(九)
(九)
翌日になると、私とサディオに既成事実ができていた。
「そんなもの、ありません!」
もちろん、噂の上で。
私はこの新しい噂を、どこか寂しげな空気を醸し出す兄の祝福で初めて知った。
「まぁまぁ、祝ってくれてるんですから」
「だからいいって事にはなりません!」
本心はともかく、表面的にはなだめようとするコルロハに噛み付く。
「余計に悪いです。全然こっちの話聞こうとしなくて、まだ兄の誤解は訂正し切れてないんですからね」
「いいじゃねえか。どうせあっただろ、何か」
「何かって、何?」
新しく口を挟んだ標的に、ゆっくりと視線を向けながら問う。
「お願い。教えてギサンテ。解らないんです、私。どうして殆ど二人っきりになった事もない人と、そんな噂が流れるのか!」
「え」
「え?」
「ええと」
私の剣幕にすっかり心に距離のできていたセタが、おずおずと口を開く。
「でも昨夜は、姫の寝所にお泊りになったはずでは」
「誰がですか?」
「師団長殿しかいねえだろ、そりゃ」
「そんな訳、ないでしょう」
余りの濡れ衣に、却って力が抜けてしまった。
「昨夜は、顔も見ていません」
「ああ? 嘘だぜ、そりゃあ。だってオレが昨日……」
言い掛けて、言葉が途切れる。何か思い当たった様子で、ギサンテが私の両肩を掴んだ。
「じゃあ昨日の夜、何なら部屋にきた?」
「それなら、ギサンテも見てるでしょう? 入れ代わりに出て行ったんですから」
「白い狼か」
「ええ」
その瞬間、三人の男が同時に「ああー」と無念そうな声を上げ、天を仰いだ。
「すいません。今回は、僕達の早とちりです」
「解りました。今度のは、あなたが主犯なんですね」
いち早く自分を取り戻し、向き直ったコルロハに私は確信を持って頷いた。
「……嫌だな、誤解ですよ」
誤魔化す気があるのかと疑いたくなる薄っぺらな言い訳を遮って、ギサンテが問う。
「で?」
「で?」
「何してたんだ? 狼と」
「聞きたいんですか?」
「心底」
他の二人も同意を示す。
変な人達だと思いながら、私は昨夜の記憶を探り始めた。
本当はぎゅっと抱き付いて、柔らかな毛皮をずっと撫でていたかった。
しかし前回の様に逃げられたら、悲しい所の話ではない。だからそこはぐっと堪え、狼の隣で静かに座るに留まった。
どれほどの間、その姿を見詰めていたか解らない。
それはベッドの上に手足を伸ばし、首だけを持ち上げてまるでこちらを窺う様だ。深海の瞳が、灯火の影を映して揺れる。
手を伸ばして触れたい衝動と戦っていると、狼はやがてゆっくり立ち上がった。ベッドの上をふわふわと歩き、枕元に寄るとサイドテーブルへと首を伸ばす。
その上にあるのは殆ど中身の残ったティーカップと、赤い表紙の童話集だ。
鼻先で赤い本に触れ、それから私に眼を向ける。何度も繰り返すその仕草は、何かを促している様に見えた。
試しに赤い本を手に取ると、獣はテーブルを離れた。その足で隣に戻ると、体を横たえその顎を私の膝に載せる。まるで、本を読んでとせがむ子供だ。
驚きはしたが、それ以上に暖かな何かが胸に溢れる。
そっと白金の毛並みに手を沿えながら、本を開く。声に出して文字を追い始めると、狼は心地よさそうに眼を細めた。
「でもその内に、私も眠ってしまったみたいで。朝になったらいなくなっていて、とても残念でした」
話し終え、今朝の落胆を思い出して足元へ落ちた眼を上げる。
と、ギサンテとコルロハは両手の中に顔を伏せ、声を殺して肩を震わせていた。こちらは、笑っているのに違いない。
だがセタに至っては口に手を当て嗚咽を抑え、頬に一筋の涙を流していた。
「え……ええっ? 私、泣かせる様なお話、しましたか?」
「いいえ。ただ、感激してしまって」
一体、どこに。
問い詰めたいと思ったが、それどころではなくなってしまった。
パパを伴い、サディオが現れたからだ。
「何をしている」
銀色の男は、側近三人の背後から姿を見せた。だから長身の彼らに殆ど埋もれ、隠されていたのだろう。
私の存在に気付いたのは、本当に間近まで迫ってからだ。改めて驚きの声が上がる。
「この国の王族は、大人しくしていられないのか?」
いや、違った。これは皮肉だ。
しかし私は落ち着いて、用意していた言い訳をスラスラと口にした。
「ネウト先生に、診察して頂こうと思いまして。もう随分よいのですけど、念のため、もう少し診ましょうと仰って下さったので」
今いるのは汗臭い鍛錬場だが、これには矛盾しない。ネウト医師の診察室は、ここからすぐだ。実は、ご機嫌伺いに訪ねた兄の所であの質の悪い噂を耳にし、犯人を探すべく足を運んだのだ。
今日に限って、兄と私の護衛はガルバとセタだった。この二人と、パパが不用意な噂を流すとは考え難い。残るは二人。実際、犯人はコルロハで間違いないと確信している。
「診察なら、ネウトを部屋に」
「まあ。お忙しいネウト先生に、そんなわがまま。私には、とても」
さすがにとぼけていると察したらしく、サディオはすっと眼を細めた。しかしそれ以上は何も言わず、ため息めいたものを零しながら顔を背ける。
「セタ、姫にお戻り願え。それから、もう決して部屋から出すな。何を言われてもだ」
「……はい。申し訳ありません」
何かを感じ取る。セタは神妙な面持ちで、礼を示して頭を垂れた。
さあ、と背中を押されたが、私の足は動かない。このまま去れと言う方が、無茶だ。
「何があったのですか」
「説明する謂われが?」
質問に質問で返すのは、余り巧いやり方ではない。その時点で、やましい何かを告白している。
だが問い詰めた所で、サディオが相手では口を滑らせる事すら期待できないだろう。
唇を噛んでいると、ギサンテが笑う。
「このお姫様は、頭がいい。そんなんじゃ納得しないぜ、師団長殿」
「納得する必要はない。頭がいいならば尚更、蚊帳の外にいて頂く」
背を向けてから、一度もこちらを見ようとしない。
昨日までとは、まるで違う。これは拒絶だ。サディオの背中は、私を拒む。私だけを。
「参りましょう」
今度は、セタの声に従った。
何故だろう。
最初からなら、まだ解る。けれども今頃、私を避ける理由は何?
まるで苛む咎の様に、その疑問が胸の中から消えなかった。