美醜貞操観念逆転世界はこの世の真理である。
これから語ることは、人類が何度も何度も語ってきたことであり、だからこそ多くの人にとっては「陳腐」に映るだろう。
しかし、もしこの文章が誰か一人でも、世界を捉える“新しい目”を得るきっかけになるのなら、それだけで充分に価値がある。
最初に断っておくが、これが「真理そのもの」ではない。
私が語るのは、無限にある真理の“かけら”にすぎない。
けれどもし、あなたの中に何かしらの“芽”が生まれたなら、それをどうか慈しんでほしい。
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■ 美醜貞操観念逆転世界とは何か
「美醜貞操観念逆転世界」──この言葉は、そのままこの思考の核心であり結論である。
これは、「美しい」とされるもの、「貞淑」とされるものの基準が、我々の住む現実世界と“正反対”になっている世界を想定した思想実験である。
「現実世界」とは、今私たちが生きているこの地球、日本、2020年代の価値観をもとにした枠組みだ。
そこでは、美とはこう定義されている:
•色白できめ細かな肌
•スリムで小柄な体型
•すらりとした手足
•物静かで控えめな性格
これらはもちろん時代や地域により多少の変化があるが、今の日本社会では比較的共有されている「美人像」だといえる。
では、この“定義”をまるごと裏返してみたらどうなるだろうか?
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■ 逆転世界の美人
逆転世界では、以下のような特性が“美”として讃えられている。
•浅黒く、しわやシミ、肌荒れを持つ肌
•大柄で不均整な体型
•短く太い手足
•激情的で主観的、情動のままに振る舞う性格
これらは現実世界では「マイナス」とされるものばかりだ。
だが逆転世界では、まさにこれこそが「理想」とされている。
つまり、我々が日々「美しくない」として切り捨ててきたその姿こそが、向こうの世界では最高に美しいのだ。
もちろんこの逆転は、便宜上の表現でしかない。
実際にはその世界の人々は、自分たちの美の基準を「自然で正当なもの」として疑わない。
それは、私たちが「色白は美しい」「痩せている方がよい」と疑いもせず感じていることと、何ら変わらない。
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■ 貞操観念の逆転とは
次に、貞操観念の逆転について考えよう。
現実世界では、特に女性に対して「貞淑であること」が長らく美徳とされてきた。
“経験が少ないこと”、“慎み深いこと”、“性的に抑制的であること”が、尊ばれてきたわけである。
だが逆転世界ではその価値観もまた、裏返る。
そこでは「経験豊富であること」「欲望に素直であること」「性的な魅力を全面に出すこと」が、誠実さや純粋さの証とされている。
むしろ「慎み深い」「未経験である」といった属性は、「未成熟」「閉鎖的」として敬遠されるのだ。
一見すれば奇妙に思えるが、これは実に示唆的である。
我々が“当たり前”と思ってきた貞操という概念もまた、絶対的なものではなく、時代と文脈に左右される“偏見”にすぎないのだ。
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■ 相対性という呪い
なぜこんな逆転をわざわざ考えるのか?
それは、この世界が「相対性」でできているからだ。
美しい・醜い、正しい・間違っている、高い・低い──
あらゆる判断は、何か別の基準と比べることでしか生まれない。
絶対的な“美”など、どこにも存在しない。
ただ「現代日本社会の基準における美」という“前提”を置いているだけだ。
それなのに、私たちはしばしばこの前提を忘れてしまう。
「色白が美しい」と言うとき、私たちはその基準を“絶対”のように扱ってしまう。
「貞淑であるべきだ」と語るとき、その価値観の背景を振り返らない。
それこそが、この世界に巣食う“偏見”の本質である。
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■ 真理とは、「偏見に気づくこと」
ここで本題の「この世の真理」とは何かに戻ろう。
それは――
我々は、偏見の上に立っている存在である、という自覚である。
偏見はなくせない。
なぜなら私たちは“相対”の中でしかものごとを考えられないからだ。
重要なのは、偏見を持っているという事実を忘れないこと。
それは、お金を借りておきながら、借りたことを忘れて通帳を見て「お金が増えた」と喜んでいるようなものだ。
偏見に無自覚なまま生きることは、知らず知らずのうちに、誰かを傷つけたり、何かを見失うことに繋がっていく。
だが、もしその偏見を「持っている」と理解しながら行動できるなら。
それだけで、世界は少しだけ“柔らかく”見えるようになるはずだ。
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■ 最後に:「ママ」の話
この思考実験「美醜貞操観念逆転世界」は、ある意味で、我々の原点にある存在だ。
私たちが見落としがちな「前提」を、わかりやすく見せてくれる鏡のような存在。
それはまるで、“生みの親”のような役割を持っている。
私たちが何かを“美しい”と感じるとき、
それは本当に、心から湧き上がった感覚なのだろうか?
それとも、誰かに教えられた偏見を、無意識に採用してしまっているだけなのだろうか?
たまには、空を見てみよう。
自分がちっぽけな塵であると感じたその瞬間、
あなたの中にも、“偏見を見守る目”が芽吹いているかもしれない。