3話
次の日も、その次の日も海人は放課後用事があると言って一緒に帰ることはなかった。やはり、泣いたのが原因だろうかと思うもそれ以外は至って普通。航に張り付いていて気持ち悪いのは変わらないので、そうとも言えないのかもしれない。
放課後が駄目なら、学校で海人と二人きりになれないかと頃合いを見計らって声をかけるも、ことごとく交わされてしまう。
すっかり謝るタイミングを逸してしまった航は、移動教室へ向かう途中で海人を拉致するという大胆な行動に出た。
昇降口の手前にある非常階段に海人を連れ込んで、逃げられないようにドアを背にして立ちはだかった。
「ちょっと、航、どこ行くのさ、もう授業始まるよ?」
「少し話したい。……この前のこと……」
「や、やっぱり消さなきゃ駄目?」
「は?」
「勝手に撮った写真のことだよ……あぁーっ、でもやっぱり消したくない! ていうか、消せない! 俺に航の写真は消せない! これだけは死んでも無理だよぉ!」
だからどうか見逃してほしいと涙目になって懇願された。
「ちょっと落ち着け。誰もそんなこと言ってないだろ。写真は……正直恥ずかしいけど……、誰にも見せないって約束するなら消さなくてもいい」
「本当に⁉」
頷いて見せると、海人は膝に両手をついてうなだれた。
「よかったぁ~! いつ消せって言われるかと冷や冷やしてたんだよ俺」
「もしかして、それでずっと避けてたのか?」
「そうだよ……、二人きりになったら絶対そのこと言われるだろうって思って……。だから本当は今まで通り放課後デートもしたかったけど泣く泣く我慢してさ」
放課後デートをした記憶はどこにもないが、今はややこしくなるからそこは突っ込まずに放っておく。
それにしても、そこまでして消したくないと言う海人の粘着っぷりはやっぱり航には理解できない。自分にそれほどの価値があるとも思えないし、一体なにが海人の趣向に刺さったというのか。いくら考えてもこれっぽっちもわからない。
もしかしたら、自分には一生理解できるものじゃないのかもしれないとすら最近思い始めていた。
「って、あれ? そのことじゃないなら、航の話ってなんだったの?」
「その、俺から撮影見せてくれって頼んだのに……勝手に帰って悪かったって謝ろうと……」
きょとんとした顔を向けられて、なにかおかしなことでも言っただろうかと不安になってくる。
「それだけ?」
「それだけってお前……、いきなり泣いたりして気持ち悪いとか思わなかったのかよ?」
「思うわけないじゃん! そりゃまぁ、驚きはしたけど……俺はどんな航の表情だって見たいし撮りたいからいつでもどこでもなんでもウェルカムなんだよ? もう……本当にわかってないんだよなぁ航は」
つい今しがた思ってたことを指摘されて、おかしくて笑ってしまった。加えて、ずっと心にあったわだかまりが解消できて、張りつめていた緊張がほぐれたのだろう。あんな風に突然泣いてしまったのを、気持ち悪いと思われなくてよかったと安心できた。
「え、そこ笑うとこ?」
「だって……、お前の考えてることなんて、ぜんっぜんわかんねぇよ」
変態の思考なんてわかってたまるか。
いつの間にか開き直ってる自分にも笑えてきて、声を立てて笑い始めた。
腹が痛い。
目尻からは涙も滲む。
こんな、泣くまで爆笑したのなんて、いつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。
クラスのみんなが見たら目を剥いて絶句するだろうな。
頭の中でそんなことを考えていると、いつものスマホカメラの連写音が響く。油断も隙もないヤツ。
「も、なんでもかんでも撮るなよな」
目尻の涙を指で拭いながら窘めるも、連写音は鳴りやまない。それどころか「いや撮るよ。俺のミューズだもん」と開き直られた。
「前から思ってたけどさ、お前のその『ミューズ』って、なんなの」
ずっと立っていて足が疲れてきた航は、非常階段に腰を下ろす。始業の鐘はとっくに鳴っていて校内はとても静かだった。グラウンドから準備運動の掛け声が聞こえてくるくらいで、他に音はない。
航の横に海人も座った。並んで座ると、膝の位置も肩の位置もやっぱり海人の方が高くて羨ましくなる。
海人は、「ミューズはさ」と静かにしゃべり始めた。航は、少し俯いた海人の端正な横顔を見つめながら声に耳を傾ける。
「もともとギリシャ神話でアート……芸術ね、それを司る女神を指す言葉で、クリエイターにとってインスピレーションをかき立ててくれる存在だね」
「俺が、お前のミューズ?」
「そう」
「やっぱわかんねーな」
謙遜でもなんでもなく、口から零れた正直な感想に、海人が破顔する。
「うん、わかんないと思う。俺だって初めての体験だったし……、きっとそうそう出会えるものじゃないんじゃないかな。航を初めて見たとき、こう……雷にでも打たれたような、それこそマンガみたいにさ、ドッカーン! て雷が落ちて、ビリビリ! ってなる感じ。ははっ、自分で言ってて馬鹿みたい。……でも、それくらい衝撃だった」
確かに、と航は海人が転校してきた日、指をさされて大声で叫ばれたことを思い出す。鼻息荒く興奮して質問攻めにするあの姿は確かに鬼気迫るものがあった。
航はどう反応すればわからなくて「ふーん」と他人事のように相槌を打つ。自分で聞いたくせに、無性に恥ずかしくなってきた。
「俺が今までずっと写真を撮ってきたのは、いつどんな時でも『ほしいモノ』が現れた時にカメラに納められるようにするためなんだ。その時のために、俺は昔も今も、カメラのレンズ越しに見えた『ほしいモノ』しか撮らないって決めて撮り続けてきたんだ」
ということは、つまり。
自分も海人の『ほしいモノ』である、という方程式が成り立ってしまう。
そのことを理解した途端、体の芯が熱くなりざわめき始める。
ずっと足元を見つめていた海人が急にこちらを振り返り、ばっちり視線が合わさった。宇宙みたいに透き通った黒い瞳の奥に、夏のアスファルトの上に見える陽炎のように熱を孕んだ視線だ。
「航を見てると、撮りたくて撮りたくてうずうずする。いてもたってもいられなくなる」
至近距離で見つめられ、まるで『お前のことがほしくてたまらない』と熱烈な告白をされているみたいで頭がくらくらした。誰もそんなことは言っていないのに。
痛いくらい深く刺さる視線から、目を逸らした。
「そ、そうか……。あっ、あのさ、あとさ……」
実はもう一つ、言いたいことがあった。
話題を変えたくて、頭に浮かんだそれをそのまま口にする。
「お前があの日撮った俺の写真を、見てみたい、んだけど……」
海人の目に自分がどう映っているのか、純粋に興味があった。普段風景しか撮らない海人が撮る人物写真は、どんな感じなんだろうと気になっていた。
「本当? も、もちろん、いいよ! じゃぁ、今度の休みうち来る?」
「え、いいのか?」
あまりの急展開に面食らう。もっと渋られるかと思った。
「航ならいつでもいいよ。って、ちょっと待って、俺の理性がだいじょばないかも……。航が俺の家に? え、どうしよう、俺の部屋に航と二人きり……、あぁ駄目だ、押し倒す自信しかないんだけど⁈」
「じゃぁ行かない」
「待って待って、冗談だって」
冷めた目でそう言って、航は立ち上がろうとした。けれど、手を掴まれて浮かびかけた腰は再び固い階段へと戻されてしまう。
「お前のは冗談に聞こえないんだよ」
「あー……、航は手も綺麗だね」
掴まれたままの手を、なにを思ったのか海人は膝の上で弄び始めた。指や手の甲をなぞられてくすぐったい。
「とりあえず、手を離せ」
「航の恋愛対象は異性?」
「な、なんだよいきなり」
「気になるから聞いてるんだよ」
そんなの聞いてどうするんだ、と言いそうになって思いとどまる。こいつにそんな質問は無意味でしかない。
「……考えたことない、かも」
「え、じゃぁ、今まで好きになった人は?」
「いない。だからわからない」
ずっとモデル一筋で来て、中1であんなことがあって……。とても恋愛なんて考える余裕がなかったんだと思う。
突然無言になったのを不思議に思い隣を見やると、口をあんぐり開けて驚く海人の間抜け面があった。
「なんだよ、そんな驚くことかよ」
「い、いや……、だだだって……こ、これは、ももももしかして……わ、航のは、は、は、は、ははは初めてをっ、いってー!」
隣に置いてあったペンケースで変人の頭を思いっきりはたいた。
鐘が鳴り少ししてから、非常階段を後にして教室に戻った。「サボり組きた!」「二人でなにしてたんだよー」とすでに戻っていたクラスメイト達からの野次をかわしながら席に着く。海人は、「そんなの秘密に決まってるじゃーん」とかふざけた返しをしていた。海人がバイだと公言しているせいで、少なからずそういう目を向けられるのが不快だ。
「ほら席つけー。授業始めるぞ」
と次の授業の先生が入ってきて、教室内は一気に静かになった。バタバタと授業の支度をして教科書とノートを開きながらも、頭は違うことを考えていた。
自分の性的対象はどっちなんだろうか、とさっき海人に問われてからずっと気になっていた。
そもそも、そういう興味を持ち始める以前にあんなことがあって、自分はもう恋愛なんてできないんじゃないかと頭のどこかで諦めていた節もある。
実際、女子とは仁美以外と関わりを持つこともままならない状態で、かと言って仁美をそういう対象に見たことは一度もない。小学校から同じの仁美は、女子と接近して発作を起こす航の姿を目にしているため距離の取り方を理解してくれているし、なにより自分がそういう対象に見られていないことが航を安心させた。
男に告白されたことも何度もあるが、ときめいたことなど一度もなかった。
いつも、女子のことを可愛いだの色っぽいだの興奮している周りを見ては、全然共感できないなと冷めた目を向けるだけで会話には入っていけないでいた。だから、その内周りも航の前でそういう話をしなくなっていた。
考えれば考えるほどわからなくなっていく現実に、気分が萎えていく。
「どーしたの、思いつめた顔して、もう授業終わったよ?」
柔らかな声に顔を上げると、笑顔の真尋が顔を覗き込んでいた。いつの間にか授業も終わり、あとはHRを残すだけとなっていたようだ。どれだけぼうっとしてたんだ自分は、と呆れた。
「なぁ、真尋」
「ん?」
小首を傾げる真尋の、猫っ毛がふわりと揺れる。航は声を潜めて尋ねる。
「あ、あのさ、ときめくってどんな感じなんだ」
思い切って言った航だったが、目の前で固まった真尋を見て後悔が押し寄せた。こんなことを自分が聞くなんて、本当にらしくない。
わかってはいたけどどうしても知りたくて、でも真尋以外に聞ける相手なんかいなくて聞いてしまった。
「や、やっぱ今のナシ! 聞かなかったことに、」
「ごめん航、違うんだよ、ちょっと驚いただけでさ……。えっとー、俺もそんな経験豊富なわけじゃないけど、俺の場合は、こう……胸がぎゅうってなって苦しくなるっていうか……ドキドキして、相手に触りたいとか思うかな」
言い終わってから、顔を赤らめて「うわーなにこれ、言葉にするとめちゃくちゃ恥ずかしいね」とおろおろする真尋に、航は「ありがとう」と伝えた。
胸がぎゅうっとなって、苦しくて、ドキドキして、触りたくなる、か。真尋の言葉を胸の中で反芻した。
あっという間に週末になり、航は約束通り海人の家に遊びに来ていた。駅から徒歩十分もかからない好立地にあるマンションは、いかにも金持ちですっていうような造りでちょっと入るのに躊躇うほどだった。
こいつボンボンかよ。
セキュリティの頑丈なオートロック式のエントランスを抜けて、五階に上がったところに海人の部屋はあった。
「お邪魔します……、おぉ……すげぇ……」
玄関に入った瞬間、視界に飛び込んできたのは廊下に掛けられた写真の数々。美しい風景写真が航を出迎えた。
「これ、お前が撮ったやつ?」
「あー、うんそう。俺は恥ずかしいからやめてほしいんだけど。親バカで困っちゃうよねー」
いや、これは飾りたくなるだろ。それくらい、どれも綺麗でかっこいい写真ばかりだ。高級感漂う内装に負けるどころか、雰囲気を引き立たせている。
これ履いて、と渡されたスリッパに足を差し込んで、写真を見ながら海人について行く。室内はしんと静かだった。
「……あれ、親は?」
「二人とも仕事でいないよ」
「……」
聞いてないぞ、おい。先日の変態発言を思い出して背筋が冷えた。
航の視線を受けて海人は苦笑を浮かべる。
「押し倒さないから安心して。俺、航に嫌われたら生きていけないからさぁ、航の嫌がることはしないって約束するよ」
「は……? 嫌がること散々してきたよな?」
「ええぇっ⁉ いつ⁉」
「嘘だろ、自覚ナシかよ⁉」
「あはははは! 航に突っ込まれちゃった!」
大笑いしながら、海人は廊下沿いにあったドアを開けて航を促す。先にドアをくぐった航は息を呑んだ。
部屋一面の壁に飾られた写真、写真、写真。中にはキャンバス地に印刷したものや、パネル加工されたものもあった。ここまでくると、もはやギャラリーと化している。
「すっげえ!」
航は写真に目を奪われて、足は自然と室内に吸い込まれる。端から順に写真を眺めていった。リンスタで見たのと同じものもあるが、半分近くは今まで見たことのないもので目が釘付けになる。
「麦茶とコーラどっちがいい?」
「あ、じゃぁコーラで」
はーいと返事が聞こえたきり、静かになった部屋で航は写真に魅入っていた。空の写真や街中の写真、川や山、海などの写真と、本当に色んな景色の写真があり、そのどれもが色鮮やかで美しい。
なにより、海人の写真は景色の切り取り方が独特でかっこいい。
見ていて飽きない。
「ここ置いとくよ」
作業机の端に、気泡を含んだグラスが二つ置かれる。
「あ、さんきゅ」
「航がそんなに写真が好きだったなんて知らなかったな」
嬉しそうな笑い声が聞こえる。航は、写真を見たまま口を開いた。
「俺……、KAIのリンスタのアカウント、お前が転校してくるよりずっと前からフォローしてたんだ」
いつからだろう、かれこれ1年以上前になるだろうか。もともと写真を見るのが好きで色んなアーティストをフォローしてた所におすすめで偶然上がってきたKAIの写真に一目惚れした。
「えっ……」
「お前の写真のファンなんだよ。だから今、めちゃくちゃテンション上がってる――写真のファンだからな! 勘違いすんなよ!」
ずっと言おうか言うまいか迷っていたことを、とうとう告白した。どくどくと脈拍が上がり、恥ずかしさでかすかに震える手をぎゅっと握りしめながら航は続ける。
「KAIの写真って、綺麗なだけじゃないっていうか……、うまく言えないけど角度とか色とかそういうのがかっこいいんだよなぁ。あ、この海の写真すげー好き。リンスタにもあったよな。光で溢れてる感じがまたエモいっつーか……」
気づけば口からはペラペラとそんな感想が零れていた。恥ずかしくて海人の方を見れない。ずっと写真の方を眺めていたが、海人が一向に喋らないものだから、航は痺れを切らして振り向いた。
「おい、なんかリアクショ……え……」
てっきりニヤついてると思っていたのに、海人はその整った顔を耳まで真っ赤にさせ、半開きの口をはくはくと震えさせていた。あまりに予想外の表情に困惑する。その顔は、一体どういう表情なのか。
「う、うわあああ!」と叫んだかと思えば、両手で顔を覆い隠してしまった。
そこでようやく、照れてるんだ、と気づく航。
海人が自分の前で狼狽えているなんて珍しくて、加虐心が煽られた。自分よりも図体のでかい海人の姿が、小さな子どもに見えてきてちょっとおかしい。
航は、海人に歩み寄ると両手首を掴んで剥がしにかかる。
「ちょ、航、や、やめ、て」
言葉とは反対に抵抗はなく、その手はすぐに顔から離れた。見えたのは、案の定真っ赤な顔。ぎゅっと目をつむって眉根を寄せて、心底恥ずかしがる海人の顔を見た瞬間、航の胸がどくんと大きく波打った。
その羞恥に耐える顔から目が離せない。白い肌が熱を帯びて赤く染まり、いつもはふんわりと厚みのある唇はきゅっときつく閉じられている。
掴んだままの手だって、熱くて火照っていた。その熱が伝染して、航の体温をぐんぐん上げていく。
「は、恥ずかしいって……」
あまりにも弱弱しいその姿が、可愛く見えて航はそのことに動揺した。
なんだこれ。
知らない感情が、体の中で暴れている。
航は戸惑いつつもその感情の赴くまま抗う気のない手を開放すると、今度は海人の顔めがけて手を伸ばす。その真っ赤に染まった頬に触れたくなった。
けれど触れる直前で目を開けた海人と視線が交わり、ハッとして手を引っ込める。
今、なにをしようとした?
我に返り、頭が冷静さを取り戻す。すると今度は、自分がしようとしていたことに対して恥ずかしさが込み上げてきた。それを隠すように、「顔真っ赤」と吐き捨てるように言って視線をずらす。
「うん……恥ずかしいけど、めちゃくちゃ嬉しい……」
戸惑う航には気づいていない海人は、赤い顔のまま航の手を握り「ありがとう、航」と濁りのないまなざしを投げた。
「お、おう……」
「あ、ほら、喉乾いたでしょ。コーラ飲もう」
渡されたグラスに口を付けて冷たい液体を流し込めば、火照った身体を冷やしてくれた。よほど血流が激しかったのか、胃のあたりにひんやりとした冷たさを感じる。
「いやぁ、まさか航が俺のフォロワーさんだったなんてねー。世間は狭いってよく言ったもんだ。あ、その辺座って」
ベッドの脇に置かれたクッションの上に座ると、海人から封筒を手渡された。三十cmはある大きさだ。
「中見てみて」
言われて封筒の中から、封筒とほぼ同じサイズの一枚の写真を取り出す。
姿を見せたのは、この前の航の写真だ。その、あまりの出来栄えに目を奪われ、数秒息が止まった。
「どお? 控えめにいっても最高だと思うんだけど」
隣に座った海人が写真を覗き込むように身を寄せる。
「すごい……」
少し傾き始めた、白からオレンジへと変わる柔らかな光の中、土手に立ち尽くす航がいた。目を閉じて涙を流すその姿が表すのは「静」だが、その背景に映る土手の草木や光を反射する川は「動」を表現している。航だけ時間が止まっているような、
泣いている自分をこうして見るのも見られるのも、当然恥ずかしい。だけど、恥ずかしさよりも感動の方が勝った。
モデルをしていた時に撮られた自分のどの写真よりもかっこいいと断言できる。
まぁ、そもそもファッションをよく撮るための写真とこれとを比べるのはナンセンスかもしれないが。
「でしょでしょー! シャッター切った瞬間、確信したもん。俺ってマジで天才。どうしよう、才能が迸ってるーって」
「自分で言うな」
「あはは、でもこれに限って言えば、全部航のおかげ。……もうさ、すべてが美しいんだよ」
うっとりとした声音が耳朶に触れ、身体に緊張が走る。いつになく甘い声に、心臓が激しく音を立てた。海人が身をこちらに寄せてきた。肩と肩が触れ合い、海人の重さを感じて胸の辺りがぎゅっとなる。
まただ。
さっき感じた感覚に、軽く眩暈がした。ゆらゆらと体の芯を揺らすそれは、航の心に緊張と弛緩を同時に与える不思議なものだった。酷く過敏になっているのに、どこか心地よさを感じるこの感覚は一体なんなのだろう。
そう考えている間に、ほら、と隣から手が伸びてきて、海人の指が写真の中の航をなぞり出した。
「バランスの整った体躯に、形のいい指、長い首に、綺麗なラインを描く顎」
つー、と海人は航の体の線を滑るように移動していく。海人が触れているのは写真なのに、まるで自分の身体を撫でられているような錯覚に陥った。
指先が、顎から唇へと移り、ふ、と海人の口から感嘆の響きを伴った笑みが零れる。
「ほんのり桜色の唇も……色っぽくてたまらないし」
全身が粟立ち、写真を持つ手がびくんと過敏に反応してしまう。
やめろ気持ち悪い、と一蹴してしまえばいいのに、頭はそれを望んでいない。その甘い声をまだ聞いていたいとすら思った。
そして同時に、海人はどんな顔をしているのか気になる。だけど、きっと酷い顔をしている自分の顔を見られたくなくて、顔を上げられなかった。
「極め付きは、この涙で濡れた頬。この光で溢れる情景を一瞬で暗がりに引き込んじゃうんだからすごい破壊力でしょ」
同意を求められたところでなに一つ理解できない航は、「知らね」と投げやりに返す。触れた肩と寄せられた顔の近さ、耳元で響く甘い声に気を持っていかれていた。海人のいる右側ばかりに神経が集中して過敏になっている。
「――ねぇ……、この時なんで泣いたか、聞いてもいい?」
右頬に海人の視線が刺さる。依然顔を上げられない航は、目を伏せたまま固まる。
「あっ、言いたくないなら無理に言わなくていいから! ごめん、俺無神経で、」
「中一の夏までファッションモデルやってたんだ」
海人の言葉を遮るように話し始めた航は、ぽつりぽつりと言葉を選びながら続ける。
「でも、あることがきっかけで続けられなくなって……もう3年も経ってたし、とっくに諦めたもんだと思ってたのに……」
自分の気持ちを整理するように言葉を紡ぐ。航は、ぼんやりと定まらない視界の中、海人の撮った写真を眺めていた。自分が写真の中にいる。それだけで、とてつもない興奮と喜びを感じている自分がいる。
「あの日……、お前のカメラのシャッター音を聞いた瞬間……」
切れのいい一眼レフのシャッター音が耳に蘇り、ぶわっと鳥肌が走った。寒気を感じてとっさに自分の腕を抱く。
あ、だめだ。
と気づいた時にはもう手遅れで、瞼が熱を帯びて視界が滲んだ。
「なに一つ、諦められてなかったって気づいて……」
そう自覚したところで、自分にモデルはできない。ずっと目を背けてきたそれを、無情にも突き付けられて絶望した。
海人に「撮るよ」と言われた時、拒むことができたのにそうしなかったのは、心の奥底で燻っていた「もう一度撮られたい」という欲望のせいだ。
涙が溢れる前に拭おうとしたら視界が陰った。覆いかぶさるように海人に抱きしめられた。
「泣いていいよ」
背中と後頭部に回された手が、とんとんと優しく触れる。まるで泣いている幼子をあやすかのような優しい手つきとその言葉に、ゆるんだ涙腺が堰を切った。目から零れた涙は頬に流れることなく海人のシャツに吸い込まれ、染みになって広がっていく。
「諦めなくたっていい。俺が航を撮るよ」
嗚咽しだした航を、海人は更にきつく抱きしめた。
ひとしきり泣いた航は、そのままだと目が腫れてしまうから、と渡された冷やしタオルを目に当てて海人のベッドに仰向けになっていた。熱を帯びた熱い瞼に、冷えたタオルが心地いい。
「おまたせー」
氷水を代えてくる、と出ていった海人が戻ってきて航に声をかける。
冷静さを取り戻した今、海人と目を合わせるのが気まずくて仕方がなかった航は、そのまま寝た振りを決め込んだ。
「航? もしかして寝ちゃった? 泣きつかれたかぁ……かわいいなぁ」
声を潜める海人の声を耳にしながら、この後どうやり過ごそうか思案していた。適当に頃合いを見計らって起きて、用事を思い出したとかなんとか言ってさっさと帰ろうか。でもそれだとあからさますぎないかなどと頭を悩ませていると、ぷにと頬が押され心臓が跳ねた。
「うわぁ、柔らか……」
顔にものすごい視線を感じる。
こいつ、人が寝てると思って……。
だけど、寝た振りを決め込んだのは自分なだけに、怒るに怒れなくて我慢していれば、頬を何度か撫でた程度で手が離れていった。どうやら満足したらしい。
「タオル冷たくするね」と目元のタオルが奪われてスースーする。ちゃぷちゃぷとタオルを濡らして絞る音が聞こえて、また目元に置いてくれるのを目を閉じたままじっと待っていると……。
ふに。
と、なにかが唇に触れて。
ちゅ。
と、音を立てて離れた。
パチリ。
と、開いた視界に映ったのは、海人の顔の大写し。
もちろんばっちり目が合って、
「航のハジメテもらっちゃった」
てへへ、と茶目っ気たっぷりにウインクをする海人に、航は驚きのあまり言葉を失う。
「お、おまっ」
「狸寝入りしてるお姫様を起こすには、王子様のキスが必要でしょ」
こいつ、わかっててやりやがったな!
沸々と沸くのは、怒りと羞恥と……、あの得体の知れない感情。それらがごちゃ混ぜになって、航は目いっぱい声を荒げた。
「だ、誰がお姫様と王子様だ! ふざけんな!」
怒る航とは対照的に、海人はうっとりとした表情を端正な顔に浮かべる。視線は定まらず遠い彼方の向こうを見ている。
「航の唇、想像以上に柔らかくて甘くて蕩けちゃいそうだったなぁ……。ねぇ、もう一回しよ?」
「しない!」