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1話

 その日は、朝から教室がざわついていた。

「なんか、坂ピーが見たことないイケメンと話してたんだけど!」

「それ、噂の転校生じゃない?」

 クラスの女子たちの甲高い声が響いて、倉敷航くらしきわたるは内心で舌打ちをして眉根を寄せた。

 夏休みが明けて一週間が過ぎ、浮足立った空気がようやく抜けてきた所にこの騒ぎだ。

 女子が苦手な航は、鞄のサイドポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して耳に嵌め、スマホの音楽アプリでお気に入りのミュージックリストを再生した。聞きなれたバンドの音が鼓膜を揺らし、不安で毛羽だった心をほんの少し落ち着かせてくれる。

 それでも転校生の話題は盛り上がりを見せる一方で、周りの男子も巻き込んでますますうるさくなっていく。

「え、こんな時期に転校生くんの?」

「うん、夏休みにうちの制服じゃない人が保護者と来てたって陸上部の子が言ってた」

「そういえば、うちのクラスだけ人数少なかったし、可能性高いよ。え、どんな感じのイケメン?」

「教えて教えて!」

 どうでもいい話で盛り上がるクラスメイトとは対照的に、航は一人でスマホをいじっている。

「わーたーる! おはよう!」

 呼ばれて顔を上げると、横沢全よこさわぜんとその隣には穏やかに笑う志田真尋しだまひろがこちらを見ていた。イヤホンをしていたから気配に気づかなかった。

「おはよう、二人とも」

 耳からイヤホンを外しながら航が挨拶する。その顔がふっとかすかにほころんだ瞬間、教室内で女子の悲鳴が上がった。視線は航に集中している。

「さすが航、ほほえみだけでクラス中の女子を悶絶させるとは」

「やめろよ全」

「そうだよ、そういうこといちいち言わないの」

 航と真尋に窘められて、全は「ごめんごめん」と手を合わせた。

 航は176cmの細身に、すらりと伸びた長い手足、小さい顔と、日本人離れのスタイルを持っている。くっきり二重は切れ長で男らしくも美しさを兼ね備え、筆を引いたような唇は薄く色づきもよい。日の光を浴びると金髪にも見える茶髪は地毛らしく、いつでもさらさらとなびいている。その飛びぬけた容姿の持ち主の航は、クラスだけでなく学校でも注目を集めていた。

 女子からの告白は片っ端から断り、それどころか少し過剰なくらい手ひどく女子を拒絶する上、めったに笑わないことから「氷の王子」などという異名をつけられた。

 一部では「同性愛者なのでは?」との噂もあり、男子生徒からの告白も絶えない。

 それでも誰にも靡かない航は、ある種孤高の存在と化していた。

「にしても、なんかみんなそわそわしてない?」

 教室を見渡して真尋が首をかしげる。

「転校生がどーたらこーたらって聞こえたな」

 航は「興味ない」と言ったきりまたスマホに視線を落とした。


 朝のHR、担任の坂ピーこと坂本とともに噂の人物が現れた。生徒たちはまずその背の高さに驚き、仰ぎ見て感嘆の声を漏らした。

「やっば……」

「顔面偏差値高っ」

「え、なに、モデル?」

 教室のそこかしこから黄色い悲鳴が上がる。航は依然として興味なさげにスマホでSNSを眺めていた。

「静かにしろー。今日からこのクラスに転校してきた瀬下せじもくんだ」

瀬下海人せじもかいとでっす」

 にかっと笑ってそういうと、海人は黒板にチョークで何かを書き始めた。カツカツと小気味よい音を鳴らしながらいくつかの英字と数字を書き連ねた。

「これ、俺のリンスタID。趣味のカメラで撮った写真あげてるから、とりあえずフォローよろしくねー!」

 愛想のよい笑顔で手をひらひらと振る。その屈託のない姿に、男女問わず温かい視線が集まった。

「あー、スマホは今出すなよ、休み時間にやれな。はい、じゃぁ瀬下くんは後ろの空いてる席つい」

「――ああああああ!」

 やっと話が済んだかと航がスマホから視線をあげた瞬間、けたたましい声が耳をつんざく。驚いて声の方を見遣れば、海人が教卓に両手をついて前のめりになり、こちらをまっすぐ見ていた。

 航はそこで初めて転校生と目が合った。確かに、背が高くモデルのような長躯の海人に目が惹きつけられた。長めの前髪はセンターで分けられ、白い額があらわになり、そこからのぞく凛々しい眉とすっきりとした二重の瞳は目尻が少し下がっていて独特の雰囲気を醸し出している。ぽってりとした厚みのある唇は中性的な色気を孕んでいた。

「見つけた! 俺のミューズ!」


 海人が航めがけて指をさし、そう叫ぶ。つられるようにクラスメイト全員の視線が航へと注がれた。

 あーめんどくせえ。変なのがきた、と疎ましそうに顔をしかめる。

 海人は駆け足で詰め寄り、航の机の前に膝をついてまじまじと見つめてきた。宝物でも見つけたかのようなまなざしだ。キラキラとした目はかすかに潤んでさえいて航の顔はさらに引きつる。

「な、な……なんて美しさっ! 名前はなんていうの⁉ 身長は何センチ? 体重は? 靴のサイズは? 好きな食べ物は?」

「は?」

 何言ってんだこいつ。

 虫でも見るような目を向けても尚、海人は思いつくまま質問を口にする。

「モデルやってる? それとも俳優かアイドル? 所属事務所はどこ?」

「おいおい瀬下、ストップ。個人的な話は後にしろなー」

 呆れた担任が海人を押しやって席に着かせた。クラスはしばらく異様な雰囲気に包まれたままHRを終えた。

「名前教えて!」

 案の定、終了の鐘がなり終えるよりも先に海人がやってくる。わざわざ航の横にしゃがんで目線を合わせるものだから、顔が近くて思わずのけぞった。

 一体なんなんだよ。

 HR中も航の右斜め後方の席に座った航からの視線があからさま過ぎて、気分が悪くなった。注目を浴びるのは慣れていても、好きにはなれない。

 今だって、クラス中の生徒がこの二人の動向を注視している。できることならひっそりと過ごしたいのに、この容姿のせいでいつだって周りがそうはさせてくれないのがたまらなく嫌だった。

 それでも無視はできずに「倉敷航」とだけ返す。

「倉敷くん……、ちょっと長いから航って呼んでいいー?」

 海人は、にへらと笑って首をかしげた。

「……好きにすれば」

「じゃぁ、写真のモデルになって!」

「嫌だ」

 間髪入れずに断る航に、海人は「そんなぁ」とうなだれた。

「じゃぁ、せめてスリーサイズ教えて」

 スリーサイズなんか知るか。

 変態発言に航の頬がぴくぴくと引きつった時、

「――ちょっと落ち着こうか瀬下くん」

 間に割って入ったのは、真尋。穏やかな笑みを浮かべながら、海人の長身を立たせるとそっと航から引き離した。その後ろにいる全は笑いを堪えた顔で様子を見ていた。

 他人事だと思ってあの野郎、と航は舌打ちしたくなる。

「俺は、真尋でこっちは全」

「よろしく、瀬下くん」

「よろしくー! 海人でいいよ」

「海人、身長いくつ? 俺よりでけえじゃん」と全が聞く。

「182」

「おぉー! バスケ部入んね?」

「んーごめん、興味ないんだよねぇ」

「うわ、もったいねー」

「はいはい、全は一旦黙ろうか」

 額に手を当てて天を仰ぐ全を真尋が制する。

「海人くん、航は氷の王子ってあだ名がつくくらい不愛想で、これが平常運転なんだ。だからあんまり構わないであげて?」

 真尋は満面の笑顔で言った。小動物系を思わせるくりくりの目をした童顔は、男から見てもかわいいと思わせる力がある。身長も航と全と比べると小さいため、周りの女子からは「癒し担当」として愛でられていた。

「え、ごめんけど無理」

「……えぇ……」

 真尋の笑顔が崩れる。

「だって、航は俺のミューズだよ? 女神さまだよ? インスピレーションの源だよ? そんなのもう常に見つめてたいしカメラで撮りたいし、なんならガラスケースに入れて飾っておきたいくらいだよ?」

「うわぁ……」

「まじか」

 真尋たちだけでなく、見守っていたクラスメイト達からもドン引きの声が漏れ出る。「こいつヤバいヤツだった」とみんなの目が言っていた。

 その変態発言を向けられた航も背筋に冷たいものが走った。身の危険を感じた。それくらい、ヤバいヤツ。言葉が出ない。

「え……なにお前、恋愛対象同性とか?」

 引きつった顔の全が直球を投げる。隣の真尋が「ちょっと」と止めに入るが、海人はあっけらかんと言い放った。

「俺はどっちもイケる派」

 シーンと教室内が静まり返った。

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 航もぽかんと長身の海人を見上げてしまう。そうすれば即座に視線がバチリと合わさってニカっと笑顔を向けられて慌てて逸らした。

 ある意味すごいな、とそこは感心してしまった。これだけ周りの目を気にせず自分の「好き」を貫いて公言することは、簡単なことではない。

「――はははは! お前面白いヤツだな! なぁ、真尋、航」

 気まずい空気を塗り替えるように全が大口を開けて豪快に笑った。

 いや、同意を求められても困る。正直笑えない。

 航はこれ以上会話をする気はないという意思を込めて、スマホへと視線を落とした。


 HRの挨拶を終えたと同時に、航は鞄を手に教室を出た。

 一刻も早く家に帰りたい。そして休憩したいという一心だ。真尋と全は部活があるのと自転車通学のため登下校が重なることはなかった。そのため、ほぼ毎日一人で通学している。

 誰かと約束をしていない限り、航は学校が終わればすぐに下校する。それには理由がある。なんやかんや学校に残っていると、声を掛けられるからだ。航が一人になるタイミングを見計らって話しかけられたり告白されたりするのを避けるためにもこれが一番最善の策と言えた。

 それと、少し早足で帰ると空いている電車に乗れるのも大きな理由だった。

 人が多いと自分に集まる目も増えるし、電車を待っている時間も声を掛けられるすきを作ってしまうから。

 そして今日は、変なヤツに絡まれて精神的にも疲弊していた。

 家に帰ったら、とりあえず爆音でSBの再生リストをかけてマンガでも読もうか。そんな算段を立てながら校門を出た航は、あることに気づく。

 いる……、あいつが後ろにいる。

「はぁ……」と溜息が口から漏れた。まさか、校外までついてくるとは。

「航待ってよー」

 呼びかけも無視して歩を緩めることなく黙々と駅を目指していると、とうとう海人が横に並んだ。

「航も電車通学なんだね! 下り? 上り?」

 どうか、この変態と重なりませんようにとありったけの祈りを込めて「下り」と返す。

「うわーショック! 俺上りだ」

 心底悔しがる海人とは反対に航は内心で胸をなでおろした。これで電車まで一緒だったらもうどうしたらいいかわからない。

「あ、でも航を家まで送ってから帰るのもアリかも」

「却下」

「ぴえん」

 本当にやりそうで怖い。

「こんなに急いでどこか行くの? 習い事とか?」

「やってない」

 あくまで海人はクラスメイトだから、当たり障りのない会話を振られればちゃんと答えている。航が冷たいのは、女子限定だった。男子とは普通に話すが、自分から話しかけることはまずない。全や真尋と違って社交性は皆無だった。

「家帰って何するの」

「別に……、音楽聴いたり……マンガ読んだり」

「音楽って何聴くの」

「ロックとか」

「へぇー、好きなバンドは」

 今日一日中質問攻めに合ったのだ、いい加減解放されたい。そう思った航は「お前は、なにすんの、写真?」と海人に質問を投げかけていた。

「うわあ、初めて航に話しかけてもらった! どうしよう、すっげぇ嬉しい……今日は最高の一日だよ! 航、この世に生まれてきてくれてありがとう」

 自分の浅はかな言動を悔いるも時すでに遅し。海人は頬を蒸気させて航を拝んでいる。周りに人が少なかったのが幸いだった。

「あっ、質問ね。そうそう、俺は駅の周りを探索して、いい撮影スポットでも探そうかなーと思ってるけど……。なんか大きな川に橋がかかってるとこがあるって聞いたんだけどさぁ、航どこか知ってる?」

「あぁ……、多分。駅の向こう側にあるやつのことかな。でもこっち側からだとちょっと道が分かりづらいかもな……。スマホのマップ出して」

 そう言えば、また海人の顔がぱあ、と歓喜に満ちていくのが見て取れて航は「いいから早く出して」と催促する。受け取ったそれをパパっと操作してピンを打って海人の胸に突き返した。

「後はナビで行けるだろ」

「ありがとう、探す手間が省けたよ。お礼に駅前のモックおごらせて」

「いい、いらない。そんな礼されるようなことはしてないから」

 それよりも早く家に帰りたい。そう思ったのに、海人は航の手首を取って駆け出した。

「お、おい」

「ちょっとくらいいーじゃん。俺越してきたばかりで友達いなくてさみしいんだ。付き合ってよー!」

 寂しげにそう言われると、ちょっと断りづらい。それに、こいつが一度決めたら我を通す性格なのは、今日一日で嫌というほど思い知った。

 きっとここで腕を振り払っても、今度は家までついてくるとか言いかねないと思い、航は仕方なく手を引かれるままモックへと着いていくことにした。


「おっまたせー。はい、これとこれ」

「……」

 アイスコーヒーを頼んだはずなのに、ポテトも一緒に目の前に置かれた。沈黙していると「あ、もしかしてカロリー気にしてたりする?」と問われたので首を横に振る。

「航、昼飯パンだけだったじゃん? 絶対腹減ってるでしょ、食べてよ」

「……じゃぁ、遠慮なく」

 確かに小腹が空いていたので、ありがたく手を伸ばした。やや強い塩加減にポテトを口に運ぶ手が止まらない。もくもくと食べていると、頭上でカシャと電子音がした。目を上げた瞬間、再度シャッター音が響く。海人が目の前でスマホをこちらに向けて写真を撮っていた。

 無断で撮られた不快感を露わにすると、「こ、これはスマホだからノーカン!」とわけのわからないことを言う。

「写真は写真だろ。勝手に撮るな」

「目の前にミューズがいるのに写真に収められないなんて、俺にとっては拷問以外の何者でもないんだよー」

 だから許してくれよーと両手をすり合わせて懇願する涙目の海人を見て、航は呆れを通り越して笑みが零れた。

 瞬間、スマホのシャッター音が連射されたので、海人のスマホを手で覆って阻止した。


 瀬下海人はバイだ。

 その話は瞬く間に学年中、学校中に広まった。その秀でた容姿も相まって、話題が話題を呼び、学年を越えてクラスに見物客が訪れる。

 そして彼らが目にするのは、航に執着している海人の姿。

「ねぇねぇ航、モデルになってよぉー! お願い! 俺なんでもするから!」

 海人が転校してきてから早数日。休み時間になるたび航の机まで来て頼み込む海人を、無視か一刀両断で冷たくあしらっている。そして気づけば航のグループに身を寄せて、昼飯も一緒に食べるのが日課になっていた。

「航は好きな食べ物なに? あ、購買の焼きそばパンよく食べてるよね、それ一年分とかどう? パックのコーヒーも付けるよ! だからお願い、撮らせて!」

「撮らせてって、もう撮りまくってるよね?」

 真尋が苦笑した。

 転校初日、放課後に寄ったモックで写真を撮られて以来、海人は隙あらばスマホで航を撮影している。ちょうど斜め後方の席のため、授業中にもカシャカシャと電子音が響いて先生に何度も注意された。もちろん、そんなことで諦めるような性質ではない。

 こうして向き合っている今も、正面から堂々とスマホを向けてはシャッターを切っていた。

 航はといえば、最初こそそっぽを向いたり俯いたり、手で遮ったりとスマホから逃げていたのだが、何度やめろと言っても聞く耳を持たない海人にとうとう諦めざるを得なかった。

 撮ったものをSNSなどに上げないことを条件に、今では好きにさせている。

「スマホじゃぁ俺のエクスタシーは解放されないんだよ!」

「わりぃ、ちょっと理解できないわ」

 首をひねる全に海人は「凡人に天才は理解できないものだから安心して」と笑顔で返す。屈託のない顔でそう言われると、ちっとも皮肉に聞こえないから不思議で全も真尋もつられて笑ってしまう。

「俺の写真はエクスタシーそのものなんだよ。撮ることでしか得られないエクスタシーがそこにあるんだよねー。ってことで、航を撮らせて!」

「断る」

「じゃぁ、校内案内して?」

「他を当たれよ」

「航冷たい……でもそこも好き」

 これまで、航の外見だけで寄ってくる相手が五万といた航にとって、「好き」と言う甘い言葉は何も響かない。それどころか航は悪寒を感じて眉根を寄せた。

 どうしても、「あの時」のことを思い出してしまう。

 ――航くん、好きよ。大好き。

 甘ったるい女の声が脳裏に響いて、視界がぐらついた。ぶわっと脂汗が噴き出して寒気に襲われる。心臓が破裂しそうなくらいに早鐘を打ち始めた。

 あ、やばい、くる。

 そう焦って胸元を手で押さえたとき、

「海人くん、私たちでよければ校内案内しようか?」と、クラスの女子数名がやってきて航はハッとする。持っていかれそうになった意識が引き戻されて胸を撫でおろした。

 バイの海人は氷の王子にご執心、という話がセットで構内を駆け巡っていたが、同時に氷の王子である航からは全く相手にされていないことも周知の事実となっていた。そのため「自分にもチャンスがあるのでは?」と虎視眈々と海人との接点を狙う輩も少なくないようだ。

 頬を染めてもじもじする女子生徒に、海人は笑顔で「えっ、いいの? 嬉しいなー」と航から離れていった。

「海人もめげないなー」ルンルンで教室から出ていく海人の背中を眺めて全が言った。

「航大丈夫?」

 真尋に顔を覗かれて、「え」と声が漏れる。さっきの一瞬のことを見透かされたのかとドキリとした。

「あぁいうタイプ苦手じゃん」

「あ……あぁ……、好きじゃ、ない……けど」

 真尋の言う通り苦手だし、できることなら関わりたくないタイプなのは間違いなかった。

「けど?」

 航にしては歯切れの悪い言葉尻を全が興味深々に拾う。

「……写真は、すごいと思う」

「あ、航も見た? 確かにすごいよな! フォロワーめっちゃいるし、俺もフォローしちゃった」

 と言いながらスマホでSNSの画面を出してこちらに見せる全。そこには海人のプロフィールページが表示されていた。アカウント名は「KAI」。フォロワー数は万越えで、投稿にはコメントやいいねなど写真を評価するリアクションが多数寄せられている。

「でもさ、俺思ったんだけど……」

 真尋もまたスマホをスクロールしながらつぶやく。

「SNSに載ってる写真て、全部風景写真なんだよねぇ」

 そうなのだ、人物が写った写真は一つもなかった。なのに海人は自分を撮りたいと熱望する。それが航は不思議だった。

「え、そうだっけ? ……あっ、本当だー、人っ子一人いねぇじゃん。え、じゃぁなんであんなに航のこと撮りたいって言ってんの?」

「よっぽど航のこと気に入ったとしか……」

 ねぇ、と二人からまなざしを向けられて航は複雑そうな顔をした。

「俺に聞かれても……」

「でも俺、海人が撮る航の写真ちょっと見てみたいかも」

 航は「ったく、他人事だと思って」と笑った。思ったことが口からそのまま出るのが全らしいなと思った。そこに悪意などないと分かっているから、航もこうして笑って流せた。

 航は、六歳からファッションモデルをやっていた。並外れた容姿のおかげで雑誌やアパレルブランドのパンフレットなど、仕事が絶えたことはない。その業界ではそこそこ名も知れて、将来はパリコレモデルも……なんて期待を向けられていた。

 だから、航の昔を知っている人からすれば、写真の一枚や二枚撮らせてやってもいいんじゃないか、と思うかもしれない。

 だけどそれは今の航にとっては容易なことではなかった。

「あっ、全ー!」

 その声に、三人とも振り返る。教室のドアの所に阿部仁美あべひとみが立っていた。黒髪のショートヘアに猫目が特徴の大人っぽい顔立ちをしている。眉間に皺を寄せた険しい表情に、全は「あ、やべ」と肩をすくめる。仁美は全の所属するバスケ部のマネージャーだ。

「あんたまたトレーニング表出してないでしょ!」

 ずかずかと教室内に足を踏み入れた仁美は、三人のところまで来ると全の頭を持っていたプリントではたいた。

「暴力反対! ちょい待て。今渡すから」と言って席を立つ全。

「まったく、全だけなんだからね提出してないの!」

 そう小言を言いながら仁美は、空いた席にどすんと腰かける。そして周りを見渡してきょとんとした。

「あら珍しい、例の人いないじゃん」

 例の人とはいわずもがな、海人のことだろう。

「さっき女子たちと校内周りにいったよ」

「ふーん。……航も変なのに絡まれちゃって大変だね」

 憐みの目を向けられて、航は「まぁな」と返した。

 仁美とは小学校から同じで、この高校で航が普通に会話できる唯一の女友達だった。中学の時、好きなバンドがきっかけで仲良くなって以来顔を合わせれば会話を交わす仲だ。

 普段、女子とは一切会話をしない航が、仁美だけには普通に接するため、周囲から二人は付き合っているのでは、と疑いの目を向けられているが実際は違う。本当にただの友達だった。

 全とこうして仲良くなったのも仁美が仲を取り持ってくれたおかげだった。

「ほらよ」

 ぺし、と仁美の頭にプリントが乗せられる。背後に全が立っていた。

「んもう、普通に渡しなさいよね」

「ほら、そろそろ鐘鳴るから帰れよ」

「言われなくても帰りますー」

 仁美はプリントを受け取って席を立つと教室から出ていった。

「今日部活遅れないようにね!」

 捨て台詞に全は「うっせ」と耳をふさぐ。

「全ってば相変わらず仁美ちゃんには頭が上がらないね」

「だな」

 航は真尋と目を合わせて笑い合った。

 ――カシャシャシャシャシャ。

 小気味いい電子音によって、穏やかな空気が一変する。音のした方を見ると、廊下の窓からスマホのレンズをこちらに向ける海人の姿があった。その後ろには先ほどの女子たちがいるところを見ると、校内案内を終えて戻ってきたのだろう。

「くー! 航の笑顔、最高に痺れるー!」

 スマホの画面を見て、海人の顔がだらしなく緩まる。仕舞いには画面にちゅっちゅっと何度も口づけ始めた。クラス中の生徒が呆れた顔を向けている。航に至ってはもはや無我の境地で現実から目を逸らした。

「真尋っち、いい仕事するー!」

「あははは。……な、なんかごめんね航」

「いや、真尋は何も悪くない。悪いのは全部こいつだから」

「うんうん、友達思いな優しい所もたまらないなぁ」

「……」

 何を言っても斜め上を行く海人には、黙っているのが一番だと学んだ航は口を噤む。

「あ、航、今日も一緒に帰ってくれる?」

「嫌だ……って断っても勝手についてくるだろお前……」

 うんざりとした顔で言う航を全と真尋が笑い、海人は飛び上がって喜んだ。


「ねぇ航、今日もモックかシャイゼ行かない?」

 下校中、駅が見えてきた辺りで海人が航を誘う。

「悪い、今日は用事ある」

「そっかぁ、残念だなぁ」

 うなだれて、この世の終わりかのような落ち込み具合だ。海人のこの喜怒哀楽の激しさを見るたびに、自分にはないものだなとつくづく感じていた。それが、いいとか悪いとかそういうことではない。こんなに感情的に生きるのも楽ではないだろうし、決して自分もそうなりたいと思っているわけではないのに、自分にないものというのはなんとなくうらやましく感じてしまうから不思議だった。

「来週ならいいけど」

「っ、本当⁉ って、待って、来週って……明日から学校休みじゃん! 会えないじゃん! LINE教えて! 今すぐ!」

 LINEくらいならいいか……と航は考える。しかし、海人の性格を想像してすぐさまそれを打ち消した。

「無理」

「なんで! ひどい!」

「なんでって……」

 絶対、分刻み……いや秒刻みでメッセージ送ってくるだろ。返信しなくても送り続けてくるに違いない。言わなくてもわかるだろと喉まで出かかったが、それが分からないのがこいつだ。

「先週末、航に会えなくて地獄だったんだからね!」とわめく海人を無視して駅へと進む。

 あぁ、それで週明けの月曜日にうざいくらいくっついてきたのか……、と嫌な記憶が思い出される。朝、改札口で出待ちされてたかと思えばスマホで撮影されながら「休みの日は何してたの?」と質問攻めにされた。

 またあの月曜日が繰り返されるのか、と思うとげんなりしてしまう。

 かと言ってLINEを教えるのは躊躇いがある。どうしたものかと思案していた航は、少し前から思っていたことを口にした。

「……教える代わりに、今度、お前の撮影についていきたい……」

 ダメ元だった。

 前に、クラスメイトが海人に「撮影してるところ見てみたい」と頼んで断られているのを何度か目撃していた。なんでも「集中できないから無理」らしい。比較的仲のいい真尋と全も断られていたから無理だろうなと思っていた。

 なのに海人は「え、いいの⁉ そんなのお安い御用だけど」と目を丸くした。

「い、いいのか? だってお前、撮影見られるのは嫌だって……」

 あまりに二つ返事で快諾されて、航も目を丸くする。そんな航を見て海人は「本当に、航はわかってないなぁ」とあきれ顔で肩をすくめた。

「航は俺のミューズだよ? 女神さまだよ?」

 言いながら、海人は航の手を取る。不意に触れられて、思わず身体がびくついた。それもお構いなしに親指でさすられた。ぞくりとした刺激が身体を駆け抜け、航は思わず身をよじる。

「この指の爪の先まで愛おしいよ……」

 さらに色気を増した海人の表情に見惚れていると、切れ長の瞳に捉えられた。恥ずかしいのに、まっすぐなまなざしに目を逸らせない。憧憬や願望、欲望、野心などありとあらゆる感情をぎゅうぎゅうに詰め込んで圧縮したような、おびただしい熱量を伴った視線だ。

 心臓がすごい速さで鼓動を打っていた。

 ――どうかしてる。

 こんなちょっと見てくれが良いだけの自分に、しかも会ってまだ数週間足らずでここまで執着するなんて理解できない。

 そして、その執着を向けられて胸の奥から湧き出た感情に航自身が一番戸惑っていた。

 熱くなる胸の内は、きっと何かのバグだ。

 だって、こんなヤツに……男に好意を向けられて喜ぶなんて、どうかしてる。

「は、離せよ」

 とうとう処理しきれなくなって、航は手を振り払った。

「覚えておいて、俺が航のお願いを断るわけないって。 ――それにあわよくば……ぐふふ」

 さっきまでの妖艶な姿はどこかへ消え去り気持ち悪く笑う海人に、航は「撮らせないからな」とすかさず言い放つ。放っておくとすぐ調子に乗るから釘はさしておかないといけない。

「ほら、さっさとスマホ出せ」と海人を促してLINEのIDを交換した。連絡先に海人の名前が追加されるや否やスタンプが送られてきた。開けば「航ダイスキ」と叫んでるウサギのスタンプだった。

「へへへ、スタンプ作っておいてよかったぁ」

「……怖」

 一瞬で寒気が全身をめぐって鳥肌が立った。



 海人と別れたあと、航は自宅の最寄り駅の近くにある心療内科へと足を運んだ。一か月振りに来たここは、エントランスに飾られている花が違うくらいで他は変わりがない。受付をして少しして通されたいつもの部屋には、かれこれ数年の付き合いになる見慣れた医師・七窪ななくぼが待っていた。

「――変わったことはない?」

 ゆったりとしたリクライニングチェアに腰を沈め、挨拶もそこそこに投げかけられたお決まりの質問に航は首を捻った。変わったことと言えばあいつのことくらいだけど……、と考えて「そういえば」と航は今日発作が出そうになったことを話した。

 よほど女性と接近しない限り出ることのなかったのに、海人の口から零れた「好き」という言葉で「あの時」のことが引っ張り出されてしまった。

 七窪は航の話を聞き終えて「それは大変だったね。でも、気持ちを切り替えられたのはすごいよ」と労った。

「前にも言ったと思うけど、記憶は視覚、聴覚、嗅覚などそれはもうたくさんのことと結びついているからね。今回は人物ではなくて言葉が引き金だっただけの話だから、すべてを避けようとするのは不可能だと考えておいたほうがいい」

「そう、ですね……」

 何度も言われていることだが、二度と思い出したくもないあの出来事とはこの先死ぬまで縁を切れないのだと言われているようで苦しかった。まるで呪いのようだと思う。

 忘れたいことだけを忘れられる薬が開発されないだろうか。そうしたらどんなに高額でも真っ先に手を伸ばすと言うのに。

「発作が出た時に、どうすれば一番早く戻ってこれるかが重要な課題で、今回発作が起こりかけたのに、切り替えられたのはとても良いことだよ」

 なんの気休めにもならない七窪の励ましに、航は頷いて返す。

 それでもここに通うのは、その鬱々とした思いを吐き出せる場所がここだけだからだ。

 両親に言ったところで、不安にさせてしまうだけだし、「あの時」のことを知っている友人は一人もいない。

 一人で抱えるにしては、大きくて重たくて暗い、汚い出来事だった。


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