(六)
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インヴィオとトルトゥガリスタ、そしてもう一国のハルディンマゴを合わせて「大陸の楔」と呼ばれる。
これは山脈と海に挟まれ、大陸の少しくびれた辺りを塞ぐ形で三国が領土を持つためだ。事実、この大陸の楔が存在するために数々の列強も以北と以南に分けられる。楔の領土を侵してまで、戦を起こす国はないのだ。
楔の三国には、共通点がある。その繁栄が国土よりはむしろ、人によるものだと言う事だ。
インヴィオは神獣の国、ハルディンマゴは魔術師の国、そして我がトルトゥガリスタは知識の国と呼び替えられる。
これらの異称は、それぞれの国を実によく象徴していた。
インヴィオの民は信心深く、誇りと正義を重んじる。
ハルディンマゴはもう一つ、「死の商人」の側面を持ち、その高い技術を値段次第で誰にでも売った。
そして我が国は知識の国と呼ばれる通り、叡智に優れた人材を数多く輩出する国だ。
人は財産。
これは王座に刻まれた一文だが、トルトゥガリスタの法は正にこれに倣っている。
子供の労働を午前中は禁じ、読み書きと簡単な計算を教えるクラスは無料。ついでに昼食も国の予算で補われるので、貧しい家庭も子供を学校へ送り出す。
ちなみに識字率は、ほぼ百パーセント。
だからこの国では下女だろうが馬小屋の馬丁だろうが、文字は読めるのだ。
この事実に、真っ青になったのはパパだ。
そりゃあ、そうだろう。疑いの根拠自体、誤解でしかないのだから。
運が強いとは、こう言う意味だ。
こちらに取っては命に関わりかねない秘密を、勘違いで看破されてしまった。
「またあっさりとバレたもんだねぇ」
「あっさり認めたのは、兄上じゃありませんか。私は、ちゃんと曖昧にしてましたよ」
私はアサレアのカップに紅茶を注ぎながら、ため息を零した。
その紅茶をソーサーごと差し出すと、兄は起き上がって受け取った。
部屋の隅に控えたガルバにもカップを示すが、これは首を横に振って辞退された。
眼を戻すと、アサレアはベッドの上で半身を起こし、座った格好になっていた。寝間着の肩に、上着を掛けてやる。
「ありがとう」
「治った途端にまた寝込んだら、笑い話にもなりませんよ」
「そう? 意外と笑えると思うけど」
もう随分いい様だが、この人は風邪をひいて寝込んでいたのだ。この過ごし易い季節に。
アサレアは割合に体の弱い人で、よく寝込む。いつもならマヌケだ何だと罵ってやる所だが、今回は少し心配した。五日も面会謝絶にされていたからだ。
ちょうど私の身分がサディオ達にバレた、その翌日だ。朝には熱を出していて、ネウト医師の診察を受けた。
熱のせいかどうか。診察中の寝室に乗り込んだサディオに問い詰められ、アサレアは私を妹だと認めてしまったのだ。しかも、「妹をよろしく」とまで言ったらしい。
その後、アサレアはネウト医師の判断で隔離処置を取られた。理由は感染力の強い風邪のため、だそうで、結局今日まで私も面会を許されなかった。
兄の寝室から閉め出されている間に、私は下女の部屋から王族として使用していた部屋に戻された。
同時に着る物も柔らかな絹のドレスへと改められたのだが、これには少し驚きを伴った。
下女でいたのはたった数日だったと言うのに、着慣れたはずのたっぷりと布を使ったドレスの重さには閉口させられた。肌触りだけでなくそう言った面も、下女の木綿スカートとは比べものにならないのだと知った。
そうして忙しく、戸惑っている内に時間が過ぎた。
最初は、もちろん腹を立てたのだ。
こんな重大な秘密を呆気なく認めるとは、どう言うつもりかと。当然、顔を見たら文句を言うつもりでいた。だがその機会は中々得られず、病気だと聞かされたまま五日も会わせて貰えない。
これはさすがに、心配になる。
今日になっていざ顔を見たら、お元気そうで何よりですとしか言えなかった。
つまり、五日の間にすっかり頭が冷やされてしまって、怒るタイミングを逃したのだ。もしかするとこの面会謝絶はアサレアの計略だったのではないかと、今は考える。
ベッドの傍に椅子を寄せ、兄に文句を言いながら紅茶を飲んでいるとお客がきた。
「邪魔か」
「いいえ、まさか。サディオ殿も、紅茶をいかがです?」
アサレアが空いた席を示して誘うと、サディオは携えた剣を椅子の横に立てかけ、腰を下ろした。お茶を用意するために立ち上がり、私はふと頚を傾げた。いいのだろうか。
「私がお淹れして、宜しいんですか?」
「毒を盛る気があるか?」
すぐに意図は通じたらしく、逆に質問で返された。
ある、とは言えない。ない、と言うのは、しかし何だか癪に触る。そんな従順なマネは、とてもできない。
「残念ながら、今あなたを死なせて差し上げる訳には行きません」
一度天井にやった眼を、椅子に納まる銀色の軍人に戻した。と、同時に、口から零れる様に出てしまった言葉がこれだ。
「アルセ、王族と言ったって、もうないに等しい身分なんだからね? 首と胴体が離れる時は、離れるんだよ?」
口の利き方には気を付けなさい。と、兄が注意する。この人に言われてしまっては、終わりだと思うのに。
そこへ、何かを思い出そうとするふうに自分のつま先辺りを見詰めたサディオが、追い討ちを掛ける。
「いや、妹君はずっとこうだ」
「それで下女と言うのは、無理のある設定だったねぇ」
仲良しか。
憮然とした表情を隠すつもりもなく、紅茶で満たしたカップをソーサーに載せて突き出す。乳母が見ていたら「もっと優雅に!」と悲鳴を上げて叱られる所だが、サディオは気にしたふうもなく受け取った。
そして口元に運び掛け、唇に触れる直前でカップがふと止まった。
「何故だ?」
銀髪に飾られた、深く青い眼が見上げてくる。
「何故、今は俺を死なせられない?」
今は、と言う部分が気になったらしい。
私は、呆れ半分に答える。
「当然でしょう? あなたが今の状況で死ぬか、去れば、すぐにでも他国が攻め入ってきますから」
状況は、今よりずっと悪くなる。
今、我が国が無事でいられるのは、インヴィオの支配下にあるからだ。そしてその指揮を取っているのは、紺碧の盾。つまりサディオと言う事になる。
そうでなければ、我が国と南の国境線を接するアルディデオホが黙ってはいないだろう。
あの国はこの十一年の間、何度も戦火を交えた国だ。兄の治世で拡大した領土は、全てこの隣国から奪った。
始まりは、兄が即位する事になった反乱で、我が国の守りが手薄になった頃だ。国力の低下を見越して、挑んできたのはあちらだった。こちらもそれに応戦した結果、隣国の国土を奪ってしまったのだ。
以来、アルディデオホは我が国の隙を虎視眈々と伺っている。
今回の敗戦は、そんな隣国に取っては願ってもない朗報のはずだ。しかも、負けた相手はインヴィオなのだから。
インヴィオは、神に傅く国だ。
だから決して、他国の領土を侵しはしない。故郷だけを守り、愛する。そう言う人々なのだ。
亡国の民として、我が国の民が有り得ないほど楽観的な理由は、この辺りの事実にもある。
つまり、このトルトゥガリスタが、インヴィオの一部になる事はない。属国の扱いにはなるだろうが、国としては残るだろう。
そして彼らは、いずれ去る。この国に敗戦の爪痕だけを残して。
アルディデオホは、それを待っているはずだった。
「その先は? 俺は、いつまでもここにはいない」
「奪った領土は、返すつもりでいます」
サディオの問い掛けには、アサレアが答えた。
「元々、国土が欲しかった訳ではないのだし」
「それはおかしい。度重なる戦いで、トルトゥガリスタは国土を拡大してきたはずだ」
「仕方がなかった」
兄は微笑む。
苦しさを誤魔化す様に。
「予が即位した訳を?」
「ああ、確か、先王の王弟が反乱を」
「そう。叔父が王族の血を尽く滅ぼし、予とアルセしか残らなかった」
私は、ベッドの兄から眼を逸らした。
あの時の粘つく様な血の匂いと、悲愴な気持ちは忘れられない。そして今も生々しく、事ある毎に胸を焼いた。
あの時、生き残った私達は、最後の王族になるだろうと覚悟したのだ。
「それほどの、激しい混乱の後だ。アルディデオホから攻撃を受けた時、この国は極端に衰弱していた」
「しかし、勝った」
「余力がなかった。我々にできたのは早々に勝負を決めて、お客様に引き取って頂く事だけだった」
兄は薄く笑んだまま、首を横に振った。
国境を守るのは難しい。領土が広がれば、国境線も長くなる。だから国土の拡大は、不本意な結果だった。
しかし私達が国の中枢に携わった頃、もう既にこの国はボロボロだった。国境の守りを固め、他国の軍と睨み合うだけの力は残っていなかったのだ。だから却って、戦う他に生き残る道がなかった。
あの頃から考えれば、現在の兵力は何倍にも増えた。だが奪った国土が災いし、全ての国境を守備する事は今も難しい。
だから、考えた。
この国を、元の姿に戻せないかと。
半分の国土なら、充分に守って行けるのだ。
「今なら返せる。半分を与えれば全て寄越せと言い出し兼ねない国だが、インヴィオが背後に見えればあちらも無茶は言い出さないでしょうしね」
「我らを、利用すると?」
言いながら、皿に戻すカップが空だ。サディオからそれを受け取り、熱い紅茶を注ぎながら兄を援護する。
「ご不満ですか? この国が吸収されてしまったら、インヴィオは国境の約半分をアルディデオホと接する事になりますよ。これは中々、厳しい状況では」
「……なるほど」
口を挟んだ私を見上げ、サディオは唇を歪めた。皮肉げな笑みに、見えなくもない。
どこでそう思ったのか知らないが、紅茶を受け取りながらサディオが言う。
「似ていないと思ったが、やはり兄妹だな」
「冗談でも、やめて下さい」
不本意な事態に否定の意を表すと、ベッドの上からアサレアの忍び笑いが聞こえた。