(七)
(七)
まだ病み上がりの兄を休ませ、ガルバを残して寝所を出るといきなり問われた。
「黒い風はどこだ」
私は思わず足を止め、呆れ半分にサディオを見上げる。ここから見えるのは、横顔だ。
「まだ探してらっしゃるんですか」
「当たり前だ」
杖代わりに掴まった腕を引き、顔をこちらに向けさせる。
「何故?」
不思議でならない。
戦時下なら解る。敵方の人間を知る事は、勝つために有用だ。だからこそ、勝負が付いた今もまだ、固執する理由があるだろうか。
黒い風は、この国を捨てたのだ。もう二度と、私達に与する事などありはしないのに。
けれどもサディオは、私の疑問こそ理解できないと言う口振りだ。
「あれほどの軍師だぞ。軍人なら誰でも、言葉を交わしてみたいと願うはずだ」
「はあ、そう言うものですか」
いかにも、買い被りとしか思えない。
「どこへ逃がした?」
「逃がしてなど、おりません」
これは本当。
だがサディオは信じるつもりがないらしく、歩く様に私を促しながら言葉を継ぐ。
「気付くべきだった。せめてあの時に」
「あの時?」
「今から戦が始まると言う直前に、黒い風が姿を暗ませた」
インヴィオと接する、西の国境での事だ。敵の軍勢が目視できる、この期に及んで。
作戦の全てを取り仕切っていた軍師が、いなくなったのだ。
これは有り得ない。即座に、王への反逆と言っていい。だが事実、消えたのだ。
「手痛い裏切りでした」
「冗談なら、笑えないな。あれは最初から、そう計画していたのだろう」
「まさか」
空々しい否定が、大きな窓から陽の降り注ぐ廊下に響いた。それに重なる足音は、乱れる様子もなく規則正しい。
「いいや。俺も、軍も、いいように引っ張り出されたのだろう。お前達の思惑通り」
「思惑? あれが逃亡したために、私達は国を失ったと言うのに」
我が軍は、黒い風を信頼し過ぎた。
あれの命がなければ、指一本すら動かせぬほどに。
それがいない。士気の問題だ。これでは勝てる相手にも、勝てなかっただろう。
増して、戦う相手はかの名高い紺碧の盾だ。
結果、国境でインヴィオと相対した部隊は、抵抗もせずに降伏した。
ただしこれは、王命でもあった。敗北を確信した時点での降伏決定を、王は指揮官に許していたのだ。
人は財産。
今回の戦いで、戦死者はない。
「先ほど、兄上も認めていたぞ。インヴィオが背後にいれば、アルディデオホに国土を返せる。リスクを犯さずにな」
「そのために、国を滅ぼしたと? わざわざ、国を小さくするために? まさか。兄がああ言ったのは、この状況になったからこそ」
「滅びはしない。インヴィオは、他国を侵略しないからな。それに、大きくなり過ぎれば歪むものだ。軍でさえそうだ。国なら、尚更。倦んだとしても、不思議はない」
「意外です。あの兄が、倦むほど真摯に国を治めていたと? それに、国は残るとしても、国主はそのままとは参りません」
王座はインヴィオに手を出さない誰かに、新しく据え換えられるはずだ。
余程の酔狂でもない限り、自ら地位と権力を捨てたがる者はいない。そう考えるのが普通だと思っていたが、サディオは薄くにやりと笑う。
「王位に興味のない王族には、心当たりがある」
「そうですね。例えば、あなたとか」
銀色の髪が揺れる。堪え兼ねた様子で、隣で小さな笑い声が上がった。
「もう、乗ってしまったからな。途中で降りはしない。だから、白状してしまえ」
「告白しなくてはならない事など、何も」
「齟齬がある。最初からだ。隠し通せるとは、陛下も考えていないだろう。お前も、無理をする事はない」
そうなのだろうか。
黙ったままの私に、サディオは「では」と答えられない問いを投げる。
「では何故、お前達は我がインヴィオに戦を仕掛けた?」
「さあ。兄の考える事など、私には到底」
サディオは足を止め、片方の眉だけを持ち上げて私を見下ろす。
「口の減らない女だ」
そう言って、腕を解いた。見れば、私に与えられた部屋の前だ。
扉の前に一人残されて、この場に二人だったのだと改めて気付く。ずっと頭の中にあった事が、瞬いた。
私は立ち去ろうとする男を、反射的に引き留める。
「何か、言う事がおありでは?」
「……何だ」
本気で知らない顔なのが、余計に腹立たしい。
「私、怒っているんです」
「そうか」
「あなたにですよ」
あの日、いきなりキスをされてから。今日までその話題には触れずにきたが、それは機会がなかったからだ。
これは指先に刺さる、細かな棘。無視する事もできるけど、してはいけない。その内に膿んで、熱を持つに違いないから。
「それか」
「それです。あの事について、まだ謝罪を頂いておりません」
彼は少し考える仕草で、首を傾ける。
さらさらと音が聞こえそうに銀髪が流れ、目元で揺れた。
「嫌だったか?」
「……は?」
「不愉快だったのなら、望む通りに」
謝罪でも何でもしようと言う。
頭が、腐っているのかも知れない。
「そんな問題では」
「では、どんな問題だ」
問われて、ぐっと詰まる。
何が問題か?
そんなの解らない。ただ、胸にもやもやと何かがあって、息苦しくて堪らない。
どうすればこれが晴れるかと、そればかり考えているに過ぎないのだから。
「嫌悪は、激しい感情だ。愛と違って、見過ごしたりはしないはず。すぐに答えられないなら、心底嫌とも思えないが」
何を言っているのだろう、この人は。
からかっているつもりだろうか。挑戦なら受けて立とうと見上げると、届くかどうかの囁き声が鼓膜をくすぐる。
「迷うなら、もう一度試そうか?」
立ち去ろうとしていたから、私達の間には数歩の距離。そこから少しも近付いてはいないのに、私は圧された気がして後退った。
厚いドアの感触が、背中を支える。
そこから、今度は純粋な驚きに瞠った眼をサディオに向けた。
「そう言う、人だったんですか」
「いいや」
自身、持て余すように。
「どうかしているんだ、今は」
本当に、驚かされる。
今、目の前にいるのは誰だろう。こんな人ではなかったはずだ。もっと冷たく、もっと孤独で、もっと私の苦手な……。
「サディオ師団長」
突然聞こえた第三者の声に、私は比喩ではなく飛び上がった。
一瞬、サディオもその表情にギクリとしたものを浮かべたが、さすがに要職の軍人だ。動揺は早々に覆い隠し、澄ました顔で近付いてくるコルロハを待った。
「どうした」
「セタが戻りました」
その名には、覚えがある。確か彼も、師団長付きの側近だ。私がまだ会っていない最後の一人だったが、留守にしていたのなら当然だろう。
敬礼しながらされた報告に、サディオは軽く頷く。それから私に向けた眼を伏せ、わずかばかりの礼を取ると踵を返した。
その背中で、後に続こうとするコルロハに命じる。
「残れ」
「姫君の護衛ですか?」
護衛と言えば聞こえがいいが、要するに監視役だ。命令ならば否応はないはずだったが、コルロハは不思議そうに首を傾げる。
「おかしいな。いませんか? ギサンテが、姫の居室に控えているはずですけど」
「えっ」
私は慌てて身を反し、自室の扉を開け放った。
笑い死に、とでも形容するのが相応しいだろうか。
床に額を擦り付けて突っ伏したギサンテが、ひーひーと苦しそうに肩を震わせていた。きっと眼には、涙すら浮んでいるに違いない。
それで、全てを察した。聞かれていたのだ。私達の会話は、ギサンテに。
目眩を覚え、私は扉に頼ってずるずると崩れ落ちた。
縋るのに似た気持ちで視線を上げると、隠す様に片手を当てて、顔を伏せたサディオがいる。
最悪だ。