやるぜ!」
「すごいなお前……」
なんて前向きだろう。でも、なるほどその手があったか、と内心で手を叩いた。ただ指をくわえて見てるだけじゃ、なにも進まない。
でも、惚れさせるって、どうすれば?
全にはバスケがあって、仁美もバスケ部のマネージャーだから、バスケでかっこいい所を見せるのは理にかなってる。だけど自分には、アピールできるものがなに一つない。
「はい、つぎは航の番だぜ」
「ん?」
「俺は話したんだから、お前も話せ。どうせ海人絡みだろ、なんでも話してみ、聞いてやるから」
なんで、真尋といい全といい……こうも鋭いんだ?
冷や汗をかきながら、「あいつは関係ない」と苦し紛れに続ける。
「その……、す、好きな相手に好きになってもらうにはどうすればいいのかって……」
「ええええっ⁉」
「ばっ、声がでかい!」周囲の視線がバッと集まり、全が「なんでもないから~」と頭を下げる。
「悪い。いや、まさか航から恋バナを聞く日が来るとは思いもよらず……」
それは自分も同じだ。まさか自分から友人に恋愛相談をしかける日が来るなんて、本当に、雀の涙ほど考えたことすらない。全が驚くのも仕方がないので怒れない。
「はい、じゃぁ交代してー」
体育教諭の掛け声で、今度は航が床に座った。足をまっすぐ伸ばすと、背中をぐいぐい押された。
「痛い痛い! 力強すぎだろ」
「お前体固いなー。ちょっとは運動した方がいいぞ」
「汗をかくのは好きじゃないんだよ」
「けっ、どこまで王子様だよ。……んで、どうやったら好きになってもらえるかって? そんなん俺が一番知りたいっつーの」
そりゃそうかと納得してしまった。
「はい、開脚ー!」
掛け声で体勢を変える。思った以上に足が開かない。
「こればっかりは相手次第だからな」
至極全うな言葉に頷く。
相手の気持ちを変えることなんかできない。当たり前のことだ。
「あ、でも、前に『相手に自分を意識させるのも効果的』ってテレビかなんかで見たことあるな」
「意識させるって……」
どうやって? と言う前に全が続ける。
「できるだけ相手と会う時間を増やすのと……あ、そうだ、スキンシップもいいらしい」
スキンシップ……。
その言葉を聞いて一番に思い浮かんだのは、よく女子が「やだも~○○くんったら~!」と言って男子の肩を押しているシーン。あとは……、あれか、男子が女子にする頭なでなで。ドラマや漫画でよく見る定番シーンだ。
そうか、あぁいうスキンシップで相手を意識させるのも恋愛テクニックに含まれるのか……。
と、そこまで考えてから、航は固まる。
どう考えても、自分がそれをやっているイメージが沸かない。
しかも、相手はあの変人だ。
じゃぁ自分はどうしたらいいのかと考えていたのに、全に「まぁ、航はそのままでいいと思う。うん」と勝手に自己完結されてその場は収束した。
週末、海人と撮影に出かけることになった。その前に衣装合わせがしたいからと、海人が今日も家にきている。相変わらずスタイルのよさを引き立てるファッションセンスにイラっとしつつも、それをかっこいいと思ってしまう自分がいた。
「これとこれ」
「うん、似合ってる! めっちゃいい! けど、今日はもう少し柔らかめの気分なんだよね……」
クローゼットから出した服を体に当てる航を、海人はいちいち褒めちぎる。それが無性に恥ずかしい。
「気分って……。もうお前が選べば」
何度目かの駄目出しに、めんどくさくなってそう言えば、海人は目を輝かせて駆け寄ってきた。
「いいの⁉ 航のこと着せ替え人形にしていいってこと⁉」
いやおかしいだろ。服を選べって言っただけなのに、なんでそうなる。
「人形になるとは言ってない」
海人はクローゼットから服を取ると、航に合わせて品定めし始めた。その楽しそうな姿に、航の顔も自然とほころぶ。
この気持ちが好きだと気づいてから戸惑うばかりだけど、こうして海人と同じ時間を過ごすのは悪くない。
「あ、この色いいなぁ。ねぇねぇ、これに合う下ってどれ?」
「それに合わせるなら……これかこれ」
「うん、いいね。……ねぇ、ちょっと着てみてくれない? シルエットも確認したい」
「……今ここで?」
「うん。俺が着替えさせよ――」
「自分で着替えられる」
食い気味に言って、航はその場で着てる服を脱ぎ始める。
別に学校で着替えるのと変わらない。
と言い聞かせていたのに、
「……見過ぎ」
張り付くような視線に耐えきれず、Gパンを脱ぐ前に睨みつけた。
「だってー、航の生着替えだよ? そりゃ見るでしょ。写真撮りたいくらいなんだけど」
「それ盗撮って言うんだぞ」
もはや犯罪。
「航って、筋トレしてる?」
一歩、海人が距離を詰める。すぐそばで声がして、とっさに俯いた。ふわりと薫る、甘くもすっきりとした香水の匂いにくらりと眩暈がした。
「……少しだけ」動揺を悟られないよう、短く返す。
「やっぱりね、適度に締まった身体してる。――こことか」
伸ばした手が腰に触れた。薄いシャツ越しに熱が伝わる。
「めちゃくちゃエロい身体してるの知ってる?」
耳元で言われた。吐息が耳朶にかかり、身をよじりたくなる。
お前の方が、よっぽどエロいんだよ!
その声も言葉も、手つきも。もう全部エロくて、ぞくぞくした。それだけでもたまらないのに、手がするりとシャツの裾をくぐり素肌に触れ、身体がびくっと跳ねてしまう。
「お、おま、どこ触って、」
見上げた航は、海人の顔の近さとその煽情的な表情に息を呑んだ。ドクン、と心臓が衝撃を受けたように大きく波打つ。
膝に力が入らなくて、このままこいつの胸に縋りつきたい衝動に駆られるも一歩踏みとどまった時、航の頭に全の言葉が思い浮かんだ。
『スキンシップもいいらしい』
スキンシップって、どうするんだっけ。とにかく触ればいいんだよな。
ぼんやりとした頭で考えて、海人の胸元に寄りかかるように両手で触れる。かく言う海人も、しっかりとした筋肉が感じられる感触に、痺れが体に広がって服をくしゃりと掴んむと目の前の色香を放つ顔がピクリと動く。なにかに耐えるように、目が眇められる。近くで見れば見るほど、綺麗な瞳だ。
この手を引き寄せれば、少し背伸びをすれば、唇が触れる。
――触れたい。触れてほしい。もっと近くに感じたい。
触れ合う素肌の熱に浮かされて、正常に回らない頭がそう訴える。
「わ、わ、航、ストップ!」
一歩下がって、航は両手を上げて降参のポーズをとった。
「ごめん、俺が悪かった。美の女神アフロディーテ相手になんて愚行を……」
「は?」瞬時に頭が冷静さを取り戻し、自分のしたことに羞恥心が込み上げた。でもそれ以上に意味不明の言葉を発する海人に、航は冷めた目を送る。
「女神に立ち向かう覚悟なんて俺にはこれっぽっちもなかったって思い知らされたよ。あ、着替えの途中だったよね、やっぱり手伝おうか?」
「とっとと出てけこの変態!」
地下鉄に乗った二人は港の最寄り駅で降り、目的地めがけて街道を歩いていく。高く澄んだ空と、潮の薫りを乗せた秋風がすがすがしい。
「んー! めちゃくちゃいい天気だね!」
「だな。久しぶりに海見た」
海に面していてもなかなかここまで来る機会はなく、夏休みに全と真尋と遊びに来て以来でテンションがあがる。
これから撮影するという緊張感を少し和らげてくれた。
「振り返ってみて」
どれくらい歩いただろうか、十分くらい経ったころ海人に言われて来た道を振り返った。
「あ」
海人の写真で見た景色が眼前に広がっていた。歩いている時は気づかなかったが、道が少しカーブしていたらしく、港の工業的な景色は消えて海と空と街道だけの世界があった。
「あっち側行こう」
陸側の歩道を歩いていた航たちは、車が来ていないことを確認して海側へと移動する。信号があまりないため、交通量もそこそこ多い。
海人がカメラの準備をしている間、航は堤防の上に昇って海を眺めた。ひたすらに広がる水面は、きらきらしていて目を細めずにはいられない。水平線はどこまでもまっすぐだった。
カシャッ――。
シャッター音に顔だけ振り向くと、いつの間にか海人も堤防の上にいて、レンズを向けていた。
もう始まっている。
風が顔を撫で、髪の毛を流していくのも気にせずに、カメラを見つめた。
――忘れないものだな。
案ずるより産むが易しとはよく言ったもので、考えるまでもなく身体が勝手に動く。その感覚が懐かしい。足のつま先から手の指先まで、すべてに神経を行き渡らせて動きを作る。
潮風が、ゆったり目のシャツを揺らしてくれる。
水面が弾く光が、彩ってくれる。
自然も航を歓迎してくれているようだった。
楽しい。
ただただ、楽しかった。
そして今、海人に対して感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。自分にモデルとしての時間をくれたのが海人でよかったし、なによりずっとリンスタで憧れていたKAIが自分を撮ってくれているのが未だに信じられない。
あんなことになってから、自分のルックスのせいで怯えながら過ごしてきた航は、自分の容姿が好きになれなかった。モデルとして使えない以上、こんな見てくればかりよくても自分にはなんの得にもならないどころか害でしかなかったから。
だけど、この容姿のおかげでKAIに気に入ってもらえて写真まで撮ってもらえている。そう思うと、少しだけ救われた。
航は、カメラに向かって手を伸ばす。
こんなに近くにいるのに、触れられないし、手に入らない。そんなことを考える自分とは反対に、無言でシャッターを切っていく海人を恨めしく思った。
あんなに自分を好きだと言ってくれるのに、それは自分のほしい「好き」ではない。海人はレンズの中の自分にしか興味がないから。
それなら自分は、海人の求める自分でいるしかないのかもしれないと思うと、さっきまでの高揚感はきれいさっぱり消え去っていた。
行き場をなくした手は掴むものもなく、空虚を彷徨うだけ。
お前はレンズの中に大人しくいればいい、と冷たく突き放された気分になって、今度は海へと視線を向ける。だけど、果てなく広がる大海原に吸い込まれてしまいそうで足がすくんで、その場にうずくまった。膝を抱えた腕の中に隠れるように顔をうずめる。そうすればもうなにも見なくてすむ。
それでも海人のシャッター音は止まることなく鼓膜に届いた。
「そのまま、こっち」
海人の声に、横を向く。体育座りをした自分は、傍から見たらさぞや滑稽だろう。そんなことを考えるくらいには頭の中は落ち着いている。だけど、胸中は複雑だった。
「いいね、すごく綺麗だ」
何十回、何百回も言われ慣れた言葉すら、今は尖った刃物となって航の胸を切り裂いていく。
「場所変えようか」
航の気分が沈んだことに気づいたのか、海人がそう切り出した。
それから、何度か場所を変え海人の指示に従って、撮影は進んでいく。道行く人の目など気にならないくらい、二人は没頭していた。それでも、時折「好きな寿司のネタはなに?」なんてくだらない会話をかわしては、航を笑わせたりもして。始終和やかなムードの撮影は、刺激的で楽しくてあっという間に時間が過ぎていった。
「やっば、航の写真集作れるよこれ」
帰りの地下鉄の車内で海人がカメラを手に興奮気味に言った。
「コンテストに使えそうなのある?」
「ばっちり。一枚になんて絞れないくらい」
海人がこちらに向かってピースして、ニカっと笑う。海人がそういうのだから、きっと大丈夫だ。自分はちゃんと期待に応えられたんだろう。
「ならよかった」
海人の顔を見て安堵に胸をなでおろした時、航の腹が鳴った。
緊張で昼もあまり食べれなかったのだ。隣の海人は「くくく」と必死に声を押し殺して笑う。口元を覆ったその手にふと目がいった。
「なぁ、その指輪……」
ブラックシルバーの幅のあるシンプルな指輪。
「あ、これがどうかした?」
「ちょっと見せて」と海人の手を掴んでまじまじと見る。
「もしかして、ノスタルジアの?」
「そう、よく知ってるね」
「やっぱり、見たことあると思った」
くしくも、航のモデルとして最後の仕事となったのが、ファッションブランド「ノスタルジア」の撮影だった。光沢のあるブラックシルバーのメンズアクセも展開していて、撮影の時に付けたのと同じものだった。
「俺のこれもノスタルジアだよ」
と、航は自身の左耳にあるフープピアスを指さした。ずっと付けているお気に入りのやつ。
「航によく似合ってる」慈愛に満ちた目で見つめられ、恥ずかしくて視線を指輪に戻す。
「指輪もいいな。俺も今度買おうかな」
艶やかで落ち着いた輝きを放つ指輪の輪郭をなぞると、ぱっと手が振り払われた。
「あ、え、っと、くすぐったくて」
視線をキョドらせてどもる海人に、なんとなく釈然としない。そういえば、家で着替えていた時もこっちから近づいたら距離を取られたことを思い出す。
自分からはぐいぐい来るくせに、こっちが距離を詰めると拒絶するってどういうことだろう。あれか、自分の好きな時に可愛がるだけ可愛がって、相手しろとすり寄られるのは勘弁してくださいってタイプか?
自分はペットでもなんでもないぞ、と航はむっとした。ボックス席のそこは、反対側にも人はおらず人目がないのをいいことに、「撮った写真、俺にも見せてよ」と海人の方に身体を詰めて、肩口に顎を乗せた。自分より背の高い海人の肩は、寄りかかるのにちょうどいい。
どうだ、これなら逃げられないだろ。
内心でほくそ笑んだ。
――のに、「ちょ、っと近い。狭いから離れて、お願い」と身体を押しのけられてしまった。
あからさまに拒絶されて、ナイフがまた胸にぐさりと突き刺さる。
『スキンシップもいいらしい』
――誰だそんなことを言ったやつは。