表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

(九)

   (九)


 翌日になると、私とサディオに既成事実ができていた。

「そんなもの、ありません!」

 もちろん、噂の上で。

 私はこの新しい噂を、どこか寂しげな空気を醸し出す兄の祝福で初めて知った。

「まぁまぁ、祝ってくれてるんですから」

「だからいいって事にはなりません!」

 本心はともかく、表面的にはなだめようとするコルロハに噛み付く。

「余計に悪いです。全然こっちの話聞こうとしなくて、まだ兄の誤解は訂正し切れてないんですからね」

「いいじゃねえか。どうせあっただろ、何か」

「何かって、何?」

 新しく口を挟んだ標的に、ゆっくりと視線を向けながら問う。

「お願い。教えてギサンテ。解らないんです、私。どうして殆ど二人っきりになった事もない人と、そんな噂が流れるのか!」

「え」

「え?」

「ええと」

 私の剣幕にすっかり心に距離のできていたセタが、おずおずと口を開く。

「でも昨夜は、姫の寝所にお泊りになったはずでは」

「誰がですか?」

「師団長殿しかいねえだろ、そりゃ」

「そんな訳、ないでしょう」

 余りの濡れ衣に、却って力が抜けてしまった。

「昨夜は、顔も見ていません」

「ああ? 嘘だぜ、そりゃあ。だってオレが昨日……」

 言い掛けて、言葉が途切れる。何か思い当たった様子で、ギサンテが私の両肩を掴んだ。

「じゃあ昨日の夜、何なら部屋にきた?」

「それなら、ギサンテも見てるでしょう? 入れ代わりに出て行ったんですから」

「白い狼か」

「ええ」

 その瞬間、三人の男が同時に「ああー」と無念そうな声を上げ、天を仰いだ。

「すいません。今回は、僕達の早とちりです」

「解りました。今度のは、あなたが主犯なんですね」

 いち早く自分を取り戻し、向き直ったコルロハに私は確信を持って頷いた。

「……嫌だな、誤解ですよ」

 誤魔化す気があるのかと疑いたくなる薄っぺらな言い訳を遮って、ギサンテが問う。

「で?」

「で?」

「何してたんだ? 狼と」

「聞きたいんですか?」

「心底」

 他の二人も同意を示す。

 変な人達だと思いながら、私は昨夜の記憶を探り始めた。

 本当はぎゅっと抱き付いて、柔らかな毛皮をずっと撫でていたかった。

 しかし前回の様に逃げられたら、悲しい所の話ではない。だからそこはぐっと堪え、狼の隣で静かに座るに留まった。

 どれほどの間、その姿を見詰めていたか解らない。

 それはベッドの上に手足を伸ばし、首だけを持ち上げてまるでこちらを窺う様だ。深海の瞳が、灯火の影を映して揺れる。

 手を伸ばして触れたい衝動と戦っていると、狼はやがてゆっくり立ち上がった。ベッドの上をふわふわと歩き、枕元に寄るとサイドテーブルへと首を伸ばす。

 その上にあるのは殆ど中身の残ったティーカップと、赤い表紙の童話集だ。

 鼻先で赤い本に触れ、それから私に眼を向ける。何度も繰り返すその仕草は、何かを促している様に見えた。

 試しに赤い本を手に取ると、獣はテーブルを離れた。その足で隣に戻ると、体を横たえその顎を私の膝に載せる。まるで、本を読んでとせがむ子供だ。

 驚きはしたが、それ以上に暖かな何かが胸に溢れる。

 そっと白金の毛並みに手を沿えながら、本を開く。声に出して文字を追い始めると、狼は心地よさそうに眼を細めた。

「でもその内に、私も眠ってしまったみたいで。朝になったらいなくなっていて、とても残念でした」

 話し終え、今朝の落胆を思い出して足元へ落ちた眼を上げる。

 と、ギサンテとコルロハは両手の中に顔を伏せ、声を殺して肩を震わせていた。こちらは、笑っているのに違いない。

 だがセタに至っては口に手を当て嗚咽を抑え、頬に一筋の涙を流していた。

「え……ええっ? 私、泣かせる様なお話、しましたか?」

「いいえ。ただ、感激してしまって」

 一体、どこに。

 問い詰めたいと思ったが、それどころではなくなってしまった。

 パパを伴い、サディオが現れたからだ。

「何をしている」

 銀色の男は、側近三人の背後から姿を見せた。だから長身の彼らに殆ど埋もれ、隠されていたのだろう。

 私の存在に気付いたのは、本当に間近まで迫ってからだ。改めて驚きの声が上がる。

「この国の王族は、大人しくしていられないのか?」

 いや、違った。これは皮肉だ。

 しかし私は落ち着いて、用意していた言い訳をスラスラと口にした。

「ネウト先生に、診察して頂こうと思いまして。もう随分よいのですけど、念のため、もう少し診ましょうと仰って下さったので」

 今いるのは汗臭い鍛錬場だが、これには矛盾しない。ネウト医師の診察室は、ここからすぐだ。実は、ご機嫌伺いに訪ねた兄の所であの質の悪い噂を耳にし、犯人を探すべく足を運んだのだ。

 今日に限って、兄と私の護衛はガルバとセタだった。この二人と、パパが不用意な噂を流すとは考え難い。残るは二人。実際、犯人はコルロハで間違いないと確信している。

「診察なら、ネウトを部屋に」

「まあ。お忙しいネウト先生に、そんなわがまま。私には、とても」

 さすがにとぼけていると察したらしく、サディオはすっと眼を細めた。しかしそれ以上は何も言わず、ため息めいたものを零しながら顔を背ける。

「セタ、姫にお戻り願え。それから、もう決して部屋から出すな。何を言われてもだ」

「……はい。申し訳ありません」

 何かを感じ取る。セタは神妙な面持ちで、礼を示して頭を垂れた。

 さあ、と背中を押されたが、私の足は動かない。このまま去れと言う方が、無茶だ。

「何があったのですか」

「説明する謂われが?」

 質問に質問で返すのは、余り巧いやり方ではない。その時点で、やましい何かを告白している。

 だが問い詰めた所で、サディオが相手では口を滑らせる事すら期待できないだろう。

 唇を噛んでいると、ギサンテが笑う。

「このお姫様は、頭がいい。そんなんじゃ納得しないぜ、師団長殿」

「納得する必要はない。頭がいいならば尚更、蚊帳の外にいて頂く」

 背を向けてから、一度もこちらを見ようとしない。

 昨日までとは、まるで違う。これは拒絶だ。サディオの背中は、私を拒む。私だけを。

「参りましょう」

 今度は、セタの声に従った。

 何故だろう。

 最初からなら、まだ解る。けれども今頃、私を避ける理由は何?

 まるで苛む咎の様に、その疑問が胸の中から消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=815010876&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ